2011年10月26日水曜日

前原発言を支持する

 民主党の前原氏がTPP参加交渉後に離脱もありうると発言したことに対して与野党から批判の声が上がっている。しかし私はこの発言が必ずしも誤っているとは思わない。

 交渉の結果、日本の国益にそぐわない内容になった場合に離脱するというのは何らおかしなことではない。現実には離脱は困難だという意見もあるが、だからといって同氏の発言を批判するのはいかがなものだろうか。交渉中に離脱をちらつかせて自国に有利な条件を引き出すというのも立派な交渉術である。交渉前から自国の手足を縛るような批判は慎むべきだろう。

自転車の取り締まり強化について思うこと

 最近、自転車の交通取り締まりが強化されている。基本的に私はこの方針に賛成である。私は自転車にも自動車にも乗るのでよくわかるが、自転車のユーザーの交通法規に対する意識はあまりにも希薄である。

道路交通法上、自転車は軽車両であり原則として自動車と同様の規制を受ける。しかしながら、一時停止違反、車道の逆走、無灯火など自転車の法規違反は目に余るものがある。したがって取り締まり強化はやむをえまい。また、それだけでなく、自転車を運転する際にも学科講習を義務付けるなど、ユーザーの意識向上にも努めるべきではないだろうか。

ただし付け加えておくと、自動車の運転手にも問題がある。個人的な体験で恐縮だが、以前こんなことがあった。私が車道の左端を自転車で走行していたところ、後ろから来た自動車にクラクションを鳴らされたのだ。言うまでもなく私の行為は法律に則ったものでありクラクションを鳴らされる謂われはない。このような、本当に免許を持っているのかと疑いたくなるような無知で不届きなドライバーもいるのである。自転車のマナー向上と並行して自動車のマナー向上も必要だろう。

(坂木)

2011年10月24日月曜日

TPP交渉に参加せよ

 世間ではTPPについて侃侃諤諤の議論が展開されている。TPP参加の是非ではなく交渉参加の是非の段階でこの揉め様である。個人的な意見としては交渉の結果をみて改めて参加の是非を判断すればよいと思うのだが。したがって私は現段階では推進派でも反対派でもない。交渉の結果を見極めたいから立場を決めるつもりである。ただ反対派の論理には飛躍が散見されるとも感じている。

 例えば反対派は、TPPが導入されると食品の安全基準が外国のものに統一され、その結果日本の基準では安全とはいえない食品が食卓に並ぶことになるという。消費者が強制的に外国産の食品を買わされるというならばこの論は正しいだろう。しかし安全な食品が欲しいという消費者は安全な国産のものを買えばよいのである。価格は外国産に比べて割高になるだろうが、安心のためならばさほど高くはない。

 これは反対派が主張する農業衰退論にもつながる。確かに日本の農業が外国との価格競争に勝つことは困難だ。しかし食品というものは工業製品と違って口に入れるものである。安ければいいという話ではない。安いが危険な食べ物と多少高いが安心な食べ物、賢明な消費者はどちらを選ぶだろうか。日本の消費者はただ安いものに群がる愚者ではない。TPP反対派や国内農業保護論者は日本の消費者をバカにしているのではなかろうか。話を元に戻すと、国内農業が生き残る鍵はここにある。すなわち安全性、高品質を売りにするべきなのである。実際のところ、日本の高品質な農産物は海外では大変な人気である。TPP参加で日本の農業は壊滅という悲観論だけではなく、これを機に日本の農産物を海外に積極的に売り出そうという気概も必要である。

 更に話を進めると、現状のままではTPPに参加するしないに関わらず国内農業の衰退は免れない。零細農家中心の体制を脱却し、大規模農家の育成、法人の参加促進、農協改革などを進めなければそれこそ日本の農業は壊滅するだろう。しかしそうした改革は遅々として進まない。最早農家への個別所得補償で解決できる次元ではないのである。反対派はこうした問題に対してどのような認識を持っているのだろうか。

 またTPP参加後、外国から単純労働者や弁護士・医者などの専門技術者が大量に国内に流入するという話もあるが、これは飛躍が過ぎるだろう。なぜならばこの主張は言語の壁を無視ないし過小評価しているからである。日本語もろくにできない労働者を企業は雇うだろうか。弁護士や医者についても、日本人でも理解しづらい法律や医療の専門用語を考えればなおのことである。日本人の顧客が積極的に外国人弁護士や医師を利用するメリットもみつからない。

 全体的にTPP反対派の論理は、日本の消費者・顧客の観点が欠落している、あるいは彼らの見識を不当に低く見積もっていると感じざるを得ない。国民皆保険制度崩壊などもいささか誇張が過ぎるのではなかろうか。ただし、だからといって反対派の主張はとるに足らないと言っている訳ではない。

 反対派の言うようにデフレの問題は無視できない。外国から安い製品が輸入されるということはそれだけデフレに拍車がかかることになる。だたでさえ日本は長期的デフレに悩まされているのに、更にそれが悪化するというのは深刻な問題だろう。したがってTPPに参加する場合にはデフレの解決が不可避といえる。

 輸出依存度の低い日本がTPPに参加するメリットはあまりないという主張も概ね妥当といえる。ただし、敢えて言うならば、TPPに参加しなければ日本の輸出量・貿易黒字は減少することになる(少なくとも増えることはない)が。

また、輸出を伸ばしたいならTPPよりも円高対策という主張もその通りだ。現状のような異常な円高(ドル安というべきか)が続けばTPPの旨みも減少してしまう。

 いずれにせよ推進派・反対派双方が歩み寄って議論することが不可欠である。その際にはメリット・デメリットを互いに認め合うことが肝心だ。TPPはこの国のありかたを大きく左右する重大な問題だ。決して「平成の開国」などという安易なきれいごとで済ませる問題ではない。

 そして何よりも、交渉してみなければどうなるかわからないのである。初めからアメリカに要求を呑まされると言っている人々は日本という国家を無能力国家とでも言いたいのであろうか。確かに民主党政権では心許ない気持ちも理解できる。しかし交渉もしていないのに、あたかも日本社会が奈落の底に突き落とされるかのようにデメリットばかりを強調し不安を煽るのはいただけない。交渉の結果、どうやら不安が現実のものとなりそうだというのであれば反対してもらって結構だ。しかし現状でとやかく喚きたてるのはお門違いである。

(坂木)

2011年10月22日土曜日

護憲派の矛盾

 最近、憲法9条改正問題に関して改憲派の観点から調べているのだが、学術書は圧倒的に護憲派からの主張が多く辟易している。彼らの気違いじみた論理には滑稽さと気持ち悪さを感じざるを得ない。既にこの問題に関してはさまざまな議論がなされ平行線を辿っているが、私の感じる所を述べたい。

 護憲派に多い主張のひとつが「外交努力」である。武力で対外問題を解決するのではなく、外交で解決するべきだという論理だ。確かに外交は大切だが、この手の論理に欠落しているのは、外交力と武力は車輪の両輪だということだ。丸腰の相手の言うことなど誰がきくというのか。よっぽどのお人よしならまだしも、自国の利益の確保に常に鎬を削っている国際社会では通用しない。なぜ中国が毎年軍拡を続けているのかを考えれば一目瞭然だろう。何も中国は戦争をしようとしているのではない(局地的紛争は十分あり得るが)。強大な軍事力を背景に自国に有利な外交を実現するのが目的だろう。

 こうした護憲派の外交努力理論は性善説を採用しているといってよい。じっくり話せば相手も理解するだろうと。しかしひとたびその視線が日本国民へと向けられると、性善説は一転、性悪説へと豹変する。憲法を改正すると再び日本は軍事大国となり、戦争を起こすという認識がそれだ。なぜ諸外国の人々は話し合いを好む平和的民族なのに、日本人だけは武力を持った途端戦争を起こす好戦的な民族というのかまことに不可解としか言いようがない。護憲派の認識では、人間は過去から学び、戦争を起こさないようにする能力を持っているのではないのか。にもかかわらず、日本人だけが戦争を繰り返すというのは民族差別に他ならない。

このように一方では人間理性を信奉しておきながら、一方ではそれを否定する護憲派の論理は破綻しているのである。

(坂木)

2011年10月18日火曜日

死刑存置派による思考実験・・・あえて死刑廃止論を考えてみる

私は基本的には死刑存置派である。しかしながら死刑反対派はこうした死刑存置派を基本的に無知蒙昧な存在として扱っている。そもそも両者には大きな隔たりがあるという点について死刑反対派が直視することはほとんどないといってよい。

死刑存置派にとって死刑(あるいは刑罰)とは、社会秩序に反した者に対して、社会正義を実現する手段(応報刑)であって、社会の防衛や抑止力などの一般予防、あるいは教育・矯正を通した特別予防といった観点は0とは言わないが、あまり重視していない。要は社会正義を実現するための応報の結果として、より一般予防の効果を高めるとか、特別予防の効果を高めるとか、社会全体の功利を高めるという発想はあるが、あくまでそうした観点は応報を超えるものではない。実は法学の解釈上、刑罰とは応報刑であり、リベラル派曰くの特別予防や一般予防は応報の範囲内で行われるものとされているので、一般的な感覚は、法学の厳密な解釈と合致していたりする。

一方、死刑反対派から見れば、死刑(あるいは刑罰)は社会正義を実現する手段ではなく、加害者の社会復帰や矯正、あるいは刑罰の威嚇性による一般予防によって社会を安全にすることこそが重要であり、個人に対する応報はそれほどの重点を置いていない。むしろ個人の素朴な感情など、無知蒙昧な愚民どものたわごととしか思っていないのではないかと思われるきらいもある。

したがって死刑反対派がいくら死刑存置派をなじろうとも、死刑存置派から見れば痛くもかゆくもない。論点が違うからである。

もし私が死刑反対派だったとしよう。
一般的な死刑反対論者は以下のような主張をしている。

①死刑の不可逆性(冤罪が発生した場合、取り返しがつかない)
②懲役刑と対比したときの、生命刑の異質性(死刑のみ極端に重すぎる)
③国際的な趨勢
④抑止効果がほとんどないこと

これらには被害者感情、応報感情に対する回答がほとんど示されていない。ただ死刑反対派はこうした考え方を『野蛮な』考え方として、拒絶しているだけである。あるいは死刑反対派で有名な犯罪被害者を会議に参加させて、被害者にも配慮していますアピールをするだけである。はっきり言って、死刑反対論は血を吐くような犯罪被害者の悲鳴に対しては何ら無力なのだ。拒絶したって世論は何も変わらないのに…。基本的に死刑反対派はリベラルな自分に酔ってるだけなのだと思う。「死刑反対なんて世論に反して公言できる自分かっこいい!!」

死刑反対派に聞きたい。あなたにとって死刑反対とは自分がリベラルであることをアピールするファッションなのだろうか?そうでなければ、なぜ死刑反対論が社会に浸透しないか、しっかり検証する必要があると思うのだが。

私が死刑反対派ならば初めにやるべきことは、被害者にとって死刑が意味をなさないものであることをアピールすることであり、終身刑の非人道性をアピールし、死刑のみが加害者に与えられる最大の刑罰というイメージを払しょくすることである。

①統計的に死刑を執行されても、被害者の加害者に関する感情は改善されない事実から、応報として、死刑は適切ではない。むしろ刑務所にぶち込みながら、被害者と加害者の関係回復プロセスを通じて、被害者の加害者に対する感情回復を緩やかに進めていくことが、被害者遺族の精神性の回復につながり、ひいては被害者遺族の社会復帰にもつながる。

②終身刑などの代替刑によって、応報に関しても十分満たされるということ。死刑にすることだけが、加害者にとって苦しいことではない。むしろ自由な時間をすべて奪い取り、監獄に押しとどめ続けることも十分、応報につながること。

をアピールするだろう。まあこれが本当の意味での死刑廃止論かは微妙だが。こうでもしないと死刑存置論は消えないと思うけどなぁ・・・。

(執筆者・43)

※私の刑罰論・死刑論について

まずはその人間が社会全体に与えた脅威に対して十分な罪を償わせるべきである。地下鉄サリン事件のような大量殺戮事件を起こしても、一生の命が保障されているのははたして正しいのか?

もちろん一般予防や特別予防を軽視してはならない。

軽犯罪・窃盗・強盗などの繰り返し起こる犯罪に関してはノートレランスによる取り締まりの強化や罰則の強化は犯罪抑止効果が高いといわれている。あるいは割れ窓理論のような地域での清掃活動に端を発する環境改善運動も限定的な効果ながら一定の効果が期待できるだろう(犯罪学ではごく限定的な効果しかない、効果がある、両方の説があるらしい)。

一方、重大犯罪に関してはこうした刑罰の強化はあまり犯罪抑止につながらないといわれている。したがって重大犯罪に対してでも死刑を与えることは限定的であるべきとも思う。今のレベルでの死刑判決には必ずしも賛成しない。そのためには無期懲役をもっときめ細やかにし、10年で仮釈放可能とするⅠ種(今までの無期懲役)と40年で仮釈放可能とする2種(現状の無期懲役の運用実態平均30年服役から比べると重いもの)、仮釈放を認めない3種(終身刑)に分けるなどの形で、死刑判決を回避するなどいくつかのやり方は考えられるだろう。

あるいは軽微な犯罪を繰り返し起こす犯罪者が多いなど、今の司法制度には問題を抱えているのも事実であり、そういった意味では刑務所の中での職業教育の強化は急務だろう。こうした囚人が社会性を持つためには模範囚に限り、刑務所外での企業勤務を認め、彼らの社会とのつながりを服役中から養わせることも重要かもしれない。そういう意味では無条件の厳罰化には反対で、少年犯罪や経済犯罪、軽犯罪の累犯者などむしろ緩和方向にすべきものもあるだろう。トータルで見れば、罪の緩和の方向に向かってもそれはそれで構わないと思う。むしろそれで応報が十分満たされ、社会全体の秩序が保たれるならば、それは喜ぶべきこととさえ思う。

私が望むのは罪に対する適正な応報が第一であり、こうした適正な応報が満たされた範囲内での適切な矯正教育・職業教育・社会復帰活動を通した再犯防止、あるいは抑止力の効果を使った社会全体の犯罪の削減である。

2011年10月14日金曜日

世田谷放射能騒動に思う

 世田谷の放射能騒動の原因は原発事故ではなく、民家床下のラジウムが原因だった。この騒動は全く以て皮肉というほかない。

 もし福島の事故がなければ床下のラジウムはそのまま放置され続けていただろうし、例の区道も“ホットスポット”のままだった。逆にいえば、福島の事故が起こるまで、近隣住民や通行人は被曝していたのである。

このように、我々の与り知らぬところで我々は被曝の可能性に晒されているということが今回改めて露呈された。そもそも我々は普通に生活しているだけでも被曝している。大地や水、食糧からも放射能は出ているのである。さらに今回の騒動である。気がつかないだけで、もしかしたら我々のすぐ近くにも“ホットスポット”は存在するかもしれない。

原発事故以来、過剰な放射能アレルギーが蔓延しているが、原発事故が起ころうとも起きまいとも我々が被曝のリスクを抱えていることに変わりはないし、実際に被曝している。無論、今回の事故によって放射能の量が増えた地域もあることは否定しない。私が言いたいのは、過敏になってはならないということである。自分は常に被曝しているんだというぐらいの気構えで気楽に過ごす。これが健康には一番いいと思う。

(坂木)