2011年7月22日金曜日

セシウム汚染牛騒動について思うこと

最近、福島県やその周辺から出荷された牛肉から暫定基準値を大幅に上回る放射性セシウムが検出されたというニュースで持ちきりである。私などはそんなに大騒ぎするほどのことかと思っている。

大体、暫定基準値を大幅に上回る放射性セシウムを含んだ牛肉を一回ぐらい食べたところで発癌率がどれほど上がるというのか。もちろん私だって毎日食べろと言われれば気味が悪い。しかし、毎日食べる人なんてまずいないだろう。極端な喩えかもしれないが、タバコ一本吸ったところで発癌率が上がるわけではない。毎日の積み重ねによって徐々に上がっていくのである。

とにかく巷ではセシウム=危険という短絡的な理解がまかり通っている。これは“俄か反原発派”と全く同じ構図である。すなわち、ろくな知識もなしに感情的にセシウムに対して拒否反応を起こしているだけなのだ。そして、これは我々のブログに度々登場する“情報弱者”に他ならない。 

セシウムに過剰反応する人は是非とも7月18日の記事をご覧になっていただきたいものである。

(坂木)

反原発派の皆様へ

厳しい暑さが続いている中、反原発派の皆様方におかれましては節電に邁進されていることと存じます。

さて、原発に反対される方々の多くは有事の際の放射能漏れを御懸念されているがゆえに原発に反対なさっているのだと思います。しかしながら日本が原発をやめたところで本当に安全なのでしょうか。

お隣の中国では原発の建設が続けられています。もしその原発で事故が発生すれば、まき散らされた放射能は忽ち日本に飛来するでしょう。これはドイツでも同様です。ドイツでは脱原発が決まったとはいえ、そのすぐ隣には多くの原発を有する国があるのです。これで原発に伴うリスクが軽減されたといえるのでしょうか。

ちなみに、この脱原発の話は憲法9条についても全く同じことが言えます。いくら日本だけが武力を放棄しても世界は平和になりませんし、日本の平和も保たれないのです。

また反原発派の方々は子どもたちの将来を案じていらっしゃいます。私も子どもたちの健康被害を全く懸念する必要はないとは言いません。しかし、このままではその子どもたちが大人になったとき経済面で困窮するのではないでしょうか。企業の海外への移転は着実に進んでいます。よく埋蔵電力で日本の電力は賄えると嘯く人がいますが、それが仮に本当だとしても、産業の空洞化は現に起こっているのです。反原発派の方々は今後自らを含めた人々の生活がどのようになっていくのかを真剣に考えたことがあるのでしょうか。

結局私が申しあげたいことは、反原発派の方はもう少し視野を広げて日本の周辺や将来のことももっとお考えになるべきだということです。



(坂木)

2011年7月18日月曜日

タバコ、酒税増税はオヤジ狩り発言より感じたこと

野田財務大臣が「酒税、たばこ税は、税制を通じたオヤジ狩りみたいなところがある」と発言した。

そもそも財務省こそが、今まで財政再建の必要が叫ばれながら、酒税、たばこ税という安易な分野で増税を繰り返してきた官庁である。(世論受けしないからできないというのはあるにせよ)
そして、財務省のスポークスマンと成り果てた野田財務大臣が、このような発言をされることに少し意外感もある。ただし、すでに野田財務大臣は、その任期中にたばこ税を任期中に増税している。好意的に解釈すれば、その増税も民主党マニフェストのつじつま合わせのために、不本意ながらやらざるを得なかったのかもしれないが、自分のやったことに対して無責任でしょ、と言わざるを得ない。まあ、財務省のスポークスマンが今更、何言ってるのという感じですね。

ただし、今回論じたいのはそういうことではない。そしてこの記事はそういう喫煙者に対して批判するというよりはむしろ禁煙者を含む近年の社会全体に広がっている過剰反応に対して疑問の念を投げかける(というより愚痴る)ことを主目的としている。

このたばこ、酒税の造成の話を聞いてある話を思い出した。

それは「健康ファシズム」という言葉である。5年ほど前の文芸春秋の記事で載っていたものだが、どうも禁煙、健康ブームに対して肩身の狭いマスメディアの愛煙家たちがかつて作った造語らしい。その当時でもすでに禁煙の風潮が強く、唇寒しの風潮があったようだが、今、ますます禁煙や健康というワードは、強迫観念のように定着してしまった印象は否めない。典型的なのはここ数年の「トクホ」「健康保健用食品」といった健康食品やたばこ増税への世論の後押し、あるいは健康増進法による喫煙者への規制強化などがあげられる。

私はたばこなど一度も吸ったことはないし、できるだけ階段を使ったり、運動に心がけたり、地味に健康に気を使うタイプでもある。そういう意味ではこうしたブームに対して全面否定する立場ではない(むしろ肯定的でさえある)。しかし、こういうブームの最大の問題点とは、他者に固有の価値観を押し付けてしまうこと、こうしたことを自己目的化してしまうことにあるように思える。

健康増進法により禁煙席と喫煙席の分煙が徹底されるようにさだめられた。こうしたことはたばこの煙が嫌いな人間にとっては朗報である。そして私自身もそうなるのであればそれに異議を申し立てる立場にもない。公共空間でのある一定の禁煙指定も当然、必要だと思う。(少なくともプライベートな空間でたばこは吸えるのだから、喫煙者も公共空間くらい我慢することも必要と考えるから)

しかし、喫煙者が近くにいるのも嫌だという近年の禁煙家の主張、あるいはそれに伴う条例、その他による規制強化がなされているが、そうした規制は果たして喫煙者というマイノリティの権利を尊重したものと言えるのか?というよりわずかな受動喫煙で発がん性が上がるやらやにがつくやら言い出す、あるいは不満に思うさまはあまりに寛容性に欠けた態度と言わざるを得ない。(まあ、喫煙者も禁煙者の人間がいるかもしれないくらいの気持ちを持って、せめて申し訳なさげに吸うくらいの配慮はしてほしいかもしれないが)むしろ、少しは喫煙者の気持ちに立ってあげてもいいんじゃない?という気もするのである。

最近、友人とのトークによく出てくる「自己啓発くん」もそういった部類の人間の1つである。生活習慣、人生設計、仕事への取り組み方、性格、勉強法から睡眠にいたるまでありとあらゆる自己啓発本が発売されている。最近も「もし高校野球部のマネージャーがドラッガーのマネジメントを読んだら」という本が大ヒットセラーとなった。別に自己啓発は悪いことではない。私も、自己啓発本の類は買いこそしないが、多少興味を持ってちらちらと見出しの流し読みをしてしまうことがある。(まあ最近だとこういう行為は情報窃盗と呼ばれ、非難の対象になっているし、私もこうしたことをやってはならないと自制しているつもりなのだが、どうしてもやってしまう)さらに言えば、自己実現や自己啓発的なことは嫌いというわけでもない。露骨にやりはしないが、少しは気にして生きてみようとも思ったりもする。

ただ、こうした自己啓発くんは、確かに最初の志は自分の生活を改めなければ幸せになれないという至ってまっとうなところからスタートしたのかもしれないが、大学での自己啓発的なお方の様子を見たり、人づてに聞いたりしていると、「成長」「努力」している自分がかっこいい、あるいはそういうのに取り組むことを自己目的化してしまい、手段が目的と化してしまっている人が少なくないように思える。

自己啓発していることや健康であること、あるいは禁煙していること。確かにどれも間違ったことではない。自分を高める努力をし、健康的であり、禁煙する。どれも人間として恥じない行動である。私もそう思うから少しは実践しようと心掛ける。

しかしながら、これらを徹底してやろうという人間に限って、私は感心しない人間が多いように思われる。自己陶酔というかそれを徹底してやらない他者に対して十分な理解力を示さない人間が多すぎる。自己啓発しているお方や健康的な生活に気を配られているお方はそんなに偉いの?僕はえらいひととは、震災ボランティアでものを借りようとしたら、「福島から持って帰ってきたものなら焼き捨てて」とかまかり間違えば差別発言ともとれるようなことをするまで健康を気にすることであったり、自己実現していない人間を見下して自己陶酔している人間のことを指すのであれば、そうでないことを望む。

人とはほどほどがちょうどよい。自己啓発は表面上素晴らしい人間を生み出すかもしれないが、世間の自己実現本を読みこんだって、教養や学術、その他人間としての深みをもたらすものは何も身につかない。健康を徹底して気にすることは表面上、データをよくするかもしれないが、人間の体なんて何もわかっていないに等しいので、そんなことをいちいち気にしてストレスをためるくらいならほどほどにしておいて、生活でストレスをためない工夫でもしておいたほうがよっぽど有意義だろう。

自分も含め、社会が余裕を失っているのかもしれない。ただ、自己啓発やら健康やらブームに踊らされず、選択的に自分にとって有意義なものを選べる、また選ばない人に対して偏見を持たず積極的に付き合っていける、そういう寛容な人間になりたいものである。

(執筆者 43)

2011年7月8日金曜日

原発再稼働は不可能である―九電・政府の愚

九州電力のやらせメール事件には開いた口がふさがらない。愚の骨頂としか言いようがない。あのようなことをすれば九州電力に対する信頼が地に堕ちることぐらい想像がつかなかったのだろうか。今回の件で、反原発派はもちろんのこと、地元住民や脱原発に対して慎重であった人、原発再開を容認していた人なども不信感が一気に高まったに違いない。

はっきり言って、電力会社や政府は本当に原発を再稼働させる意欲があるのかと首を傾げたくなる。今求められているのは姑息な小手先だけの工作ではない。必要なのは徹底した情報公開と説明責任なのだ。にもかかわらず、今回のような事件は、まさに“原子力村”の閉鎖性や隠蔽体質を改めて露呈させてしまった。これでは国民の理解はいつまでたっても得られまい。

さらに問題なのが政府である。浜岡原発停止や再生エネルギーなど、国民受けの良い事柄には積極的に関与する菅総理だが、原発再稼働は海江田経産大臣にまかせっきりで自身の手は一切汚そうとしない(メール事件を受けて海江田大臣が辞任を示唆したのは、実のところもう菅内閣に嫌気がさしたのだと私は考えている)。佐賀県知事が言っていたように、直接総理が出向いて再稼働を要請するのが筋だろう。しかし実際には再稼働どころか、今更にストレステストなどということを言い出す始末である。

現内閣では原発再稼働は不可能である。菅総理は自身の首と引き換えに原発再稼働を懇願するしかない。もっとも菅総理は自身の保身に汲々とし、原発のことなどすっかり忘れているだろうが。

(執筆者:坂木)


2011年7月5日火曜日

脱原発解散・国民投票について

私は基本的に原発は引き続き存続させていくべきだという立場である。しかもかなり長期にわたって維持・拡大すべきだという考え方を持っている。理由については今回の記事の最後に長々と書き連ねておいたので参考にしてほしいと思うが、今回の趣旨はそこにはないので続きを書きたいと思う。

私は今のにわか反原発派の台頭はただ単にセンセーショナルなマスメディアや政治家、あるいはネットなどの不確かな情報ソースに踊らされた結果のみではないと思っている。より具体的に言えば今まで原子力推進派、いわゆる原子力村が一般国民を愚弄し、情報開示を可能な限り避けることで、安全性をアピールしてきたつけであると思う。基本的にあれだけの巨大施設を稼動させているのである。トラブルの1つや2つないほうがおかしい。そうした事実は今まで伏せられてきた。それが今になって公開され、あるいはこの事故という形で神話が崩壊し、それに対して国民は怒り、とまどい、そしてそうしたある種の裏切り感情が今の怨嗟のような声に結集しているのだと思う。彼らが本気で原子力発電を安全だと思っていたか?正直疑問だと思う。チェルノブイリしかりスリーマイルしかり原発事故について私たちは安全だと信じ込んでいたときから知っていたわけだから。確かに一般国民はいつ何時も政策について考える暇もないだろうし、天才でもないだろう。しかしながら私が思うに、日本人はそこまで愚かではないと思うのだ。十分な情報を与えられればそれに対して直感的にでもそれなりに悪くない答えを出せる国民だと信じている。

今現在の世論調査を見てほしい。これだけ自称有識者やマスメディアが反原発アピールを繰り広げても、約半数は未だに原子力発電所を維持すべきだと考えている。彼らは原子力村の意見を妄信する「情報弱者」なのだろうか?確かにそういう側面もあるのかもしれないが、私はそれだけではないと思う。彼らは突然のにわか反原発派に対してとまどっているのではないだろうか?あるいは突然沸き起こった単純な二元論に対してうさんくさい見方を崩していないから現状維持の見方を崩していないのではないだろうか?

私は今こそ原発推進派こそが国民投票を訴えるべきときだと思う。突飛と思われるかもしれない。しかし私は本気だ。原子力発電とは目に見えない放射線・放射性物質を押さえ込むという意味で私たちに実際以上の恐怖感を与える。そうしたものを推進する際は、国民からの十分な賛成が得られなければ推進できないと思うのだ。むしろ不可能である。

正確に言えば原子力推進派、いわゆる原子力村の方々が懺悔し、反省した上で、誠実に原発の危険性、あるいは安全対策について説明しなければならない。エネルギーのこれからについて自然エネルギー・石油・化石燃料問わずあらゆるエネルギーの専門家から意見を聴取し、幅広い観点から情報提供を図る。その絶好の機会として国民投票を推進派こそ提案すべきなのである。センセーショナルな議論から一歩脱出し、本気で原発を推進するならば今までのような逃げの姿勢ではにっちもさっちも行かない。

私は原子力の人間ではない。(どちらかといえば対立派閥の化石燃料について研究している学生、原子力に予算下りなかったら万歳かも・・・)原子力の方々は本気で、原子力を推進することが日本の将来のためになると思うのであれば、今こそ国民に正々堂々を訴えればよろしい。訴える気もないならば、私たちは茨の道を歩んだ方がいいということなのであろう。


さらに言えば近年浮上しているにわか反原発派「菅直人首相」による脱原発解散ならば、自民党は断固受けて立つべきなのだ。エネルギー政策における原子力発電の重要性について語ればよろしい。国民は苦い薬を嫌うのではない。嘘や閉鎖的な体質を嫌うのである。日本はそれなりに成熟した社会である。マスメディア・政治家・企業のやらせや演出、過大広告といったものをうけて、そうしたものがあることを前提に生きている人々である。日本人の体質上、正直、なまじ反原発を主張するよりも、原発推進を堂々と主張した方が、今の状況では支持が集まるような気がするのだが、気のせいだろうか?(松下がガスファンヒーターのリコールCMを放送し始めたとたん、パナソニック製品の売り上げが伸びたように。)


理由について

①遅くとも2030年代には石油資源は生産最大になる。非在来型の化石燃料資源を含めても、2050~2100年とされている。いくらでも石油は掘り起こせるんだといった机上の空論を述べる人間もいるが、はっきり言って無理。技術革新のおかげで今まで石油生産は持っていたが、これからの増進回収技術の向上には限界がある。
(Key Word)ピークオイル・ラビットリミット・石油増進回収(EOR)・ASPO

②自然エネルギーを100%にすることは極めて困難。百歩譲っても50%でもいけるかどうか・・・。
例えば、悪の権化として名高い関西電力が堺市の建設を進めているメガソーラーは20ha・1万kWであるが、単純計算で旧式原発10個分の目がソーラーを建設するためには20000ha必要。これでも日本の電力供給量の10%も行かない。これだけの土地をソーラーパネルのみに利用することの無意味さは理解していただけるはず。土地集約性の意味で無駄が多すぎる。せめてもう少し技術革新してくれれば・・・。
洋上風力は漁業権の問題があるし、日本は欧州ほど偏西風の安定した良い風が吹いていない。コスト面では期待だが、これから漁業権をうまく救済できるような大きな枠組みを構築していく必要があるだろうとは思う。・・・、あれ、これ原発でも同じ構図を聞いたことのあるような・・・。
地熱は何年かに1回事故を起こしているし、温泉との競合のため建設がとても進まない。国立公園の環境破壊にもつながる。これも温泉事業を進めている業者への保障を踏まえた基金「地熱電源安定交付金」みたいなものを創設しないと、建設は進まないだろう。・・・、あれ、これ原発でも同じ構図を聞いたことのあるような・・・。ただでさえ原発より3倍くらいコストかかるのに。
ごみ焼却やし尿・家畜の糞尿を利用したバイオマス発電を地域振興的に実行するも考えられるが、日本はそれほど畜産が盛んじゃないのでどれほどのエネルギーが確保できることやら。

③最新式の原発は思われているよりも安全
率直に言えば古い原発をがんがん廃炉にして、原発を新設しなおすほうが、コスト競争力・安全性の両面から効率的。初期型と比べて今の原発は第三世代と呼ばれており、事故に対する耐久性が大幅に向上している。(勿論完全などという言葉は存在しないので、事故を起こす可能性は否定できないが)
さらに日米仏で原子炉の第四世代に向けた研究開発が始められている。こうした原発が開発されれば、福島原発のような事故に対するリスクをさらに減らすことも可能であろう。原発は危険であり、その意識を前提にしたうえで運営していかなければならない。しかし、技術的進歩を怠らなければ、安全性は向上していけるものである。

こうしたことから、現実的には可能な限り再生可能エネルギーを拡大させ、それでも脱石油に不足する部分を原子力で賄うことで、2030年までに私は脱石油を実現し、原子力50%、新エネルギー30%、天然ガス20%による低炭素社会を実現すべきだと主張するわけである。コスト面でもエネルギーの安定供給の面でもいたって常識的な案だ。



(執筆者 43)