2011年12月23日金曜日

安全運転の総理に乗り越えられるのか

 今年はまさに激動の年であった。東日本大震災をはじめ、アラブの春、ギリシア危機、先日の金正日の死去などなど、世界各地で大きな出来事が相次いだように思う。

 さて、野田政権が発足してから、はや3カ月。良くも悪くも波風立てず、安全運転でここまでやってきた。しかし、ことを穏便に済まそうとするあまり、ある面では政治停滞を招いてしまったことは否定できない。例えば、年金改革は、与党内や国民からの反発を恐れたのか、あまり進展しなかった。

 また、首相は18日の日韓首脳会談で、韓国人元慰安婦をめぐる賠償請求問題について「決着済み」と指摘しつつも、「これからも人道的見地から知恵を絞っていこう」と述べたそうだ。韓国側に配慮したのだろうが、こういう譲歩をするような発言は、相手側を増長させるだけである。なぜ、決着済みとだけ述べて、突き放すことができないのか。また、在韓日本大使館前に慰安婦の像が設置されたことに対する抗議もなかったという。首相の波風を立てまいとする姿勢が完全に裏目に出たかたちだ。

 来年は、ロシア、韓国、中国、台湾、フランス、アメリカなどで、その国のリーダーを決める選挙が相次いで行われる。また、北朝鮮では、金正恩体制が本格的に樹立する可能性も大いにある。このように2012年は世界が大きな変化を迎える年である。野田総理の安全運転で、この変化に対応できるのだろうか。


(坂木)

オタクたちのホモソーシャルな関係

 今回はジェンダー論第二弾である。イヴ・セジウィックのホモソーシャル理論を用いて、現代のオタクたちのジェンダー意識について論じたい。結論からいうと、オタクたちのジェンダー意識は、ずばりホモソーシャルを体現したものであるといえる。

 ホモソーシャルとは、イヴ・セジウィックに提唱された、異性愛男性の友情・同胞愛によって支えられた連帯関係を指す、「ホモフォビア」と「ミソジニー」から成る概念である。セジウィックによれば、古代ギリシアから近代に至るまで西洋はホモソーシャルな社会であったが、ホモソーシャルはホモセクシャル(同性愛)と断絶したものでなく、連続したものであったという。ホモソーシャルな社会は潜在的に同性愛的であった。彼女は、男性が異性愛関係をもつのは男同士の究極的な絆を結ぶためであり、女性は男同士の絆を維持するための媒介であるという。ホモソーシャルな社会では、女性は男同士が絆を結ぶための手段になっているのである。これは、レヴィ=ストロースの「女性の交換」論、すなわち、女性は婚姻の相手としてではなく、男同士の絆をゆるぎないものにするために交換される物であるという考えを受けたものである。この女性の交換から、「ホモフォビア」=同性愛嫌悪と「ミソジニー」=女性嫌悪が生まれる。女性を介しない直接的な関係(=同性愛)を避け、同時に女性を単なる道具に貶める(=女性嫌悪)からだ。

 さて、ホモソーシャル理論の説明はここまでにして、本題に入ろう。論を進めるにあたって、「ホモフォビア」と「ミソジニー」という二つの観点から考察する。なお、ここでいう「オタク」とは、「マンガやアニメを重度に愛好する人間」に限らず、例えば、○○速報」といった掲示板に書き込みを行う者も想定している。しかし、私にはどのような階層の人々がそのような掲示板に書き込みをしているのか断定できないため、そうした人々も便宜的に「オタク」と呼んでおきたい。もしかすると、両者は違う階層なのかもしれないが、おそらくはほぼ重なるだろうと考えている。

「ホモフォビア」

 こちらについては、あまり論じる必要はないだろう。オタクたちの「ホモフォビア」は明らかである。例えば、彼らがBLややおい、それを好む「腐女子」たちに嫌悪感を露わにすることや、掲示板などで同性愛的な内容のスレに、茶化すような書き込みを行うことからもわかる。

「ミソジニー」

こちらも、「ホモフォビア」ほどではないにしろ、顕著に表れている。例えばコミケなどで、自身の愛好するキャラクター(それは女性であることが多いだろう)が描かれた同人誌を購入するとき、まさに描き手と読み手の間で、女性の交換がなされているといえる。また、好きなキャラクターをめぐり熱い会話を交わすとき、女性を媒介にホモソーシャルな関係を構築しているのだ。

以上のように、オタクたちは、「ホモフォビア」と「ミソジニー」に立脚したホモソーシャルな関係を見事に体現しているのである。

誤解のないようにいっておくが、私は何もオタクたちを非難しようとしているのではない。私がいいたいのは、ホモソーシャル理論の妥当性である。セジウィックのホモソーシャル理論は英文学を対象としたものであるし、本人もこの理論が他の対象にも当てはまるかはわからないと述べている。

しかし私は、ホモソーシャル理論は英国を離れ、遠いこの国でも通用すると考えている。実際にホモソーシャル理論は、オタクたちの言動や性規範を明快に解明してくれる。また、BLややおいに関しても、男性同士のホモソーシャルな関係をセクシャルな関係に読み替えたものであるという指摘がしばしばなされる。

さらに、近年のいわゆる「男の娘」ブームも、ホモソーシャル理論で説明できるのではないかと考えている。外見は女性、中身は男性という「男の娘」は、男性自身が媒介たる女性に扮することによって、ホモソーシャルな関係とホモセクシャルな関係を同時に実現する存在なのではないだろうか。


(坂木)

2011年12月10日土曜日

高校野球の女子マネージャーじゃないけど、ドラッカーの『経済人の終わり』を読んでみた。

『経済人の終わり』はドラッカーの処女作であり、全体主義について書かれたものである。私の理解では、本書の趣旨は以下の通りである。簡潔にいうと、ファシズム全体主義が登場した背景には「経済人」という概念の崩壊があった。

マルクス社会主義は階級をなくすことができず失敗に終わり、ブルジョア資本主義は、自由と平等の実現という約束を履行できなかった。マルクス社会主義とブルジョア資本主義の信条と秩序は、いずれも個人による経済的自由を実現すれば自由と平等が自動的にもたらされるという目論見が誤っていたために失敗した。

そのため、双方の基盤となっていた人間の本性についての概念、すなわち「経済人」の概念が崩れた。経済的満足だけが社会的に重要であり、意味があるとされる。経済的地位、経済的報酬、経済的権利は、全ての人間が働く目的である。これらのもののために人間は戦争をし、死んでもよいと思う。そして、他のことはすべて偽善であり、衒いであり、虚構のナンセンスであるとされる。

このように人間を経済的動物(エコノミック・アニマル)とする概念であった「経済人」の社会が意味を失い、合理を失った。マルクス社会主義とブルジョア資本主義の旧秩序が崩壊した後も、新しい秩序は現れなかった。「経済人」概念の崩壊により、一人ひとりの人間は秩序を奪われ、世界は合理を失ったのである。

こうした中で現れたのがファシズム全体主義であった。しかし、ファシズム全体主義は何ら新しい信条や秩序を提供したわけではなかった。むしろそれは、古い形態の維持を可能にしつつ、同時に新たな実体をもたらし、新たな合理を与えた。そして軍国主義による脱経済化をはかった(ファシズム全体主義についての詳しい記述は本書をお読みいただきたい)。

私が注目したいのは、まさに「経済人の終わり」である。ドラッカーは経済人の終わりを宣言したが、果たして本当に「経済人」は終焉したのだろうか。確かに、全体主義は「経済人」に代わる新たな概念、秩序を提供することはなかったし、その敗北によって全体主義も息の根を止められてしまった。しかし、だからこそ、いまだに「経済人」に代わる秩序を見いだせていないのである。したがって、人々は「経済人」にすがるしかない。

少なくとも、戦後日本はまさに「経済人」の時代だった。経済的満足だけが社会的に重要であり、意味があるとされる。経済的地位、経済的報酬、経済的権利は、全ての人間が働く目的である(さすがに、これらのもののために人間は戦争をし、死んでもよいとは思わなかっただろうが)。バブルの崩壊でようやく「経済人」に懐疑の目が向けられて始めているというところだろう。さらにいうならば、近年のネオリベ的改革は「経済人」を復活させようとする試みではないかと私は睨んでいる。

この「経済人」概念には、決定的な欠陥がある。それは、何のために経済的地位、経済的報酬、経済的権利を得るのかということである。要するに、何のために金儲けするのか。そうした疑問が長い間置き去りになってしまった。いわば、本来であれば手段であるはずの金儲けが目的化してしまった。経済的に豊かになったはいいが、何のための豊かさなのか。それを考えるとき、実は「経済人」なるものは何ら我々に秩序を付与するものではなかったことが明らかになる。人々は虚無感におそわれる。その「大衆の絶望」がファシズム全体主義をもたらしたのだった。であるとすれば我々は、未だに亡霊のようにさまよっている「経済人」を終わらせ、秩序を取り戻さなければならないのだ。

賢明な読者はお気づきかもしれないが、かようなときにこそ宗教の必要性が出てくる。いうまでもなく、宗教は人間に秩序を付与するものだからである。しかし、ドラッカーは、キリスト教とその担い手たる教会は全体主義と対峙することはできなかったと述べる。とはいえ、ドラッカーが宗教の力に期待を寄せていることは間違いない。ここに、今日的な課題がみえてくるのではなかろうか。

先述した通り、「経済人」は空虚な概念である。それは我々に、経済活動へのインセンティブは与えるかもしれないが、我々の生に対する根本的な意味を付与しない。では、我々はどこに秩序を求めるべきなのか。保守主義の観点からいえば、それはやはり宗教であり、我々が培ってきた伝統に他ならない。しかし、「ヨーロッパの遺産たる知的、精神的価値への回帰は、それだけでは、社会的にいかなる影響力ももたず創造的でも生産的でもありえない」とドラッカーが述べるように、単なる復古で解決できるほど簡単なことではない。伝統的諸価値をいかに現代にあった形で応用していくか、それこそが今もっとも必要なことである。

補遺

ドラッカーの偉大さは、経済学が前提としてきた「経済人」概念の終焉を宣言したことにあると私は考えている。通常、経済学や経営学というのは、人間は自身の利益を最大化するように行動するものと仮定し、いかに効率よく多くの利益を獲得するかという点を重視する。しかしドラッカーはそうした「経済人」モデルの限界性を見抜いていた。その上で経営に関する多くの著書を執筆したのだから、本当に驚嘆する。彼にとっての経営学は、単に利益を出すことではなく、それ以上のものに価値を置いていたのだろう。

翻って、今日ドラッカーの著書がまさに「経済人」たるエコノミック・アニマルどもに利用され、ビジネス本の地位に貶められている状況をみるに、残念でならない。ウィキペディアには、柳井正氏が、ユニクロでドラッカー経営を実践しているとして取り上げられているが、本当だとすれば、やはりこの国ではドラッカーが「経済人」に蹂躙されているといわねばならない。周知のように、ユニクロは大学一年生でも採用するという方針を打ち出した。これは、早い段階から「経済人」を養成する試みに他ならない。

こうした状況を鑑みるに、未だにこの国では「経済人」が圧倒的に影響力を持っている(それは日本に限ったことではないだろうが)。TPPの問題にしてもそうだ。推進派のいうように、関税自由化で日本の輸出が増え、GDP増加につながるのはいいとしよう。しかし、GDP増加に何の意味があるのか、彼らは胸を張って答えられるのか。残念ながら、彼らからその答えを聞いたことはない。いい加減、経済よりも高次にあるものの存在に目を向けるべきだろう。それこそがドラッカーの言いたいことだと私は思う。

(坂木)

2011年12月5日月曜日

書評:『上野千鶴子に挑む』(千田有紀[編]、勁草書房、2011)

上野千鶴子といえばフェミニズム、社会学の泰斗である。その上野の退職を機に彼女の研究室の出身者が寄稿した論文を編集したのが本書だ。本書は、初期のフェミニズムから最近のケアの社会学まで、上野の研究の軌跡をたどり、それぞれに批評を加えるという構成となっている。

 この書評では、主としてフェミニズムについて論じたい。ただ、私自身は上野の思想に詳しいわけではない。フェミニズムの入門書はいくつか読んだことがあるが、他に彼女の著書を読んだというわけでもない。したがって、あくまでも本書を手掛かりに論じていくわけだが、それゆえ至らない点があるかもしれない。

①上野フェミニズムの政治性

 私の知っているある社会学者が上野のことを政治的と評していた。その教授も家族やジェンダーを研究対象としており、いわば上野と同じようなフィールドの学者からそのような言葉が発せられたということに少々驚いた(しかもその教授も女性である)。本書を読んでその意味がわかった。すなわち、彼女はフェミニズムを社会的ムーブメントにするために、積極的に党派性を引き受けたのであった。例えばそれは、いわゆるアグネス論争に関しての以下のような記述にもはっきりと見て取れる。

 
この上野の参入は、本論争を、芸能界におけるアグネス批判から子連れ出勤は是か非かをめぐる「国民的大論争」に発展させた。上野は、「子連れ出勤という一般性のレベルに置きかえて」考える文脈をつくり、「議論を起こすための仕掛け」として、あえてアグネス擁護にまわった方がいいという「戦略的な判断」をしたのである。(p.36)


 このように、学者という立場をいささか逸脱している上野の姿勢は良くも悪くも“政治的”である。彼女の姿勢をみて、学問の―とりわけフェミニズムの―中立性が損なわれたと感じる者もいるだろう。だが、上野自身が述べるように、フェミニズムが実社会での運動から発展してきたものである以上、それが党派性を帯びるというのはやむを得ないというのも事実であるし、実際にフェミニズムを日本に浸透させたという上野の功績も大きいだろう。



②上野フェミニズムは何を目指すのか

 そのような上野の功績を認めながらも、私は上野の唱えるフェミニズムには賛同できない。正確にいえば、理解できないのである。

 上野のいうフェミニズムとは「女が男と同じくらい強くなる」という類のものではない。女が男と同じ土俵に立つのではなくその土俵から逃走する、「難民化」なのだという。「差別からの解放は、一級(市民)になることのように見えるが、実のところそれらは自らの解放の条件を強者の手に渡すということ」であり、したがって「敵を相手にしないことで、敵が要求している承認と共に共犯化を価値のないものとして無視する」。「逃げよ、生き延びよ」。これこそが「難民化」の思想である。

 そして、国民や民族という変数にも還元されず、女という変数にも還元されず、個人を構成するさまざまな変数の交わった地点にいる「わたし」を主張する。

 言葉では理解できるものの、結局のところ上野が具体的に何を目指すのか、よくわからない。現代社会が男性によって支配されているのならば、その社会から逃亡するのか。しかしどこへ?

 また、「わたし」というものが多様な変数から構成されているのは事実だとしても、ではその中でフェミニズムは何を目指すのか。女という性が自身を構成する一要素でしかない以上、女性性を前面に押し出すフェミニズムにどれほどの価値があるというのか。この主張はもしかすると、今まで女性性ばかりに着目してきたフェミニズムの否定になりはしないだろうか。

 さらにいえば、国民や民族という変数にも還元されず、女という変数にも還元されず、個人を構成するさまざまな変数の交わった地点にいる「わたし」を叫ぶならば、男もそうであろう。当然のことだが、男性も男という性だけに還元される存在ではない。男とて、さまざまな変数の交わった地点にいる「わたし」に変わりない。上野の主張は当たり前すぎるほど当たり前だ。

 上野フェミニズムは何を目指すのか。上野の研究を丹念に探っていけば、答えがみつかるのかもしれない。しかし、本書も論者たちがそうした具体策に何ら言及していないところをみると、おそらく上野自身もそうなのだろう。


③女たちに裏切られたフェミニズム―「かわいい」への逃避行

 さて、ここで上野フェミニズムから離れ、フェミニズム全般について論じたい。私は常々、日本社会において、あるいは一般女性の中で、フェミニズムというものが全くといっていいほど浸透していないと思っている。個人的な体験で恐縮だが、ネットの掲示板で、デート費用は男性が負担するべきという女性が未だに多数派であることを知って唖然としたことがある。また、ファッション誌などでは、旧態依然として異性にモテることが至上命題かのごとく語られている。こうした現状をみてもわかるように、多くの女性は自立よりも、男性に依存するほうを選んでいる(もちろん男性についても同様だが)。

 こうした中で、本書で最も印象に残っているのが、第4章「「二流の国民」と「かわいい」という規範」(宮本直美)である。本章での主張は要約すれば以下の通りである。「かわいい」という言葉の意味の特性は、相手の存在を決して脅かさないことであり、その意味で相手を絶対的に安心させることである。そしてそれは、常に相手より下の位置にいて愛されることを望んでいる、従属性、劣位が組み込まれているのである。「かわいい」という言葉が日本女性の規範となっている現在、女性たちは、自ら意識的に二流国民であろうとするのではなく、「かわいい」に憧れることによって瞬時に従属的な立場に置かれている、いや、自らそれを望んでいるのである。

 全く以て筆者の言う通りだろう。上野が「かわいい」を「女性が生き延びるための媚態の戦略」と喝破したように、「かわいい」は、女性が男性に依存するための装置なのである。そして女性に「かわいい」を求める男性もまた、女性を従属させることについて共犯関係にあるのだ。女は男に依存することで必要な保護を得られるし、男性も支配欲を満たすことができる。両者のニーズを叶えるのが「かわいい」という装置というわけだ。

 であるとするならば、女性の自立を唱えてきたフェミニズムは、その味方であるはずの女性自身によって裏切られてしまったといえる。多くの女性は、意識的にせよ無意識的にせよ、自立など望んでいないのである。だからこそ、フェミニズムは一般女性に浸透しなかったのだろう。そして、自立することに伴う責務や苦痛などを放擲し、「かわいい」二流国民へ逃避行したのであった。

 「かわいい」二流国民へ逃避行してしまった女性たちにフェミニストはどう対処するのだろうか。もはや、フェミニストの敵は男性だけではない。むしろ女性たちをどう“啓蒙”するのか、これがフェミニズムにとって焦眉の急であろう。

(坂木)

2011年12月3日土曜日

橋下氏が当選して

大阪府知事選挙、大阪市長選挙のW選挙で注目を集めていた大阪だが、1週間たち、ある程度落ち着いてきたように思われる。私は坂木氏に、橋下氏擁護論を書いた立場として、当選についての論評を書けと言われてしまったので、今回、そのことについて書いてみたいと思う。とりあえず、個人的には橋下氏が当選してよかったと思う。ただ、府知事選でも維新の会が勝ってしまったことは、ブレーキ役がいないという意味でやや危惧している。倉田氏ならば、維新の会に一定の理解を示しながら、適切なブレーキをかけてくれると期待していたからである。

結果は皆さんがご存知のように、橋下徹氏が大阪市長となり、大阪府知事に松井氏が当選するなど、大阪維新の会が圧倒的勝利を収めた。あらゆるメディアが、この結果について見解を述べているが、私が思うに今回の結果は簡潔に以下の2点で説明がつくと思う。

①橋下氏には良くも悪くもカリスマ性があった。

これは言うまでもないが、橋下氏独特の過激な言葉の言い回しは、まさに現代社会において、「ワンフレーズポリティックス」とも揶揄される、小泉氏のポピュリズム的手法を的確に再現したものであった。私は「独裁」であったり、その他の一連の過激な発言に関しては支持していない。しかし、一方でこれだけ情報の氾濫した現代において、旧態依然とした言質を取られまいとするあいまいな言い回しに終始してきた政治家たちを「熟議」と表現するのもはばかられる。

そういう意味では、民主主義社会において政治家が直接国民に語りかける、という小泉氏や橋下氏のようなスタイルを私は完全には否定できないと思っている。むしろ、すべての政治家はしっかり国民に向けた言葉を持つべきである。そうした土壌の上で、熟議を確立しなければ、政治の成熟はありえないと思っている。少なくとも小泉氏や橋下氏の功罪についてただ「ワンフレーズポリティックス」の言葉で終わらせてしまっている方は、現代社会の情報の特性について全く理解していないのではないかと疑問さえ感じる。

ただこうした扇動がうまくいく背景として大阪の閉塞した状況があることも否めず、そうした意味では冷静な議論が十分できていないとの批判は当たっているとは思う。


②橋下府政は大きく変化し、平松市政は全く変化しなかったこと

結論から言えば、橋下氏はいつ財政再建団体に転落してもおかしくなかった大阪府の財政状況をある程度改善させた。代表的なものは「臨時財政特例債」を除いた財政の黒字化、減債基金への積み立ての再開(それまでは一貫して減債基金を切り崩し、かろうじて財政を維持してきた。結果として財政破たんのカウントダウンを速めていた)などその政策は数多い。その代償はあまりにも大きく、私学助成は全国最下位になり、文化予算も大きく削減された。これだけ大ナタを振るっても、「臨時財政特例債」に頼る状態は続き、財政再建団体に転落しかねない状況には変わりないのだが、大きくその年度を遅らせることに成功した。(その意味で単純に大阪府と大阪市の財政状況を比較し、橋下氏をこき下ろしている人間の気がしれない。4年前の財政状況を知っていれば、どちらが血を吐くような財政再建努力をしたかは明らかなのに。どうせ4年前に大阪ローカルニュースなんて一度も見たことのない人間が批判しているのだろうが。)治安に対する取り組みも強化され、大阪府は放置自転車・ひったくり・路上犯罪などでワースト1を脱却することに成功したし、教育水準も全国学力テストでの順位を引き上げた。関空の問題を俎上に挙げたのも橋下氏の功績だし、広域自治体の首長として満点とは言わないが、合格点は差し上げられるレベルの成果は上げている。ただし、公約には未達成の部分も多いし、産業誘致という面では橋下氏はトップセールスしていたにもかかわらず、実は太田房江前知事よりも実績をあげられていない(シャープの堺工場は維新の会が引きずりおろした前堺市長と大田前知事の功績)など、地道な努力の必要な部分では十分に成果が挙げられていないなど無条件に評価できない点は付け加えておく。

一方、平松市長は確かに財政再建を着実に進め、市政改革も進展した。こうした改革は目を見張るものがあり、政令市で比較しても財政状況は健全な水準に至っているし、公務員の厚遇もある程度改善された。しかし、こうした改革のひな型を作ったのは前市長の関市長であった。関氏は、助役出身の市長で、マスメディアから内部出身者として批判されたが、市労働組合と対立しながら、外部委員を起用し、市政改革にまい進した。結果、市役所と関市長は対立し、平松氏を労働組合側は擁立したのである。要は平松氏は市政改革に反対する立場から立候補した人間なのである。その平松氏が市政改革の成果をアピールするなど片腹痛い。関前市長を既得権益側の代表かのように連呼し、ネガティブキャンペーンを張ってきた人間が、成果を横取りしたようにしか私には見えない。公平のために、平松氏の功績をあげれば、市民協働を掲げ、市民参加を積極的に取り組んだ点がある。市民参加は現在の趨勢であるし、基礎自治体の首長としては評価する。市民の声を入れようと平松氏が努力してこられた点は素晴らしいことだとおもう。しかし、そこまでである。前市長の関市長が取り組んだことと比べれば、平松氏の期間で進んだことは数えるだけしかない。関前市長と違って、返り血を浴びたことなど一度もない。これではいくら現職有利な状況でも橋下氏の威勢に負けるに決まってる。


以上、2点が橋下氏が勝ち、平松氏が負けた理由である。こうしてみれば、当然の結果が出たとしか思えない。たとえ、①がなくとも、②のみで橋下氏に軍配を上げる人が多いだろう。

ただ、これからの橋下市政がバラ色の未来かといえば、決してそうではない。前の「橋下氏を擁護する」を見ていただければ、ありがたいが、橋下氏には非常に独善的な部分が強い。一歩間違えれば、阿久根市とまでは言わないが、誤った政策をそのまま突き進んでしまう部分が見え隠れしている。まさに坂木氏が指摘した急進主義的な考え方が見え隠れしているのである。

また橋下氏の全体から俯瞰して政策立案する考え方は基礎自治体の首長としては不向きといえる。まあ大阪市ほど規模が大きければ、トータルで物事を考える人間でも基礎自治体の首長をできるかもしれないが、一般論として市民協働を掲げる平松氏のような目線も必要なのは事実である。それが橋下氏にできるかは今のところ未知数である。

大阪府民ないし大阪市民は大阪維新の会に信任の一票を投じたといえる。しかし、これからが本当は大切である。彼ら維新の会が本当に大阪府民・大阪市民にとって最適な政策を実行するかについて、支持した側の人間こそが常に監視を続けなければならない。急進主義はよい方向に向かえば、急速に物事がうまく回るようになるが、劇薬でもある。もし、その監視を怠った時、劇薬の副作用で大阪が悪い方向に向かうということがないとは言い切れない。

その点について言及しておきたい。ただ、それでも率直に今回の結果はうれしい。この喜びが裏切られることがないことを願いたい。

(執筆者  43)

2011年12月2日金曜日

奇妙なすれ違い1

本来ならば橋下氏の当選についてのコメントを寄せるべきところであるが大して書くこともないので別の話題にしたい。強いて挙げるとすれば、大学の数を減らして、補助金を集中して交付するように改革してもらいたいということぐらいである。



 さて本題。たまに社会がずば抜けて良い人間が存在する。模試で高順位であったり、教室の片隅で政治について語っていたり。かくいう私も幼稚園時代にそのようなテストがあればおそらくかなりの高順位だったであろう。その当時は日本の都道府県や県庁所在地はもちろん、世界各国の場所や国旗まで全て覚えていた。何しろ幼稚園でオウム真理教について熱心に語っていたというませたガキであった。

 このような人間の背景には社会に対する尋常ならぬ関心が背景にあるだろう。彼らの行動パターンとして考えられるのは、例えば以下のようなものである。


・家族や親戚、地域などへの帰属意識が高い
・野球に対する関心が結構ある。
・大河ドラマや朝の連続テレビ小説を見ている
・社会人的な話し方をする
・人の話をあまり聞いていない
・下ネタが苦手である
・芸能関係の話にはそこそこ興味がある
・芸術に対する関心が薄い
・小説や文学は理解できない
・哲学も理解できない
・映画はあまり見ない
・心情の機微がわからない
・秀才は多いが天才は少ない
・表層的な理解はできても(むしろものすごく得意)深層的な理解には達しない
・センスはさして悪くない


誤解しないでいただきたいが、これは批判ではない。
僕が考えたいのは、なぜこのような傾向を示す人間が一定数存在するのかということ。

これをより客観的な指標に置き換え、数値化し解析すれば、かなりいい社会学の論文がかけそうである。

というわけで、これも連載化し、論考を深めていきたい。



(文責:gerira)

2011年11月26日土曜日

gerira氏に告ぐ

先日のgerira氏の記事、非常に鼻持ちならない文句があった。

昨今、当会でも多作主義が横行しはじめており、私のようなキューブリック譲りの寡作家にとっては少々肩身が狭い状況である。連中は「沈黙は金」という昔の故事を知らないのだろうか。
 そうしたご意見は、ひとつの考えかたとしてありがたく頂戴しておこう。しかしこの人物がこうした警句を述べる資格があるとはとてもじゃないが思えないのである。私はこの文章を目にしたとき、彼の日頃の言動を思い出して、強い憤りを感じた。以下、彼の言動を暴露する。

 「それについてはまた反論しますわ」
 
 それが彼の口癖である。彼は私や友人と議論するとき、必ずといっていいほど口にする。そして彼が実際に反論に出たことは、一度もない。

 このブログのことにしたってそうだ。彼は何かにつけてブログ執筆を公言しているが、結局やらずじまいなのだ。たまに書くといっても、それは周囲から執筆を求められてのこと。

 よほど忘れっぽいのか、姑息に逃げ回っているのか、私にはわからない(わからないことにしておこう)。だが、そうした男が他人を多作主義だと非難できるのだろうか。

 多作主義だと非難するなら、「また書いておきます」などと軽々しく言うべきではない。私は書かない、反論しないと正々堂々言ったかどうか。書くと言っておいて書かないのは多作主義よりよっぽどたちが悪い。

 寡作家だって?笑止千万。あなたのような人は寡作家とはいわない。ただの面倒くさがりか卑怯者だ。

 彼は私の戯言にどういう弁明を行うのか。はたまた、「沈黙は金」と言って沈黙を貫くのか。

(坂木)

2011年11月25日金曜日

「不安」について

昨今、当会でも多作主義が横行しはじめており、私のようなキューブリック譲りの寡作家にとっては少々肩身が狭い状況である。連中は「沈黙は金」という昔の故事を知らないのだろうか。

 だがしかし、ここはコンスタントなアウトプットの重要性を暫定的に認め、粛々と投稿させていただく。

 さて、今回は養老孟のコラムを読んで、なるほどと思ったトピックから。

 テーマは「不安」について。養老はいう。マスコミはことあるごとに不安を煽り立て、不安が存在する状態を敵視し、それを改善すべきであるという論調の下、行政をはじめ様々な立場の存在に対して批判を加えているのだと。つまり不安が存在することは論理的な反芻を経ずして絶対悪であるように擬態し、それを錦の御旗に受け手に暴力を振りかざす。

 目下、耳目を集めているには「放射能汚染」問題。確かに、小さい子供がいたりする親御さんの立場に立てばその不安はわからない訳ではない。けれども、この不安が解消されることは100パーセントありえないのである。おそらく科学がどれほど進歩してもこの問題に決着を付けることはできないであろう。

 西部風に言えば、この「不安のドグマティズム」こそ現在の日本社会の悪癖であろう。

 少々、不安があっていいではないか。不安を感じることができることこそ人間に与えられた特権である。そのように締めくくる養老の文章に私は久々に我が意を得たり、と感じた。

     (文責: gerira)

2011年11月18日金曜日

反省と反論

 43氏から反論が寄せられた。なるほど、確かに私の無知ゆえに大阪府と大阪市の歴史的関係性に思いが至らなかったのは反省する。ただし、少々誤解されているようなので申し開きさせていただく。

 私は何も橋下氏の政策そのものを批判する気は毛頭ない。管見では都構想には反対であるが、それは大阪府民・市民が決めることであり、私が口出しすべきことではない。また、日の丸・君が代条例のように橋下氏の政策には賛同できるものもある。

 私が問題視するのは個別具体的政策云々の話ではない。その急進主義的手法なのである。43氏は「「熟議」という言葉を橋下氏が批判しているのは、府市連携という「熟議」のアプローチが役所の論理によって限界があったからこそ、「独裁」という言葉で、別アプローチを模索しなければならないと強調するのであろう」と述べるが、そうだとしても「独裁」という強烈な言葉を平然と用いることに危惧の念を抱く。「最近はやりの「熟議」で打開せよというのは、無責任な傍観者のコメントに過ぎず一顧だに値しない」、「「仲良く話し合いを」「既存の制度のなかでの調整を」と主張する他地域の識者の皆様には、そうした不用意な発言こそが日本をここまでだめにし、また大阪の既得権益勢力を支援するということを自覚いただきたい」という文言にしてもそうだが、なぜここまで挑発的かつラディカルな表現を用いる必要があるのか。もし有権者に訴えかけるにはこれくらいのセンセーショナルな表現がちょうどいいと考えているのであれば、まさに大衆を煽動する革命的手法そのものである。そもそもこうした謙虚さの欠如した文句自体が急進主義の産物だろう。

 そう、私が批判しているは、そうした謙虚さの微塵も感じられない急進主義なのだ。都構想を掲げるにしても別のやり方があるだろう。例えば、相手に一定の理解を示しつつもそれでは問題は解決しないと説得するというように、謙虚さと説得力を兼ね備えた選挙戦略のほうがはるかに支持を得られるに違いない。なぜ相手を敵対勢力とみなし徹底的に叩くのか理解に苦しむ。

 したがって歴史的経緯がどうであれ、橋下氏のやり方には賛同できないのである。