2012年2月21日火曜日

橋下・維新の会を支持した保守派の怠慢

 近頃、保守派の間で橋下氏と維新の会に対する批判の声が上がっている。同氏を愛国的だと思っていたが、TPP推進や外国人参政権容認といった理由から失望したということのようだ。私に言わせれば、何をいまさらという感じである。これは、民主党が政権をとったときとまったく同じ構図である。期待したが、失望した。ここには、“保守派”と呼ばれる方々の怠慢がある。

 櫻井よしこ女史が野田政権の増税やTPP参加路線を評価したことで、保守派から猛攻撃されたという出来事も無関係ではない。要するに、保守派が安易な方向に傾きすぎなのだ。日の丸・君が代に賛成=保守、TPP推進=売国奴というように、個々の問題に対するスタンスで条件反射的に保守・左翼(売国奴)と決めつける。

 橋下氏の場合でも同様だ。日の丸・君が代条例を掲げたり、労組に対して批判的であったり、そうした側面だけをみてすぐに橋下氏に飛びつく。彼が保守たりえないことは当ブログで指摘してきたので詳しくは言及しないが、彼のラディカリズムは保守とは対極にある。また、彼には保守主義の理念に則ったビジョンがあるというわけでもない。たちあがれ日本の平沼赳夫代表が、維新の会の「維新版・船中八策」について「国家観がない」と批判したが、まさにその通りなのである。彼らは、改革という旗印のもとで、大衆受けのいい豪快な手法を掲げているのであって、改革の先にあるビジョンを提示していない。首相公選制にしても参院廃止にしても、それはただの手段である。おそらく、日の丸・君が代条例というのも、彼が本当に愛国的だから制定したわけではないだろう。ただその方が多くの人の支持を得られるからである。

 にもかかわらず、安易に橋下氏を支持してしまったのは、ろくに考えもせず、目先のことだけに飛びついた保守派の怠慢以外の何ものでもない。大局的見地からいって、櫻井氏と橋下氏、どちらが保守なのか、いうまでもなかろう。保守派の面々は、もっとよく考え、大局観をもって物事を見極めるべきだ。

 そして何よりも私が危惧するのは、保守派に寛容さが失われつつあることだ。例えば、TPP推進と口にしようものならばすぐに猛攻撃する。櫻井氏への攻撃が典型例だ。本来、保守主義は寛容さを持ち合わせた思想である。反対に、少しでも異なるものを排除しようとするのが、フランス革命に代表されるような左翼であった。保守派の方々には、異なる意見でも受け入れる寛容さをもっと身についていただきたい。


(坂木)

2012年2月17日金曜日

橋下新党・船中八策を検証する(7)

⑦外交・安全保障

現実的な路線である。あえて言えば、日米豪だけでなく、環太平洋全域を視野に入れた集団安全保障体制の構築くらいのグランドデザインは述べてほしかった。大平首相が「環太平洋同盟」という考え方はすでに述べているのだ。また憲法9条の問題にももっと積極的に踏み込んでほしかった。

⑧憲法改正

参院廃止と地方首長による第二院創設は反対である。個人的によくする話がある。フランクリン・ルーズベルトとブッシュはどちらが優秀かという問いにほとんどの日本人は「いうまでもなくルーズベルトだ」と答えるだろう。しかし、本当にそうか?第二次世界大戦当時の社会構造と今の社会構造では、明らかに今の社会構造の方が複雑化しており、考えられる解もたくさんある。そんな中でルーズベルトが成功し、ブッシュがうまくいかなかったことを持って、ブッシュを無能と断ずるのは正しいのか?

これこそ専門性の高まった現代社会の問題点である。そんな中で地方首長が片手間に議論する第二院が十分に機能するのか?機能するわけがない。

改正要件の緩和は賛成である。

以上、項目別に論評してきたが、橋下新党・船中八策について、どうとらえるかの1つの指針となれば幸いである。

(執筆者  43)

橋下新党・船中八策を検証する(6)

⑤経済政策・税制改革

TPP参加は一貫して賛成してきたので、個人的には大歓迎である。TPP関連記事については、以下に考え方を示しているので、参照していただきたい。

TPP推進派の弁明

基本的に自由貿易の方が日本にとって国益になるのは疑いない。貿易依存度が低いのは、日本が内需中心型だからではない。日本の輸出産業は自動車くらいしかないから、ほかの産業で輸出できないのである。要は内向きだから戦う気がないのである。それではこれから内需の停滞する日本で企業は生き残っていけない。日本の工業・サービス業の競争力は決して弱くないのだ。むしろTPPを起爆剤に外需を取り込む努力をすべきだ。また農業についても、品質が高いからそう簡単に負けるとは思えない。むしろ今の高付加価値性に気づかずに種子や栽培法を他国に売られてしまうことが恐ろしい。農林水産業の潜在的能力の高さをしっかり認識したうえで、栽培法や品種を守るための法整備を進めるべきである。

税制に関してだが、基本的な方向には賛同する。ただし相続税の増税には反対である。資産課税を強化すれば、相続税を増税せずとも(むしろ相続税は廃止してもいい)税の再配分機能を強化できるし、それに近い効果は十分に得られる。一方、資産家が財産を死蔵させるのではなく、財産を積極的に運用してもらうきっかけとして資産課税に賛成する。日本は外貨準備が大きいといわれるが、それは資産家が投資しているからではなく、国が外貨をたくさん持っているからである。所得収支が大きいというが、民間ではあまり稼げていないのだ。

日本国民総バフェット化といえばオーバーかもしれないが、資産総額に対する課税をすることで税の再配分を強化し、格差を是正する。一方で、ちゃんと運用している資産家に損にならないようインセンティブを与えることも必要となるだろう。

橋下新党・船中八策を検証する(5)

④公務員制度改革

職員基本条例や能力給の導入だが、これも基本的には賛成である。ただしポピュリズムに走り過ぎ、公務員たたきをすればよいといった誤った観念が広まることは危惧する。

基本的にだが、公務員は過度に質の良すぎる部分と過重労働の部分が共存してしまっているのだと思う。たとえば、政策立案の中枢部分は今の給与では見合わないくらいに過重労働をしている。公務員批判をしている人間からすると、「公僕」なのだから、薄給で民間人以上に働かないといけないのかもしれないが、そんなことをして、バカな政策しか立案できない公務員のみになって困るのは私たちなのだ。そういった意味で、こうした創造的な仕事をしているところに能力給を導入し、高給を与えるのは正しい。給与はむしろ上げるべきである。

しかしこんな創造的な仕事をしている公務員は全体の1割にも満たないだろう。大半は事務仕事・現業をしているわけである。こうした仕事は頭脳労働はほとんどない。能力給にしても意味がない。にもかかわらず、公務員の安定性から必要以上に高学歴の人間が集中して、役所に入っていくこととなる。これでは、有意な人材が民間企業で生かされず、役所側も仕事のわりに高給を支払う必要が出るなど、人材のミスマッチが甚だしい。本来、大半の公務員の仕事はそれこそ生活保護世帯やワープアの人々に月給十数万くらいでワークシェアリングすればいいのである。

公務員の数も給与も少なくすることはばかげている。むしろ給与を安く、公務員数を増やすことで有意な人材を民間企業に送り込み、貧困層に公務員の雇用口を割り当て、役所をセーフティーネットのように扱えばいいのである。これが欧州での一般的な公務員の姿である。だから欧州では公務員数が多いのだ。逆に日本は無駄に人材の質がいいので公務員数が全労働人口に比べて少ない。

最低限の政策立案に必要な人間のみキャリアとして採用すればよいのではないか?


⑤社会保障制度改革

掛け捨て制は聞こえはいいが、高所得者のみ年金支給をやめるというシステム上のコストを考えれば、実はそれほど割のいいことではない。高々数%に支給しないことでねん出できる財源と、そのためのシステムを作るためのコストでは公務員やシステムのコストの方が大きくなってしまうことだってあり得るのだ。

積立制の年金導入も聞こえはいいが、今の賦課制度から積立制度に切り替える際に、積み立ての財源をねん出する必要がある。つまりは今の現役世代は、ただでさえ賦課制度で損しているのに、さらに積立制度の積立金も捻出するという二重損になってしまう。そうでなければ、数百兆円単位の国債発行で賄うしかない。

ベーシックインカムと負の所得税を並立させて検討課題としていることに至っては失笑ものである。ネットで識者(笑)に聞いたことをそのまま載せたのかもしれないが、ベーシックインカムと負の所得税は本質的に同じことである。

ベーシックインカムはすべての人に均一にお金を支給する考え方である。だから働けば働くほど収入は増える。どちらかといえば障碍者の人権運動に端を発する考え方で「生きることも労働だ」というどこのマルクス主義だよという主張から端を発している。

これに対して、負の所得税は高所得者にはベーシックインカムの分を控除し、低所得者にはベーシックインカムに足りない部分を段階的に給付付き税額控除することで、働くほど収入を増やす仕組みにする、労働意欲をそがないようにする制度である。フリードマンが提唱した政策であり、ネオリベラリズムと親和性が高い。なので、負の所得税を提唱する人は、生活保護や年金制度の廃止を主張する場合が多い。

財源は負の所得税の方が少ないし、発想がネオリベ的なのだが、本質的にやってることは負の所得税とベーシックインカムでは何ら違いはない。

橋下新党の考え方で最もずさんな部分がこの社会保障制度である。猛省していただきたい。

(執筆者 43)

橋下新党・船中八策を検証する(4)

③教育改革

教育が一部のイデオロギーによって占拠されている事実は疑いようのない事実である。こういうと、ネトウヨなどといわれてしまうのだが、事実なのだからしょうがない。確かにかつてと比べると日教組はじめ左翼系教職員組合の組織率は低下の一途をたどっている。また、学力テストが復活したことに代表されるように、国家教育権といったものに対する抵抗感が薄れ、適切な教育行政を執行しやすい環境になっている。しかし、残念なことに、行政はサイレントマジョリティーよりノイジーマイノリティーに左右されやすい存在である。これは右翼左翼問わず、影響を受けるのだが、とりわけ教育の場合、教職員組合の存在がノイジーマイノリティーの中で最も比重が大きい。そういった意味で教育関連の独立性を高める改革は重要である。ノイジーマイノリティーの典型である教職員組合の影響力を排除し、ある程度民意を反映させることが、教育の見直しにおいていの一番に求められるのだ。

また、教育委員会の選択制についても、学校評議会制に移行することによって地域主体の教育行政を展開することになる。確かにPTAやら地域住民の意見を反映することがかえって子供たちの成長を阻害する可能性も否定できない。しかし、今まで密室で取り決められてきた教育行政に比べれば、まだましではないかと思う。なので、個人的には学校評議会制に全面移行するのは賛成である。

しかし、教育は心理学、教育行政学、統計学、精神医学など幅広い見地が必要な専門性の高い分野でもある。したがってただ民意万歳で教育行政を管理することはかえって子供たちの成長を阻害する可能性がある。そういう意味で、高度な専門性を担保する組織が必要である。現行の教育委員会制度に限界があることは認めるが、教育委員会の良い面を残す、例えば学校評議会をサポートする、あるいは首長の決定をサポートし、細部を決定する「教育運営委員会」のような組織を立ち上げ、精神医学・心理学・統計学・教育行政学などの専門家を配置し、地域の教育行政が過度に民意重視にならない仕組みは必要だろう。

(執筆者 43)

橋下新党・船中八策を検証する(3)

②行財政改革

プライマリーバランスの黒字化に関してだが、全面的に賛同である。

理由について簡潔に説明する。

①個人金融資産と国債残高が早ければ2015年にはクロスし、国内のみで国債を消化できない可能性
②日本の急速な少子高齢化の中で、社会保障給付の拡大に見合う財源の確保が急務であるため


ただし、個人的には計画的なインフレ誘導による実質的国債残高削減や成長戦略・多産政策・移民政策を組み合わせることによって、少しは国債負担を減らすことができると考えているので、そのあたりにもう少し言及がほしかった。しかし、某ポピュリズム政党「みんなの党」よりはよっぽど健全な財政観を持っていることを確認できただけでも、個人的には収穫である。

ネット世論では増税断固反対、国債はどんどん発行すべきだとの論調が一般的である。確かに国債は将来世代への借金とはいえ、将来世代は無限にいるので債務をかなり希釈することができる。また国内で消化できている限りはデフォルトの心配もない。そういう意味で性急な財政再建路線には反対する。しかし、国債には利子がつく。利子を償却するのはその世代の責任である。さすがにGDPの数倍に膨れ上がった借金の利子を現代世代や近い将来世代のみで負担するのは困難である。

財政の健全性とはGDP比の純債務残高から把握されるべきで、かつては外貨準備の大きさから、債務が大きくとも純債務残高ではさほど大きくなかったのだが、いまや日本は諸外国と比較しても年々拡大傾向にある。そうした意味で近い将来に財政健全化に着手する必要性というのは財務省の発言をそのまま信じるおバカでなくとも、気づくべきことである。

(執筆者 43)

橋下新党・船中八策を検証する(2)

①統治機構の見直し

地方分権の推進
多様な大都市制度の創設
首相公選制の実現
道州制の導入
地方交付税の廃止

これらはいずれも近年の地方分権への流れを強く反映したものといえる。


1-1 地方分権

<メリット>

①より市民1人1人に権力が近づくことで、民意が反映されやすくなる
②産業誘致では「大国」で誘致するより「都市国家」できめ細やかな政策を打ち出す方が、うまくいっているという近年の傾向。Ex.)シンガポール、ドバイ、香港
③住民サービスの競争(教育政策・社会保障政策など)

<デメリット>

①地方間の財政格差が深刻化
②ポピュリズム(首相公選制)
③災害時など緊急時は地方分権型より中央集権型の方が即応性は高い
④ナショナルミニマムとしてのサービスが地域によって低下するおそれ

個人的には、国際的な競争の中で、産業政策・誘致、教育政策、インフラ政策などは道州に任せるほうがよりうまくいくのではないかと考える。要は競争原理が働くとサービスが向上する可能性が高い部分は積極的に地方分権を進めていくべきである。

たとえば、産業政策は都市国家の方が小回りが利くためにうまくいく。シンガポールは有望な産業に積極投資することで、産業を育成したし、香港のように自由放任で産業誘致する政策も考えられる。あるいはドバイのようにお金の流れを誘導してあげることで産業育成する政策を取ることも考えられる。これを日本に当てはめれば、北海道はロシアからパイプライン・連絡鉄道を通して、ロシアからの外貨を獲得し、九州は中国・韓国との連携を強化する。関西は金融先物市場の活性化や自由放任政策、大学と連携した有望な産業への積極投資で新産業を創出するといったことである。

また、教育政策は確かにナショナルミニマムの問題を抱えている。しかし人材育成は均一な方針で行うより、様々な方針でバラバラにやる方が、脱工業化社会においてはより良い人材を生む可能性が高い。人材の多様性が生まれ、日本全体で見たときに相乗効果を発揮する可能性が高い。

また、これは個人的な感覚の問題だが、より富ませたり、より水準を引き上げる政策、ポジティブなサービスは市民に最終判断を仰いで悪い結果になることは少ない。しかし弱者を救済する政策や緊急時に備える政策は一般市民に判断を仰ぐと、後回しにされ、ろくな結果にならない。したがって、経済政策・消費者政策・教育政策・農業政策といった分野は地域に任せるほうがきめ細やかなサービスが期待できるが、社会保障や安全保障・外交・災害対策は任せると危険である。

一方、外交・安全保障・社会保障に関しては全体からの分配、共同体の意識が求められる分野のため、単純な競争原理を採用してしまうと、コスト高になる可能性が高い。さらに道を誤る危険性も高い。したがって国がナショナルミニマムとして、担う方が望ましい。

こうした役割分担を維新の会ができるのか、あるいは地域主権型改革という美名に騙されて、暴走するかが維新の会の力量を見る上で重要になるだろう。


1-2 首相公選制


首相公選制に関してだが、イギリスの首相が強大な力を持っているように、本来、大統領制と議院内閣制を比較すると、議会と行政府が一致する議院内閣制の方が政治は安定し、より強力なリーダーシップを発揮できるのは政治学から見て常識である。したがって首相公選制には個人的には反対である。日本の政治風土ならば、常にねじれ現象によって国会が空転しかねない。むしろ小沢流の曲解した形ではなく、イギリス的な党と政府の一体化を図っていく方が、より首相のリーダーシップ強化につながると考える。

(執筆者  43)

橋下新党・船中八策を検証する(1)

今回は珍しくシリーズものをやってみたいと思う。といっても一気に書き上げるので、シリーズものとは言えないかもしれないが、分野別に分類して検証する。

【激動!橋下維新】憲法9条…「慎重にしたい」 「船中八策」説明

まず、総論から。


世間一般に言われているようなあまりに突飛な提案ということはないように思われる。理由は単純で、今まで提案されてきた内容の焼写しだから。大阪都構想をめぐる坂木氏との論戦でも述べたが、橋下氏の述べているものは本人のアジテーション能力によってあたかも過激なもののように見えるが、実のところ、長年くすぶってきた意見であることが多い。だから、朝まで生テレビのように下手に知識もない人間がいじくると、長年議論されてきたことを熟知している橋下氏から痛烈な反論が返ってきてしまう。

今回は多面的にこれらの骨格を検証し、これらの政策のメリット・デメリットを検証していく。

(執筆者 43)

佐伯啓思『反・幸福論』を読んで

 本書は、新潮45で連載された記事がもとになっていて、サンデルの白熱教室から東日本大震災まで、話題は多岐にのぼる。本書を通じて一貫しているのは、佐伯氏特有の諦観である。それは、全てが無意味だというようなニヒリズムではなく、諸行無常という言葉に代表されるようなものである。すなわち、「死」あるいは「無」を根源的なものととらえ、現世における煩悩を振り払う価値観である。そうした観点から、利己的・俗物的な「幸福」に疑義を唱えるわけだ。

とくに印象に残っているのが、「無縁社会」についてのエッセイだ。佐伯氏は、「無縁社会」は起こるべくして起こった戦後日本の帰結であるという。戦後、自由な個人を掲げ、血縁(家族)や地縁(コミュニティ)を退けてきた結果なのだ。

とにかく「縁」や「しがらみ」という面倒なものを断ち切ろうとしたのが戦後日本だったのではないでしょうか。戦後の民主主義にせよ、個人主義にせよ、都市化にせよ、あるいは、近代主義者や進歩的知識人たちがしたり顔で唱えた「近代市民社会」なるもののしごく当然の結果が「無縁社会」なのではないでしょうか。

 いや「近代主義者」や「進歩的知識人」など、所詮は現実から遊離した観念的な理念をもてあそんでいるだけです。あまり問題にする必要はありません。そうではなく問題は日本人全体に関わることです。別に「近代主義者」でなくとも、ほとんど誰もが都会的生活にあこがれ、「イエ」や「ムラ」の窮屈さに辟易し、幸福というものは個人のものだと主張し、ともかくも都会へでれば、キラキラしたネオンのもとには無限の可能性があると思ったものでした。

 したがって、「無縁死」や「孤独死」は近代化の帰結なのである。そこで問題なのは、果たして現代の我々が、そうした「無縁死」や「孤独死」を受け入れるような価値観や死生観を持っているのかということだと佐伯氏は指摘する。

 東日本大震災以後、“絆”を見つめ直すムーブメントが起こっているが、その“絆”も表面的なものにとどまっているように思う。自身の持つ血縁や地縁を引き受ける覚悟が、“絆”を叫ぶ人々にどれほどあるのか、疑問である。彼らのいう“絆”とは、せいぜい周囲の人間との交流を深める程度のものでしかないだろう。面倒なしがらみは退け、都合のよいつながりだけを追求するようでは、本当の“絆”とはいえない。したがって、無縁社会も根本的には解決しないだろうし、本当の意味での絆を築くこともできまい。

 しかし、被災した人が灰燼に帰した故郷をみつめ、生まれ育った地を離れるわけにはいかないと言うとき、そこに自らの―地縁を含めた―運命を引き受ける覚悟を感じるのである。どこか別の地で安住するという選択もあったろうに。勝手な解釈かもしれないが、ここに本当の意味での“絆”があると私は思う。

 自らの血縁や地縁を運命として受け入れる。これはある種の諦観に近いものがあるが、これこそが「自由な個人」という近代の宿痾を克服し、絆を回復するための第一歩だろう。そしてその先に本当の意味での幸福があるように思う。


(坂木)

2012年2月12日日曜日

吉本隆明と原発

いまさらだが、随分前の週刊誌で吉本隆明が次のように語っていた。人類が積み上げてきた技術を一度の事故で放棄することは、人間が猿から別れて発達し、今日まで行ってきた営みを否定することと同じである。文明の発達とは、失敗しても再挑戦することの繰り返しだ。我々が今すべきは、原発を止めてしまうことではなく、完璧に近いほどの放射線に対する防御策を改めて講じることである。

 左翼の方々はこぞって脱原発を唱えているが、吉本の姿勢こそ、まさに左翼思想の本流をいくものであろう。それは18世紀に隆盛をほこった啓蒙主義そのものである。人間理性と、その象徴たる文明の進歩を信じて疑わない。この思想は古典的な左翼思想だ。現代の左翼思想にはエコロジーが加味されているので、脱原発という主張がうまれるのは無理ないが、左翼思想を徹底すれば吉本のような主張が本来のあるべき姿なのである。したがって、吉本は筋金入りの左翼ともいえる。

 ここまで原理主義的な左翼思想をお持ちの吉本氏には感服させられる。「敵ながらあっぱれ」といったところだ。


(坂木)