2011年6月30日木曜日

情報強者たれパート5

「真の情報強者とは、情報を的確に分析できるもののことを言う」
とは、当会のいわゆる「良識派」を標榜する面々の云いであるが、果たして彼らは本当に情報を「的確に」分析できているのだろうか。


僕がものすごく仲良くなった哲研の方(先輩)は、あるタイプの人間を「同じステージを堂々巡りする輩」と称したことがあった。どんなタイプの人間がこれに該当するのだろうか。

実は、これは、連載前々回に持ち出した「無知の知」の話そのものであることに気づいただろうか。曰く、我々は常に既に無知の状態である。ならば常にそれを自覚しつつ乗り越えようと努力することを怠るな云々。

「同じステージを堂々めぐりする輩」とはつまり、「同じ」無知の状態を続けながら日常を生きる者である。

彼らは自らの認識を更新することが極めて稀であるから(認識とは表層的な変化を言うのではなく人格システム、パソコンで言うOSそのものを改変するような変化のことをいう)、同じ情報から得られる情報量は常に同じである。けれども自分を絶えずずらしている者は、時間がたてば、同じ情報からまた新たに情報量を得ることになる。


文学や音楽、絵画や映画など、古今東西様々な芸術を享受し、かつまたは発信する習慣のある者ならば自然と研ぎ澄まされ、身についていくであろう感性を磨くルーティーン。そうでないものもまた、少なからず別の仕方でそれを埋め合わせているだろう。けれどもそういう経験値が決定的に足りない者、そういう霊感(inspiration)が決定的に足りない者、いわば「神に愛されない者」は自分も含めてどうすればよいのか。

そこで、ちょっと立ち止まって考えてみる。いつもとは違う仕方でモノを見る。

旅行とは、カイヨワの聖・俗・遊の三項議論からもわかるように、日常(ケ)から離れ非日常を経験し(ハレ)、前とは違う意識で日常に臨むという効果がある。修行もまた同様に、離陸・混沌・着地のプロセスを経て、人間を成長させる効果を持つ。いわゆる通過儀礼(initiation)である。

是枝裕和監督の最新作「奇跡」は子供たちがそのような通過儀礼という「奇跡」を体験し、少し大人になる姿を描く。なぜかこの映画を見たあと、僕は世界に輝きが増すように感じられた。

日常には様々なヒントが隠れている。
誰とは言わないが、忙しく生きている中でそういうことに鈍感になっている者がいるようだ。



入り口はすぐ近くにあるのかもしれない。

                                                                                                              (文責:gerira)

2011年6月14日火曜日

“俄か反原発派”を糺す

初めに申し上げておくが、私は極端な原発推進論者でも、反原発論者でもない。反原発という主張もひとつの考え方であり、尊重に値することは認めるし、私自身も脱原発はやむを得ないと思っている。しかし、このごろ巷に溢れている“俄か反原発派”には心底辟易している。彼らのように感情的に反原発を叫ぶ連中には全く以て賛同しかねる。

 “俄か反原発派”の最大の特徴はろくな知識もなく、ただ感情的に原発に反対することにある。先日、イタリアで原発政策の是非を巡る国民投票が行われたが、あたかもその投票が福島原発の事故を受けて行われた、あるいは反原発運動によって実現したかのように“俄か反原発派”の間では曲解されている。しかし、そうではなく、もともとこの時期に国民投票が行われる予定だったのだ。イタリア政府は今回の事故を理由に投票を延期しようとしたが最高裁判所が延期を許さなかったという事情はあるにせよ、投票は福島の事故とは関係がない。それにもかかわらず、“俄か反原発派”は、「イタリアのようなスピーディな対応を」とか「日本でも速やかな国民投票を」などとほざいている。彼らの無知蒙昧ぶりを象徴している。

 なによりも問題なのが、一体彼らのうちのどれほどが脱原発後の青写真を持っているのかということである。感情的に反対を叫ぶことは容易い。しかし問題はその先にある。一体どうやって原発に代わるエネルギー供給手段を確保するのか。脱原発を決めたドイツやイタリアとは事情が違う。それらの国ではもともと原発依存度は低い、あるいはゼロであり、さらに他国から電力を購入できる(皮肉にもそれは主にフランスの原発からの電力である)。私は“俄か反原発派”から説得力のあるビジョンを聞いたことがない。彼らは代替エネルギーを確保しないまま原発を停めたら日本の経済や社会にどれほどの損失がもたらされるかを理解しているのか。そして、自らの生活にも多大な影響が出る覚悟はあるのか。

 こう言うと“俄か反原発派”からは、「じゃあ原発のすぐそばに住んでみろ」などと批判が出るだろう。しかし、これこそが感情に身を任せた暴論なのである。大阪府の橋下知事が先日、原発を大阪湾に造る覚悟が府民にはあるのかなどと述べていたが、これもまた同様である。では質問するが、原発のそばに住んでいる人間でないと原発に賛成してはいけないのか。逆に原発のそばに住んでいない人間は皆反対と叫ばなければならないのか。冷静に考えてもらいたい。

 問題の本質は、直ちに原発をやめるのかということではない。いかにして徐々に原発依存から脱却していくかなのである。はっきり言って、福島のような事故が起きた以上、日本で原発推進などあり得ない。それは認める。しかし、かといって明日にもやめますというわけにはいかないのである。十分なエネルギー供給手段ができるまでは原発を続けていくしかないというのが実情なのである。そしてそのためには今停止している原発を漸次再開していくほかない。にもかかわらず“俄か反原発派”は全原発の停止を要求する。いい加減にしろと言いたい。何のプランもなく感情的に反対を叫ぶその無責任な態度のほうが原発推進論者よりもよほど性質が悪い。

 最近はマスコミでも反原発的な主張ばかりが取り沙汰され、脱原発に伴うデメリットはほとんど報じられていない。こうしたマスコミの姿勢も“俄か反原発派”を増長させている。世論とマスコミが一体となって情緒的に一つの方向へと突き進んでいくその末路がどうなるのか、左翼の方々が日頃口を酸っぱくして主張なさっている通りである。その左翼から感情的反原発を諌める声が聞こえてこないのはどうしたことだろうか。このままいけば、かつてのように我が国は亡国の道を行くことになるだろう。“俄か反原発派”の方々には冷静になっていただきたい。

2011年6月12日日曜日

情報強者たれパート4

先日、僕が投稿した「日の丸、君が代騒動について思うこと」への強力な反論が寄せられている。非常に明快な論旨であり、僕も承服してしまいかねないような説得力のある意見ではあるが、反論の余地はあると思われる。現在、反論記事を推敲中である。しばし待たれよ。





さて、今回は前回までとは少し切り口を変えて真の情報強者への道を探っていきたい。

ネット空間は非常にフリーなスペースであり、ややもすればアナーキーであるとも言えるような部分がある。その中でもネットのひとつの醍醐味と言えるのが、違法に動画や音楽をかなり自由に無料で入手できたりすることだろう。あるいは「コピペ」もまた類似の営みとして挙げられる。

情報享受のモラリティについてサンデルならば何と言うであろうか。
社会の幸福の総量を最大化するという功利主義の意見に、作品の製作者の権利を最大限に尊重すべきというリバタリアニズムの意見を闘わせて、、、。



功利主義者「社会の幸福が最大化されるからネットはフリーであってよい。」

リバタリアン「いやいや、創作物の所有権はその創作者が有しているだろう、それを勝手にネット上にうpするのは個人の権利を迫害している!」

リベラリスト「情報への接続可能性の公平性から、私も功利主義者の意見に賛成かな。」

コミュニタリアン「では、そもそも個人の創作物は本当に個人の所有物と言えるのだろうか、、個人が創作する才能や環境全てが個人の所有物であるはずがない。それは共同体の成員として皆で分かち合うべき性質のものである。ただ、共同体の秩序を考えると、過度に自由なネット環境も考え物だ。」

リバタリアン「・・・」



上の議論では、功利主義者はおそらくどのようなコンテンツでもフリーに入手できることを是とするようである。だが、コミュニタリアンは、ここに秩序という審級を持ち込んでそれに歯止めをかけようとしている。リバタリアンは単に創作者の権利の侵害という一点において自由な情報享受に反対している。

ネット上における情報享受のモラリティとは何なのであろうか。まさにそれを知る(知ろうとする)ことこそ、情報強者への近道であると言える。

僕はこの議論に「構造主義者」を登場させよう。
この男、議論に参加するというよりも己の意見を滔々と語り始めた。

構造主義者「前提として、我々は『贈与に対しては必ず返礼の義務を背負う』のである。」

これを聞いた他の論者たちは、彼がどこか別世界の住人であると感じた。

構造主義者「返礼する相手は必ずしも贈与者でなくともよい(何故か?)。とりあえず、贈り物を貰った者はまたほかの誰かに、自らが贈与者として贈り物を届けなければならない。」

リバタリアンは彼を変人だと断定した。ますますもって彼の論旨がとれない。

構造主義者「ネット上には様々な情報が氾濫している。当然先に述べた理由からそれを我々はタダで享受することは許されない。贈与に対しては返礼を、である。」

一同「!!!」

構造主義者「我々が、ネットから受けっとった情報を、何らかの形で他者に還元していれば問題は起こらないが、そうでない場合は、、、」

功利主義者「一体どうなるというのか、ええ?」

構造主義者「何か悪いことが起こり、死ぬ(by Marcel Mauss)」

リバタリアン「ふんっ、馬鹿馬鹿しい。」


構造主義者「リバタリアンの君は何か悪いことが起こっていないかい、君の贈与返礼バランスシートは大きく赤字だと思うが、、、。」

リバタリアン「よ、余計なお世話だ!(とはいえ心当たりがある)」



私はこの構造主義者の意見が最も腑に落ちた。人は返礼の義務を怠ると不幸になるという認識は経験的に持っているからである。

おそらく我々の人格システムがそのように構造化されているからなのであろう。ニートやうつの蔓延といった社会現象は、このロジックでおおかた説明しうる。

むやみにネットを使うとおかしくなる、といったことを昔の人はよく言うが、おそらくこの「罠」を本能的に感じているからなのかもしれない。

                                                                                                               (文責:gerira)

2011年6月11日土曜日

情報強者たれパート3

前々回は典型的な情報弱者と呼ばれる頓馬な方を批判し、前回は返す刀で自称情報強者の欺瞞を暴くという内容であった。今回も、前回の論旨を引継ぎ、自称情報強者たちのなかに存在すると僕が考えている「勘違い」のようなものについて徹底追求してみたい。

ソクラテスの「無知の知」はご存知だろうか。他のものは自分が無知であることに気づいていないが、ソクラテスだけが己が無知であることに気づいている。故にソクラテスが最も賢い云々。

プラトンのソクラテスに関する著作は全て対話篇になっているが、まさにこの構造ゆえにソクラテスはテアイテトスやゴルギアスを鮮やかに論破してみせるのである。

「無知の知」のような議論は哲学史上何度も同型の議論が反復されてきた。ソシュールの言語学然り、ヴィドゲンシュタインの言語ゲーム然り、デリダの脱構築然り、上田氏がよく取り上げるロールズの普遍的リベラリズムに対するサンデルやローティからの反論然り、どの議論にも共通するのはこの世界の中に存在する構造的欠陥ゆえの「真理への不可触性」である。わかりやすい例で言えば、神の存在証明の不可能性が挙げられる。 なぜならば この議論は、無限後退というパラドクスを孕むからである。この世界を創ったのは誰か→ではその世界を創ったものを作ったのは誰か→ではその・・以下無限に続く。尤も、スピノザはこれを証明したと主張するのであるが。とにかく、真理なるものは「名指し」できないのである。

今、自らを情報強者と既定したものがいたとする。彼は自ら措定した超越論的認識の内部において情報強者である。けれども、先に述べた「無知の知」原理により、これらをより高次で審級しうる超越論的認識体系が存在することになる。そこではもはや彼は自らが最も忌み嫌う情弱である。彼がそのような体系の存在を知ることは、前回述べた「事情」や無能(!)ゆえに極めてハードルが高いといわざるを得ない。

実は、というか当然この議論はもはや'自称’情報強者一般への批判にとどまるものではない。
養老孟司はこれを「バカの壁」と呼んだのは有名だ。

我々は常に既により低次な段階にとどまる存在であることを忘れてはならない。現在の社会システムの根幹をなす資本主義の仕組みは実はこれとトポロジカルである。この摂理の存在を無視しているがため共産主義は崩壊したのだ。

常に情報強者たる矜持をもて。さすれば壁は超えられん。

                                                                                                               (文責:gerira)

ダニ15について

ダニ15とは言わずとしれたあの小沢一郎とその一派で今回の不信任決議に欠席した馬鹿者共15名いや15疋である。ちなみにダニ15は「ダニfifteen」と発音する。命名はかの辛坊治郎氏なので苦情のある方は彼にどうぞ(と言ってもそんなことするのは信者か、いや寄生虫かw)

何度退治しようとしてもしぶとく湧いてくるから気持ち悪い、盛んに研究されているがその生体は得体が知れない。

あまり汚く罵るのは自分の性分にはあっていないのだが、この未曾有の大災害の時に権力闘争ごときの動機(信念のカケラもない)で政治を混乱に陥れた罪は許し難い。まだ松木氏の方が筋が通っている。

これ以上論評する価値もない。サーバーの無駄である。

情報強者たれパート2

前回は、真理への接続可能性を常に確保するためにこそ、現在の意味論において支配的である情報技術への理解を積極的に行えという論旨を展開した。

今回も、前回に引き続いて「情報強者たれ」という若干挑発めいた表題とともに、情報弱者を叩いてみたい。

情報が情報として社会のなかで機能するためには「象徴化(coding)」という契機が必要となる。あるシニフィアンが象徴化されるためには、社会の中でそれに対する共通前提が構築される必要がある。重要なのは共通前提であり、それは間主観的、つまり一人では決して生成されない意識作用なのである。

少し気取った書き方をしたが、要するに「孤独な者は最高の情報弱者」ということである。

孤独なものの情報の享受は非常に特徴的である。認知を自分にとって回避できないもの––例えば自分自身の属性––に合わせて、整合するように他の事物を認知的に歪曲しがち(認知的整合性理論congnitive consistency theoryと呼ぶ)であったり、そもそもその情報量か極めて少なかったりと、いわば社会へのコミットメントに失敗していると言える(outsider)。

だからといって、僕が安易に「リア充」を推奨していると勘違いしないで欲しい。彼らもまた、前回述べた理由からそのような存在にならないとも限らない。安っぽいリア充ほどこの「罠」に引っかかるのである。むしろ、そういう孤独や絶望の淵からはい上がってきたようなタフな人間こそが「真の」ネットワークを築けるものと確信している。

つまり、僕が批判対象として想定しているのは、まさに「孤独」な事情から実存不安定に陥り、2chなどで度々起こる「祭り」に踊らされたり、ネトウヨやブサヨに走ったり、粘着質な絡みを展開したりするような者たちである。彼らはもはや情報技術に使われてしまっている。


社会への「深い」コミットメントこそが真の情報強者たる条件であろう。「深い」コミットはその分象徴界からの恩寵を多く得るというのがこの世界のcodeであるとしたら、、、

                                                                                                                (文責:gerira)

日の丸、君が代騒動に思うこと

先般、大阪府の橋下知事が君が代起立条例を府議会に提出し可決した。

先にいえば、僕は条例化に対しては批判的である。僕の論旨に最も近いと思われる内田樹氏のブログを以下に紹介する。

http://blog.tatsuru.com/2011/05/31_0930.php


彼の議論を要約すれば、
「愛国心の涵養を目指す故に、誣国の自由を与えよ」
というものであるように思われる。

僕も昔から、愛国心は強制されるものではなく、まさに内からどうしようもなくこみ上がってくるような感情や情念、日々の幸せの中から自然に溢れるような感謝のようなものだと思っている。だから、こういうことをあえて強制しようとする(馬鹿な)方を見ると、この人は本当に愛国者なのかと疑念を感じることさえある。

たしかに、実際、N津さんのような基地の外にいられる方もおられるし、僕もそういう馬鹿を見るとものすごく腹立たしいが、そういう人間に対しても寛容な姿勢を見せること、度量の大きさを見せることが「真の」愛国心へとつながっていくのではないだろうか。僕にしては出来すぎた正論だが、ことこの問題に関しては、まさに「真の」保守主義者として言っておきたい。

追記:そういえばかの三島由紀夫も愛国心の強制には反対していたな。


                                                                                                            (文責:gerira)

情報強者たれ

近年の情報技術の発達には目を見張るものがある。その中で最近、いやずいぶん前から「情弱」という言葉がネット上で使われている。「情弱」とは情報弱者の略でインターネットなどのIT技術に疎い人たちを揶揄する言葉である。

彼らが情報弱者と攻撃する対象には一体どんなものが挙げられるのだろうか、以下に2chからの引用を示す。


<情弱が使いそうなフリーソフト>

*情報弱者
【ブラウザ】Sleipnir2、Lunascape、IE8
【メーラー】OutlookExpress、EdMax
【ランチャー】CLaunch、Clocklauncher
【ファイラー】MDIE
【動画再生】WindowsMediaPlayer、GOM Player
【音楽再生】iTunes、Winamp
【セキュリティ】avast!、ZoneAlarm、Ad-aware

*中級者
【ブラウザ】Google Chrome、Donut RAPT
【メーラー】Thunderbird、Gmail
【ランチャー】Arttips、bluewind
【ファイラー】だいなファイラー、まめFile5
【動画再生】VLC、DV、GesPlayer
【音楽再生】Songbird、Fittle、Lilith
【セキュリティ】AVG、ComodoInternetSecurity、Spybot

*上級者
【ブラウザ】Firefox3、Opera、KIKI、unDonut+mod
【メーラー】Becky!InternetMail、秀丸メール、Gmail
【ランチャー】Orchis、fenrir、CraftLaunch
【ファイラー】X-Finder、あふ、内骨格
【動画再生】MPCHC、Qonoha、KMPlayer
【音楽再生】foobar2000
【セキュリティ】AviraAntiVir、BitDefenderCL、OnlineArmorPersonalFirewall、
SpywareTerminator、SpywareBlaster、SystemSafetyMonitor

<情弱のPCにありがちなこと>
http://blog.livedoor.jp/news23vip/archives/3004888.html



上のような定義ならば僕自身は情弱であるといわざるを得ない。
そもそもランチャーやファイラーといったものを最近まで知らなかったのだから。



ここで、「真の情弱とは」云々、そんなものは馬鹿げているとH氏のように「良識的に」反論するのもいいが、あえて2chなどに書き込む自称「情強」な方々に寄り添って、哲学的観点から情弱を徹底批判してみたい。


僕は、この世界には「真理」と「真理の前提」が存在すると考えている。前者はが時代によって変化しない性質のものであり、後者は時代によって大きく変化する性質のものである。そして我々は常に既にその「真理の前提」によって真理へのアクセシビリティ(接続可能性)を得るのである。このように考えると、一見表層的に見える現在の様々なモノ、この例であればPCやネットワークなどの情報技術のアーキテクチャ、また当会でもよく話題に登ってきたFacebookやTwitter,mixiといったSNS(ちなみに僕はこの3つ全てに登録している、確か上田氏もFacebookの登録したんじゃなかったかしら、しかし・・・(ry)なども、真理へのパスとして重要であるといえよう。

かつては非常に隆盛を誇っていた人やモノ、その時代には是とされていた価値観などは、すこし時が経てばほとんど使い物にならなくなることはよくある。さらに言えば、前時代的な価値観をもった人間が、時代の変化に翻弄され、周囲からも、そして実存からも「疎外」されるという事態は枚挙にいとまがない。

時代の変化による意味論の変遷に鈍感なものは、現代社会においては即淘汰の対象となる(意味論(semantics)とは先に述べた真理の二重構造のこと)。なぜならば、真理や摂理から疎外されるからである。そしてそのような生き方はうつや最終的には自殺を招く。一見無価値であったとしてもそのようなものが決定的に重要である可能性が存在するのだ。


ゆめゆめ侮るなかれ、、、ナイナイの岡村が鬱で仕事を長期間休業した背景にはそのような事情があると僕は睨んでいる。

                                                                                                               (文責:gerira)

2011年6月4日土曜日

菅首相とそれに隠れてしまった見苦しい連中に対して思うこと

不信任決議案否決から2日ほど経過した。

すでに菅首相の退陣表明は有名無実化しつつある。というよりも不信任決議案が採決される直前の民主党両院議員懇談会演説の時点で、菅首相の曖昧な言い回しを聞いた私からすれば、当然起こるであろう展開だと思っていた。実際にその日の夜の菅首相は記者会見で、原発事故の収束を「震災に一定のメドが立ったとき」だとしている。菅首相のこうしたペテン的なやり口については個人的には辟易とする。なんというか中東におけるベンアリやムバラクの末路を見ているかのようである。ごまかしごまかし政権維持に汲々とする。日本はいつの間にこれほど政治家の言葉が軽くなったのか?政治的後進国になったのか?ペテン的なだまし方が認められるようになったのか。まさかあの鳩山前総理以上の発言の姑息な人間が現れるとは思っても見なかった。

ただし、あの言い回しを聞いて、こうなる可能性について全く理解できなかったマスメディア・議員たちも情けない。文脈を読み取れる最低限の理解力のある人間の感覚からすれば、「震災のごたごたが落ち着いた段階で辞任する→原発事故も含む対応をするといって居座るかもしれない→茶番としか言いようがない」くらいのニュアンスしか受け取れなかったからである。確かに鳩山氏以外の議員は鳩山氏の補足説明を聞いて、誤解したのは仕方がないのかもしれない。その後、公開されたメモから読み取れば、鳩山氏が多少、誤解をしてもおかしくないのかもしれないが、退陣の確約を取れてもいないのに堂々と両院懇談会で「菅首相は早期に辞職する。不信任には反対しよう」と呼びかけてしまう鳩山氏のアホさ加減が露呈したように思える。せめて確約をとるべきだったはずだ。

むしろ小沢サイドの複数の議員が、いまさら「裏切り行為だ」やら「菅首相はうそつきだ」などといっていることのほうがびっくりする。菅首相のこの程度の言葉遊びにさえ気づかなかったのか・・・、と。自分の無能を棚に上げて、そんな典型的なはぐらかし答弁にだまされて不信任決議案に反対したのか?と。

鳩山氏に関しては、そもそも現在の行動が全く理解できない。

「あなたこそ今まで散々、マニフェストを破り、唐突なことを言い出すたびに周りをあたふたさせ、自分の発言すらころころと変えた嘘つきではないのですか?」、といってやりたい。

私は菅首相に対する数々の発言は一体どの口が言っているのだとわが目を疑った。私たちは忘れてはならないはずだ。鳩山氏が首相を辞める際に、自民党の首相経験者たち、自民党の体質を批判しながら「私は首相経験者は政治家を止めるべきだと思っていた。私も次の総選挙には出馬しない」と明言していたことを。その発言をした張本人がいまや政局の中枢にいるというのはいったいどういった了見なのだろうか?

怒りはマスメディアやいまさらになって不信任を突きつけたことに対して批判を噴出させている自民党若手議員など現状に無理解な連中に対してもある。確かに谷垣氏の戦術は失敗したのだから、戦術論として反省せねばならないことはあるのかもしれない。しかし私からすれば不信任を突きつけるのが遅すぎる、優柔不断すぎると谷垣執行部を批判したいくらいである。

TPP、税と社会保障の一体改革、財政再建、普天間問題などの安全保障課題、近年再び浮上している常任理事国入りを巡る議論、公務員制度改革からエネルギー政策に至るまで、いずれも民主党政権の能力不足を露呈しているように懸案事項は全く進展が見られない。自民党・みんなの党・公明党の議員が特別優秀であるとか、自民党案が特別にすばらしい案だとは思わないが、政権与党として官僚組織を活用できるはずの民主党案がなぜこれほどずさんなものとなっているのか?民主党中枢の政治家たち、とりわけ菅首相に政策に対する十分な理解がないからではないのか?確かに私は菅内閣発足直後はこうした懸案に取り組む姿勢を曲がりなりにも評価してきた。菅首相がこうした懸案を解決する意思を示したことに、消極的ながら菅政権を評価することさえやぶさかでないと思っていた時期もあったのである。私の政治信念とは異なるが、良いものは良いと認めることこそが、正しいあり方だと信じているからである。しかし何も進まなかった。むしろこうした日本に山積する諸問題をパフォーマンスの道具としか思っていないような行動の数々を見せ付けられてきた。こうしたものを見ていれば、今のマスメディアのような「不信任を突きつけるに足る理由がない」などとはとてもいえないはずである。実直に申し上げれば、大震災などおこらなくても菅首相は不信任を突きつけられるべきだったのである。

さらには通常国会も自公両党の不信任決議がなければ、延長されることなく、閉幕する見通しだったのである。さらにその理由も菅首相の外国人政治献金疑惑や震災対応を自民党から追及されるのが怖いからという極めてお粗末なものであった。少なくとも通年国会への延長や震災復興法の整備などがこの段階になって急速に進んだのは谷垣自民党を中心として不信任決議の動きを強め、それに警戒した菅政権が野党と融和路線に転換したからである。不信任決議の反対討論にて民主党の山井議員が「今、与野党の成果が上がっているのになぜ不信任を突きつけるのか?」と問うていたが、むしろ逆で不信任決議を突きつけたからこそ、あわてて菅政権はこれだけ成果が上げてアピールしたのである。今は不信任を突きつけるときではないという人間は、一体いつだったら不信任を突きつけても良いと考えているのだろうか?不信任決議を突きつけなければ成果が上がったとでも言うのだろうか?菅政権はダメだが、今不信任を突きつけるのもダメだといっている大多数の人間に是非聞いてみたいものである。

まして鳩山氏の無責任な言動や某元総務大臣の勇ましい掛け声とは裏腹の行動など、菅首相の薄汚さに隠れて多くの民主党議員がやってきた所業についてなぜマスメディアは報道しないのか?政策報道をやれなどとマスコミに(良識的な意味での)期待するのは間違っているのかもしれないが、せめてこうした単純明快な勧善懲悪ものの報道くらいはしっかりやってもらいたいものである。それすら今のマスコミにはできないのだろうか?

いずれにせよ、菅首相を何としても退陣に追い込まなければならないとする自民党・公明党・立ち上がれ日本の決意は、菅首相・鳩山氏の保身によって頓挫させられることとなった。

この不信任決議案の否決がもたらすものがいったい何なのか?現在を生きる私たちには未来を予言することは出来ない。私には最悪の未来しか見えてこないが、もはや後には戻れない。できることならば、菅首相にはこのいい意味で私の予想を裏切って頂きたいと思っている。(ほとんどありえないが)

2011年6月2日木曜日

不信任案否決によせて

 言い訳がましく聞こえることは百も承知だが、今朝までは不信任決議案は可決するだろうと思っていた。事態が動いたのは昼頃である。菅総理が自らの進退について言及することによって、民主党内の造反組に対して姑息な切り崩しにかかったのだ。これを聞いた私は、決議案は否決されると確信した。


 結局、不信任案は圧倒的多数で否決された。賛成票を投じると息巻いていた原口前総務大臣をはじめ、鳩山前総理とその周辺や小沢グループは反対票を投じた。菅氏が自らの進退に言及するや否や反対に回った彼らに対しては情けないと同時に怒りを覚える。結局彼らの覚悟はその程度だったのか。もっとも、鳩山氏に対してはもはや彼が何をしようとも一向に驚かないことにしているし、直前になって態度を翻すのは小沢氏の常套手段ではあるが。


 一方で、賛成票を投じた造反者は松木氏と横粂氏だけだった。私は、松木氏に対してはあまりいい印象を持っていなかったが、今回に限っては信念を貫き通したと評価したい。口では倒閣と言いながら最後は反対にまわった卑怯者総務大臣経験者よりははるかに立派である。


 焦点は造反者・欠席者に対する処分に移った。造反者は除籍、欠席者は党員資格停止ということだが、小沢氏に対しては除籍を検討しているという。輿石氏らが反対しているということだが、この際、小沢氏を除籍にしたらどうだろうか。不信任が否決されたとはいえ、党内を混乱させたのは小沢グループである。その責任は重い。さらに今回の件で小沢氏が党を破壊しかねない“壊し屋”であることが改めて判明した。民主党の健全化のためにも小沢氏に引導を渡さなければなるまい。


 いずれにせよ菅内閣が当分の間続くこととなった。野党の攻勢はこれからも変わらないだろうし、民主党内の亀裂が修復されるかどうかも不透明だ。菅内閣はこれまでも以上に厳しい政権運営を迫られるだろう。これからの日本を思うと暗澹たる思いを抱かざるを得ない。