2011年5月28日土曜日

共産主義は実現可能か?

結論から言おう、不可能であると。

共産主義の考え方とはまさに以下の考え方に集約されると個人的には思っている。

①必要に応じて受け取り、能力に応じて働く。(その前段階である社会主義ではそれを実現するための生産力は確立されていないので労働価値説に基づいた労働に応じて受け取るの考え方が徹底されるとする。つまり地主やブルジョワジーのような不労所得のみが排除される)

②生産力は極大化されているので、国家ないしそれに類する生産調整機関を必要としないから国家は自然消滅する。(その前段階として、社会主義社会では国家が消滅できない代わりに労働者は組合を組織し、自らの生産活動について決定する権能を持つべきだとする。ロシア革命に言うソビエトのことである。)

③こうした体制の変革は常に反動と隣り合わせであり、労働者はそうした反動勢力からの動揺にさらされる。したがって、共産主義社会を実現するために手順を正確に指し示すことの出来る前衛的政党(いわゆる共産党)が必要である。

柄谷行人は共産主義社会への移行を、人間性の回復の観点から是認した。つまり人間とは贈与する生き物だが、資本主義社会は金銭的な非人間的関係に押し込めてしまう。交換原理に基づく関係に押し込めてしまう。しかしながら国家・ネーション・資本の3者による絶妙なバランス関係は非常に有効に作用しており、これらを1つ排撃しても他の2つによってリカバリーされてしまうことを指摘した。いくら資本を攻撃しても、それらの攻撃はネーションの団結による平等な分配を目指す運動に回収されてしまう。例えば反グローバリゼーションを巡る左派勢力による反WTO運動が代表例である。当初は世界の労働者階級の団結を掲げていたにもかかわらず、後に反WTO運動は、世界同時革命の方向性ではなく、反グローバリゼーションによるネーションの再建(保護貿易への転換)、民族的左派に主張がのっとられてしまうのである。したがってこうした関係を断ち切るには世界同時革命による社会主義革命しかないと考える。

しかしこうした主張からある1つの結論が見えてこないだろうか?

現行体制でほとんどの問題は解決できる、極めて有効なシステムなのだということが。労働者・資本家共に完全な不満を持たない極めてバランスの良い有効なシステムだからこそ今まで共産主義勢力が散々叫んできた世界同時革命には至らなかったのである。どこかに欠陥を抱えれば、別のサイドがそれに対する調整を主張し、是正を試みる。

資本=国家=ネーションの社会では多様な価値観が是認される。

資本の側に立った合理的主張、国家の観点に立った公共の利益の主張、ネーションの観点に立った平等化の主張、いずれもがこの社会にとっては必要不可欠な要件である。いずれがかけてもこの3者の平等関係は成り立たない。こうした視点の多様性は社会の永続性には必要不可欠なものである。これらを統合調整している考え方こそが市民的民主主義(いわゆる民主主義)である。どんな考え方も排除されない政治的自由に基づいた民主主義である。一方、視点の多様性に欠かせない市民的民主主義は共産主義とは両立し得ない。なぜならば共産主義社会では「前衛的政党」が絶対的に正しいと規定されるからである。つまり共産党が指導的地位に立たなければならない。しかしながら市民的民主主義はそうした1勢力の絶対視に抵抗する考え方である。

共産主義は実現可能か?

生産力の極大化は宇宙が有限である以上、困難である。人間の欲求が無限に広がっている以上、そもそも欲求以上の物資が生産できる社会が実現できると考える方が困難である。当然、国家も消滅するわけがない。

そしてここが一番重要な点だと思うのだが、共産主義には思想的多様性を保障する枠組みが存在しない。確かに組合主義による話し合いでそれをカバーするのだと主張するのかもしれないが、それらの話し合いも「共産主義社会」を前提とした枠組みでは、思想的限界を抱えているといわざるを得ない。なぜならば本質的に共産主義的でない考え方を排除するものだからである。

多様性を損なった社会はどのような社会であっても滅亡への道を歩む。共産主義はある1つの考え方を正統とし他者に強制した時点で限界を抱えている。

共産主義者は「スターリン主義」や「官僚主義」といった形で運用上の失敗を強調する。確かに共産主義の失敗の多くは運用上の失敗に起因したのかもしれない。少なくともキューバのカストロのように共産主義的統治を行っても致命的な失敗を犯していない例もあるから、その面は否定できないのかもしれない。

しかしながら私に言わせて見れば、そうした見方は本質的なものではない。共産主義ではどのように歩んでも官僚主義的にならざるを得ない。スターリンがなぜ共産党で独裁体制を敷くことが出来たのか、様々な要因が挙げられるが、アメリカの歴史学者カーは、共産党がスターリンが指導者になる前の段階で大量の党員を受け入れ、党組織を急速に拡大させたことが一因であると指摘する。党組織は肥大化したが、そうした党員は前衛的な共産主義思想を持っていたわけではなかった。したがって指導部による知識の独占が生じ、スターリンによる独裁を準備してしまったのだと指摘する。つまり大衆に親しまれる共産党、一般大衆・人民に根ざした共産党組織とは本質的にスターリン主義にならざるを得ないのだ。

ならば共産主義がミスを犯さないためには常にエリート主義を採用せねばならないのか?確かに官僚主義には走らないのだろうが、一方でそうしたエリートは少数に限定されているという意味では思想の多様性は全く担保されない。いずれ失敗したときにその試みを是正するチャンスは市民的民主主義と比較して、ほとんどないといってよい。

私はここで共産主義の実現可能性にさじを投げざるを得ない。

一部の学生運動をしている諸君に尋ねたい。いったいどうすればこの本質的な問題を解消できるのかと。

定住外国人は「市民」か?

生駒市の住民投票条例において、定住外国人を含め住民投票の投票権を付与する方針であることが波紋を広げている。すでに複数の地方公共団体において、外国人に住民投票の投票権を付与する例が存在する。しかしながら生駒市での投票権付与は、投票結果に対する尊重義務を議会・市長に課すなど、地方政治に対する影響力が非常に大きいものである。

外国人参政権を巡る論議についてはさまざまな論点が存在するのでここに軽く整理し、個人的な意見を述べたい。

①憲法上の問題
「公務員を選定し、または罷免することは国民固有の権利」(15条1項)、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員で」(43条1項)とする憲法条文と地方参政権を外国人へ付与することの整合性。憲法解釈上では国政への参政権付与は無条件で違憲であるが、地方参政権に関しては、違憲説(地方参政権を外国人に付与するには憲法改正を必要とする)と容認説(地方参政権を外国人に付与することは権利として認められていないが禁止もされていない)に主に分かれているといえる。
最高裁はこうした問題に対して、容認説とも違憲説ともどちらとも受け取れる判決を出している。主文のみの解釈であれば違憲説としか読みようがない。(憲法上の理由から地方参政権の付与は認められない)しかしながら、傍論にて特別定住者(いわゆる在日コリアン)に対する地方参政権は憲法上否定されていないと記述し、曖昧さを残している。民主党など地方参政権推進派はこの傍論を地方参政権容認説として論拠の1つとしており、一方、自民党など地方参政権慎重派は主文を重視し、違憲説の立場を採用している。
なお傍論を法的拘束力を有すると解釈するか否かは、説明すると非常に長くなるのでここでは省略する。
また憲法学者では違憲説が多数説となる一方、一部に部分的許容説を採用する学者がいる。しかしながら部分的許容説をドイツから紹介した長尾中央大学教授が、部分的許容説を撤回し違憲説に論調を転換するなど部分的許容説はやや分の悪い状態になっているともいえる。

個人的には憲法条文をどのように読み込んでも、憲法改正または大胆な解釈改憲を必要とするとしか読み取れないので、このままの憲法条文ならば外国人参政権付与は望ましくないと思われる。

②諸外国での外国人地方参政権付与の動向
ヨーロッパの数カ国において、国政を含む外国人参政権(選挙権)を認めており、EUでは外国人地方参政権をEU市民に限り相互承認の形で付与する形をとっている。
先進国では外国人参政権付与の流れが整っているという言い方も出来るし、一方でEUのような政治的統合を進めるという共通した理念を持っている国同士での例外的事象とも言うことが出来る。

個人的な意見としては諸外国がどういう動向であろうと、日本の国益に沿って検討を加えるべきなのだから、全く気にしなくて良いと思う。

③多文化社会における社会統合としての外国人地方参政権
外国人地方参政権付与を推進する立場からは、日本は将来的に多文化主義的な社会を目指すべきだとの視点から、外国人が日本国籍を有さずとも社会に統合されていくためにも、地方参政権を付与すべきだと主張する意見がある。一方で外国人地方参政権を付与しても外国人の社会統合は実現しない、むしろ断絶が拡大するとの意見も存在する。オランダにおける反イスラム的論調をとった映画監督や政治家が暗殺される事件など極端な事例もある。

個人的には外国人の社会統合を阻害するというのに1票を投じたい。私は一般的な保守論者とは違って、移民・難民積極的受け入れ派である。様々な考え方、嗜好、技能を持つ人々を受け入れることは国の活力を高めることにつながると信じるからである。(移民の受け入れ方法などに関してはまた別個に論評したいと思うが、もちろん無条件に移民を受け入れるべきとは考えていないことはここに明記しておく。むしろ国益に沿う形での移民受け入れの形を模索すべきであろう。)また統合圧力もフランスに見たように、必ずしもうまく行かないという考え方にも賛同する。(したがって根本的な部分、例えば言語・社会慣習の理解などの必要最小限は同化政策を採用するにしても、全て統合しても統合しきれない彼らのアイデンティティについてはきめ細やかな教育サービス、マイノリティ団体設立などの形で多文化主義の考え方を部分的には認めざるを得ないとは思う)しかしながら参政権を付与すれば社会統合するなどというナイーブな考え方にも到底賛成できない。むしろ参政権も付与された外国人にとって、すでにほとんど不便な点もなく、権利も無条件に認められているのにあえて国籍を取得し、更なる社会統合を目指す意欲がわくのだろうか?

その他、納税しているから外国人地方参政権を付与すべきだとの論調も存在するが、この論調に関しては、「納税=インフラ利用に対する対価」とする基本的な考え方を無視したものであるから、ここでは論評しない。

ここまで長々と述べてきたが、私から見ればはっきり言ってどれもこれも枝葉の主張である。多文化社会も、社会的統合も、憲法解釈も、諸外国の動向もどれも重要な論点だし、論じるに足るテーマだと思うが、こと外国人参政権の問題では以下の問題がなかなか論じられていないように思われるのだ。

本質的な問題を述べよう。先ほど述べたことと多少かぶるかもしれないが、結局のところ外国人参政権を容認するか否かは定住外国人を「市民」とみるかそう見ないかの話である。もっと分かりやすく言えば、外国人に参政権を与えることで、その外国人は責任を持って投票行動を行ってくれると信じることが出来るのか、出来ないのかの話であると考えている。

国籍を日本にするとは日本という運命共同体に参加することを表明するという重要な意味がある。日本という国が失われれば庇護してくれる国を失う人々なのである。外国籍であることは他の国の運命共同体に寄りかかりながら、日本という社会に参画することを意味している。彼らは万一、日本に災厄が襲っても国籍に応じて外からの助けを求めることが出来る人々である。日本人は国、あるいは国籍というものの意味にあまりに無頓着すぎるが、国籍とは本来それほどの意味を有しているはずである。外国人参政権を与えるとはすなわち、いざとなったときは他国に助けを求めることが出来るのに、平時では日本(の一部)に口出しすることが出来るという極めて都合のいい立場になれることを意味しているのである。日本国籍を有している限り、参政権を行使したことの責任は数年後の自分の生活に直結する。しかしながら他国の国籍を有した瞬間にそうした責任を負う必要はない。(本国に帰ることによる生活再建など多少の不利益はあるだろうが)彼らは確かに日本国民の政治的選択によって不利益を被るリスクを背負ってはいるが、一方でそうしたリスクが発生したときに本国に帰国し、保護を受けるというセーフティーネットを持った人々である。

地方においても同様である。1地方と国は直結した関係を持っている。与那国島での自衛隊基地受け入れを巡る論争、対馬での韓国人の土地購入を巡る論争の例を出さずとも、離島における地方自治の国政への影響は計り知れないことは想像していただけるはずだ。さらにいえば原子力発電の受け入れ、核燃料サイクルのための最終処分場を巡る論議、大型公共事業の推進・中止、・・・、こうした国政と地方とのつながりの例には枚挙に暇がない。さきほどの例はほぼそのまま地方でも適用することが可能なのだ。地方政治は決して地方における些細な事象のみを決定しているわけではない。本質的に日本国全体が運命共同体である以上、1地方の決定も全国民がある一定の影響を受けるものなのだ。

そう、こうした重みを踏まえたうえで外国人を「市民」として迎え入れるかが問われているのである。某友愛総理がおっしゃったような度量とか寛容さとかそういった問題ではないのだ。彼らは市民と見なすに足るもの、つまり「責任」を持っているのか?そこを無視して、空虚な議論を繰り返しても仕方がない。果たして定住外国人は信頼するに足るものを持っているのか?

定住外国人は「市民」か?ここを無視せずに是非、各政党のみなさんは議論していただきたいと思う。

公共事業は日本を救う・・・、のか?(1)

最近、ネット上にて藤井聡京都大学教授の人気が非常に高いようだ。

確かにしゃべりはうまいし、聞いているとそんな気にさせられている。藤井氏曰く、公共事業をすれば日本は救われるのだそうだ。長々と述べておられるが、要はこういうことである。

①日本には数十兆のデフレギャップ(需要不足)が存在する。これが解消されない限り、日本経済は縮小傾向に歯止めがかからない。

②規制緩和・官業の民営化などは供給サイドの改革であり、どちらかといえばデフレギャップを拡大させる方向に作用する。(なぜならば需要は増えないのに、供給側は『構造改革』により生産性が向上し、少ない労働力で大量の供給がなされてしまうから)

③貨幣量増大(いわゆるリフレ政策)はヘタレの政策であり、効果は乏しい。

④公共事業はコンクリート、鉄鋼だけにとどまらず、様々な産業への波及効果が大きい。さらに需要サイドへのギャップ解消の効果が期待できる。

よって公共事業は日本を救うのである。本当だろうか?具体的・定量的なお話は(2)以後に譲るとして、今回は、定性的な話をもとに、ひとまず結論を言い切ってしまうことを優先する。(2)以後は輸出依存度の話や公共事業の効果について少しずつ定量的な話を混ぜていきたいと思う。

1990年代末~2000年代初め、小渕内閣において毎年10兆円規模の補正予算が組まれ、景気刺激策が行われた。その後、小泉内閣への移行期において景気は急速に後退した。小渕内閣の間、確かに日本経済は回復基調となっていた。30兆円枠を掲げ、緊縮財政路線へどちらかといえば転換した小泉政権では初期に景気は悪化した。では、やはり公共事業のおかげだったのだろうか?

答えはNoである。小渕政権での景気回復も小泉政権後期での景気回復も国際的な景況感の改善という側面が大きい。小渕政権期はまさにアメリカでITバブルが勃興していた時期である。日本でもIT系企業が上場すればどんな株でも暴騰するようなバブリーな時期である。(実際の街角景気ではそれほどの改善は体感できなかったが)小泉政権前期で景気が悪化したのは緊縮財政を敷いたせいではない。いや、正確に言えばそういった側面が0ではないが、主因はアメリカにおけるITバブルの崩壊であって反小泉陣営が言うような「100%小泉が悪い」には程遠い。私は経済学者ではないから定量的に値を示すことは出来ないが、直感的に数値化してしまえば、せいぜい20%かそこらであろう。

むしろ小渕政権であれほど公共事業を繰り返し行っていたにもかかわらず、効果が持続しなかったことに注目してほしい。小泉政権でも世界的な景況感が改善したときにはそのまま景気は回復していった。公共事業は毎年切り詰められていたのに。

国際的な資金流動が自由化された現代では公共事業の効果は大きく減衰される。当然である。資本がより利益の出る国・地域に流出してしまうので、公共事業でいくら金を使ってもそのまま国内で還流し続けるとは限らないのである。日本ではいくら公共事業を行っても、それに付随して生じる需要・設備投資効果はほとんど見込まれない。公共事業を行ったエリアに投資しても十分な利益が見込めないから。そういった効果を見込めるような公共事業はほとんどなくなってしまったのである。

現代社会において「公共事業は日本を救う」といったケインズ曰くの分かりやすい主張は通用しない。決して私はケインズの主張を全否定するわけではないが、少なくとも日本においては効果が薄れつつあることは否定できない。

私から言わせてもらえれば、日本で景気刺激を行うことは至難の業である。日本に投資して損はしないと思わせるような仕組みが必要なのである。具体的には未来のインフラを整備し、民間の投資を呼び込むことが必要なのである。ちょっと無謀な例だが、あえて例示してみると、

①水素社会、スマートグリット、クリーンエネルギーの集中立地によるエネルギー自給率50%の実現
②ITSの推進による高速道路での渋滞撲滅(だいたい10分の1の車両を自動走行で速度調整すれば、2倍の交通量が実現できるらしい)
③ユビキタス社会実現のための著作権・情報通信政策の見直し
④無規制の特区創設(無税・無規制で国有地を貸し出し。日本版ドバイみたいなのを複数作る)
⑤建蔽率の緩和や建築規制見直しによるベイエリア再開発
・・・、

アイデアは色々あるだろうが、ここで示したいのは技術的に発展性があったり、投資の誘発効果の高かったりするものを優先して採用すべきだということである。ただの橋やダム、トンネルの建設は、そこに伴う民間の投資をほとんど促さない。かつての田中角栄のように「日本改造計画」を提案して、それに儲けを見出せるような環境ならば、それもありなのだが、今の社会において藤井氏がいくら「日本強靭化計画(笑)」などを提案しても民間企業はそこに儲けの香りなど感じはしない。

むしろ日本のエネルギー自給率を2020年までに50%にするとか、全ての商取引の半分を電子商取引にするとか、技術ベンチャーのGDPに占めるシェアを10%以上にするとか、外資系企業の対内投資GDP比を10%にするとか、規制を全面的に取っ払った総合特区を整備するとか、医療ツーリズム100万人受け入れなど大胆(無謀?)な目標を掲げて、最低限の環境整備をした上で、民間の活力を高めるように誘導することが今の政府には求められているのである。

政府が主人公の時代は終わりつつある。それは市場があまりに肥大化しすぎてしまったからである。しかし、それは政府の役割が終了したことを意味しない。政府と市場はそれぞれ異なった視点を有している。政府は長期的視点、市場は短期的視点に偏りがちである。そういう意味で互いに補完的な関係を有している。

だからこそ、政府は市場に足りないものを補い、市場を活性化させる、サポートする、そして市場の暴走を監視する(事前審査から事後監視へ)という重要な役割を果たしえるはずだと信じている。

検察批判を読み解く

  検察のあり方についていくつかの批判が見られる。こうしたことに対して、今までの様々な世論の議論を参照にしながら、考察していきたい。



  最初に、20012002年にかけての外務省批判というものを覚えているだろうか?田中真紀子外務大臣(当時)と鈴木宗男議員との激しいバトルが注目されていたが、それとともに伏魔殿とまで外務省は呼ばれ、批判されてきた。この当時、脱北者が日本領事館に侵入した際、中国官憲が日本領事館内に侵入して主権侵害として批判された「瀋陽日本領事館」を巡る事件や、主権を毀損してきた今までの外交交渉、日朝交渉での不透明さ(田中均など)、裏金疑惑、外交機密費の問題、大使館の資金用途を巡る問題などメディアから外務省は格好の標的とされていたのである。こうした問題の中、外務省解体論というものが持ち上がった。曰く、「本来は首相がリーダーシップを取って外交は進めていくべきなのだから、外務省などなくしてしまって内閣府の中に外交セクションを設ければいい」とするものである。
  中学生だった当時、僕はこうした考えに同調した。しかしながら今から考えれば問題点を抱えていることに気づく。この議論に同調するならば、次の2つの結論しかえられない。



      外務省の政策立案機能・決定権限を全て内閣府に委譲して、外務省はただの実働部隊にしてしまう。結果、現場では基本的に何も考えられない組織になる。例えていえば、省に昇格される前の防衛庁になるだろう。防衛庁は政策立案や戦略決定に関してなんら発言権を持っていなかった。さらに言えば、自衛官の人事権さえ内閣府に握られている構造になっていた。大胆なことを言ってしまえば、現場での戦術に内閣が口出しすることも不可能ではなかった。元来のシビリアンコントロールの考え方とは、政府・議会・軍上層部が三すくみで牽制をし合いながら、議会は予算、政府は軍上層部への人事権を確保することで、専門家としての軍の能力を損ねることなく、軍・政府・議会の同調性を確保し、最大の暴力組織を統率する事が出来るようにすることを目的としている。このことを考えれば下士官にまで人事介入できるのは、明らかに過剰な政治介入である。



      外務省をそのまま、内閣府外交局(仮称)に移転する。省でなくなるために権限は縮小するだろうが、組織を維持するため、基本的な問題点は引き継がれてしまうだろう。



  このように単純な議論から組織改革のみで外務省の問題を根絶できないことが分かる。
もう一つ、例を挙げたい。郵政民営化の問題である。前提として私は郵政民営化には賛成である。それはグローバリゼーションの流れの中で、官業のまま経営を続けることは利益拡大の面から限界があるし、官がやらなくても良いものは民間が出来る限りやるべきだとする官から民への思想(ネオリベラリズム的な考え方)を条件付ながら私も支持しているからである。市場は暴走しない範囲内で自由でなければならない。必要な規制は課すべきだが、あくまでも経済活力や新しい産業の創出には自由な市場が不可欠だと考えるからである。



  しかしながら、郵政民営化の重要な根拠の一つとなった財政投融資改革を進めるという点では疑問を禁じえなかった。財政投融資とは、財務省が抱える第二の予算と呼ばれるもので、郵貯資金を特殊法人に貸し付けることで、官業に資金を流し込んでいたのである。しかしながら小泉政権下の財投改革で財政投融資は郵貯資金からは用いられなくなり、財投債として国債扱いの上、市場で買い取ってもらうようになった。しかしながら郵貯には運用能力がなかったので、実際には財投債を再び購入してしまい、財投改革は中途半端に終わってしまった。(財政投融資は大幅に減少したので失敗というわけではなく、部分的に成功したというのが正解。ただ発行の源泉は失われていないので再び増やすことが出来る)これを入口の面から改革しようというのが小泉政権の主張であった。でも、民営化すれば郵貯にすぐに運用能力が身につくわけでもなく、また郵貯に運用能力が身についても、国債を買う以外に運用先がないという経済状態にほとんど変化がない以上、財投債は郵貯が買わなくても民間金融機関が買ってしまうだろうということは容易に推測できる。結局、景気がよくならない限り、入口の改革をしても意味がなかったのである。



  こうしたことはいくつも挙げられる。省庁再編もほとんど公務員削減や縦割り行政の是正に効果がなかったとされるのが、一般的評価である。要は看板の付け替えである。これらも組織を変えれば、問題は全て解決すると誤認したが故のものであった。問題は根幹をどうにかしなければ解決しないのである。



同じことは検察にも言えるのではないか?検察においても単に組織を移すだけでは上のような問題が起こることは必死である。完全に意思決定と実働部隊を分離してしまえば、現場の柔軟な対応が出来なくなる。彼らが最終的に起訴まで出来るからこそ権力を持っているのだから。かといってそのまま警察機構に捜査権限を移したとしても問題は何も解決しない。



  私には検察特捜部解体論はメディアが何度も繰り返してきた、「抜本改革論」と同列に見えてならない。要はその場の勢いで言っているだけなのである。



  そんなことを繰り返すぐらいならば、「論でなく事実で」とことん検察批判をすべきである。
例えば、刑事事件とは違って具体的物証が捜査開始時点でない(だいたいは組織内部からのリークでスタートする)政治・官僚・経済関係の犯罪に対して、検察特捜部が頼ってきた「ストーリー型」の捜査手法の限界を指摘すべきであろう。ストーリーに当てはめる捜査手法を続けている限り、エリート主義を根絶しようが、組織の劣化を改善しようが、証拠集めに限界がある以上、冤罪が発生するのは必然である。まさに証言以外に証拠を見つけるのが難しい、痴漢犯罪と同じである。むしろ警察組織に捜査権が委譲されるくらいで証拠が乏しいのに冤罪が根絶できる(ないし減少できる)とどういう根拠で指摘しているのだろうか?私はバカなので御教授願いたい。もしや警察組織になると検察のような権力がないから、権力犯罪を立件できなくなって、権力者が犯罪をやりたい放題になるので、冤罪が減少するとでもお考えなのだろうか?



そして、捜査手法の多様化として、司法取引・おとり捜査・盗聴などの新しい捜査手法の導入・活用を主張すべきであり、冤罪抑止のための取調べ過程の可視化や検察・警察組織の民主化(国民審査・懲戒請求制度の導入)を主張すべきである。私は今まで検察が神のような組織と見なされていたことこそがおかしいと考えている。日本は有罪率99.97%(但しこの言葉を述べる人は無罪を主張した人では有罪率が95%、つまり20人に1人は無罪を勝ち取っているという事実を無視しているが・・・)であり、そうした考え方を助長してきたが、検察がミスを犯さないと考える方が無理があると考える。むしろ検察も人なのだからミスを犯すのである。だからこそ三審制で冤罪を可能な限り、阻止する取り組みがなされているのである。



そこから検察そのものの組織改革、風通しの良い組織の実現を図る必要がある。自己完結を図れる組織だからこそ、独立検察官のような検察を取り締まるための捜査官が必要になるだろう。例えば小泉政権のときに問題となった三井氏の事件(大阪地検の裏金問題)では、彼が告発しようとする直前に微罪で立件・起訴される事態となった。こうしたことは検察が組織防衛のためにやったといわれても仕方がない。立件する必要があっても「直前に」立件する必要なんてなかったのだから批判されても仕方がない。李下に冠を正さずである。ちなみに三井事件では小泉政権を巡る陰謀論もささやかれるが私はこうした意見には組しない。あくまで検察組織の問題点として指摘するにとどめる。



その上で、検察組織そのものを解体しなければ、変わらない事実が存在するならば変えればよろしい。しかしながら今までに見てきたようにほとんどの問題は入口の論議ではなく、出口の論議で解決してしまった。最後に入口の論議として、検察権力が過大になってしまったことに対する解決策との指摘があるが、これに対する反論を持って締めくくりとしたい。



まず、私には検察組織のみが過大な権力を持っているようには見えないのである。それは今回の尖閣諸島の問題を見れば明らかではないか?もし検察権力を過大評価する人間の言うことが正しいならば、検察は尖閣諸島の問題について内閣(特に仙石官房長官)に圧力を受けた時点で、党幹部か内閣の閣僚の1人でも冤罪で立件すればよかっただろう。そこまででなくとも何らかの政治的スキャンダルをでっち上げればよかった、それこそ石井一参院議員の言うような「青年将校のような心理で立件している」を実践すればよかったのである。そうすれば検察は圧力に屈する必要なんて全くなかった。しかしながら青山氏は「検察の事務方トップである検事次長のみがこれがきっかけとなって内閣の指揮権発動の乱発となることを恐れて、検察組織の独立を維持するために、釈放を決断した。他の検察幹部は指揮権を発動させたとしても内閣の圧力に屈するべきではない。むしろ指揮権を発動してもらって法的根拠を持たせたほうが、法治国家として望ましい。超法規的措置を避けるためにも粛々と法に従うべきだ、これは強硬な意見ではないと主張していた。」と指摘している。(青山氏もややリークと思しき情報に誘導されがちな部分もあるので信用できない部分はあるが、重要な指摘ではあると思う)



検察権力も政治権力・世論の動きを見ながら動かざるを得ない。最後に隣国・韓国の話題を指摘して終わろう。小沢氏の関係政治団体が立件された際、韓国のメディアはいっせいに驚きをもって報道した。それはなぜか?検察が与党の最高幹部を立件できることに驚いたからである。かの国では与党幹部の立件はきわめて困難である。検察機関が国民から信頼を受けていないからである。さらに検察が信頼を受けていない最大の原因は与党の汚職を見逃してきたからだというのは、皮肉なものである。いくら韓国検察が与党幹部を立件したいと思っても今までの恣意的なやり方が検察への冷たい目につながり、世論のバックを受けられないのである。確かに今までは検察は絶大な力を持っていたように見える。しかしながら検察の力は世論の絶大な信頼をバックにしていたからであり、今回の件を機にほぼ消滅したに等しい。これは隣国・韓国の現実を見れば明らかである。もし検察がこのまま信頼を取り戻すことが出来なければ与党の国会議員が摘発されるような事例は皆無になるだろう。そういう意味では私は今の検察に徹底した自浄作用を働かしてもらい、再び信頼される検察に立ち直ってほしいと期待している。検察は世論の支持がなければ権力に立ち向かうことの出来ないひ弱な存在なのである。強い検察がなくなってしまってからそれに気づいてもおそい・・・。



結局、極端な意見がメリットをうむことはほとんどない。私たちに求められているのは極端なセンセーショナルな意見を排して、いかに社会を改良していくかを指摘できる大人の態度ではないか?我々は自称・良識ある保守を標榜している。勿論、あくまで自称であるとの謙虚な精神は必要であろうし、本当にそうであるかは周りの判断にゆだねなければならないが、すくなくとも標榜するからには極端な意見を排する努力が必要であろう。

2011年5月22日日曜日

われわれは”保守主義者”か

 恥ずかしい話ではあるが、保守主義者を自任しながらも最近になってようやくバークやオークショットといった保守主義の古典を読むようになった。そして、保守主義について勉強すればするほど、私は保守主義というものがわからなくなった。

 オークショットによれば保守主義の定義は以下のようになっている。

「未知なるものよりも馴れ親しんだものを、試みられないものより試みられたことを、神秘より事実を、無限より有限を、遠いものより近いものを、億万長者の豊かさより不足感がない程度の豊かさを、完全さより便利さを、ユートピアの至福より現在の笑いを、選好すること」

 つまり保守主義は「変化を嫌う」、「社会の現状を維持する」思想である。そしてそこから、共同体の伝統や価値観、倫理などを守っていかなければならないという思想が派生的に生じる。ただしそれはあくまでも漸進的手法によらなければならない。

このように考えた時、私は自分がこの様な意味での保守主義者なのだろうかと自問した。確かに私は人間の理性には懐疑的であるし、安易な改革にも否定的である。しかし、それ以上に私は日本が好きであるし、日本という共同体を積極的に支持していきたいと思っている。そしてそのためには急進的な改革もある程度は容認する(ただし、熟議を経た上での改革ではあるが)。つまり、私は厳密にいえば、保守主義者ではなく、ナショナリストなのではないだろうか。少なくとも、ナショナリストであり保守主義者である。このように両者は究極的には異なるものなのである。

 翻って、現状はどうであろうか。果たして日本の“保守”と呼ばれる主張は本当に保守的なのだろうか。憲法9条改正や歴史認識問題、領土問題など、これらに関する“保守”の主張は厳密にいえば保守ではない。それは極めてナショナリズム的、リアリズム的なのである。むろん、それが悪いことだとは言わない。彼らの主張はもっともであるし、彼らも国のことを思って発言しているのであろう。

私が思うに、戦後においては、「愛国」や「ナショナリズム」といった言葉が否定的評価を受け、ナショナリズム的言説は“保守主義”という名を隠れ蓑にするしかなかったのではないか。それゆえ、日本をまっとうな主権国家にするため急進的改革も厭わないという姿勢―本来の保守主義は急進的改革を嫌う―も保守主義としてみなされるのである。

しかし、それらは多分に愛国的であって、保守的ではない。つまりは名前の問題なのであるが、それは決して瑣末な問題ではない。日本的文脈における保守主義という雑多な思想は、戦後日本が長らく置かれてきた思想的混迷を象徴しているのである。

 あらゆる愛国的主張が保守と呼ばれることは好ましくない。ナショナリズムは良いが保守主義は良くないという話ではないし、逆でもない。私が言いたいのは、すべてを保守主義として片付けるのではなく、どれが真に保守主義的であり、どれがナショナリズム的であるのかを峻別しなければならないということである。安易な改革を語る人間や気分的ナショナリズムに浸る人間を保守主義者と呼んではならないのである。そして、氾濫する自称“保守主義者”を見極めなければならない。

2011年5月2日月曜日

現代社会における教養の価値

 私は就職活動を通して感じたことがあります。それは教養というものが蔑ろにされているということです。ここでいう教養とは、知識や見識はもちろんですが、道徳性や倫理観も含まれます。教養の没落という事態に対して私は危惧を覚えます。こうした風潮のなかでは企業も学生も、そして社会全体も非常に不幸になってしまうと思うのです。以下、教養の没落にともなう問題を考えたいと思います。

 今の企業は“人物重視”だといいます。学歴や成績ではなく、人となりで評価するというのです。“人物重視”というと聞こえはいいですが、裏を返せば客観的な基準は存在せず、どうしても恣意的な選考になってしまいます。そうしますと、人事に“ウケのいい”学生が有利になりがちです。あるいは偽りの人格をつくることに長けた上辺だけの人間が“人物重視”の名の下、採用されていくわけです。

しかし、本来、良き人格というものは深い教養に裏打ちされてはじめて形成されるものです。どんなにみてくれはよくても教養を欠いた人間が企業に入った後に役に立つとは思えません。

私事で恐縮ですが、以前こんなことがありました。とあるマンガで「なおざり」と「おざなり」の区別ができていないセリフを見つけたのです。私は驚くと同時に、編集の方は一体何をやっているのかと呆れかえりました。本来ならば言葉遣いに細心の注意を払わなければならないはずの編集者でさえこの体たらくです。

また、放送業界ではもはや当たり前になっていますが、「10分」は「じゅっぷん」ではありません。「じっぷん」です。NHKのアナウンサーですら平気で口にしていますがこれも情けないことです。誰も指摘する人はいなのでしょうか。教養の没落の弊害がここにも見て取れます。

そして教養が蔑ろにされるようになると、学生の側にも、「勉強していい大学に入ってもいいことない」とか「どうせ勉強したって職にありつけない」といった雰囲気が蔓延することになります。それによって勉学に対するインセンティブが削がれてしまうわけです。そしてさらに教養の価値が低下します。まさに負のスパイラルです。これは我が国全体にとっても大きなマイナスであると言わなければなりません。やはり真面目に努力をしてきた人間が報われる評価制度にするべきではないでしょうか。今のままでは“正直者がバカを見る”ことになるのです。

以上に述べたように、教養の没落は社会全体を没落させます。確かに昨今の不況下、企業の側としては、“即戦力”が欲しいという心情は理解できます。しかし、果たしてどれだけの学生が“即戦力”として使い物になるというのでしょうか。仮にそのまま社会にも通用する力量をもった学生がいるとしても、おそらくそういう人が既存の組織に属することは稀でしょう。学生の本分は勉強です。ならば勉強を通して得た教養をもっと評価するべきではないですか。私はなにも学歴社会にしろと言っているのではありません。ただ、真面目に勉強した学生が報われるようにしたいだけなのです。そしてそれは、企業にとって短期的にはマイナスになっても、長期的にみればより大きな利益が得られるはずです。