2012年4月23日月曜日

映画という救済


映画を見ることは僕にとっては確かに救いである。社会になじむことの難しい人間がこの世界に生きることの構造的な苦しみ。その魂の救済をできるのはもはや芸術か宗教か。そして僕は特に芸術、それも映画にその救済を委ねるのだ。

①お引越し
薬師丸ひろ子がヒロインとして出演する『セーラー服と機関銃』の監督としても有名な相米慎二の作品。彼の早すぎる死にはかの蓮實重彦も悼んでいた。
別居することになった両親とその子供の顛末を描いた作品。色々と注目すべきところが多いが、この監督、画面の作り方が非常にうまい。はじめの家族三人で囲う三角の緑の食卓と鴨川のデルタの風景とをかけた演出(気づいただろうか)。母親(櫻田淳子)がヨガを披露するシーンの身体性、子供(田畑智子!)が風呂に立てこもり、母親が窓ガラスを手で突き破るシーンの生々しさ、最後の祭りのシーンの迫力。映画に心得のある者ならば、彼の映画が只事ではないことにすぐにでも気づきよう。
 両親の不仲が、子供に異変をもたらすことは、あなたがたのような鈍感な連中でもわかると思う(若干心許ない、、)が、そのようにして社会からはみ出た子供が見た風景、祭り(ハレ)の空間とシニフィアンが戯れる自然の中をさまよう姿。まさに通過儀礼。それを経て彼女は自立するのである。父親(中井貴一)の演技も実に見事。こんなすごい監督が日本にもいたとは、、、そして本当に残念。

②ダンサー・イン・ザ・ダーク
『奇跡の海』、『イディオッツ』に並ぶラース・フォン・トリアー監督「黄金の心三部作」の一つである本作品は、カンヌでパルムドールを受賞した傑作の呼び声高い名作。トリアーと言えば、最近作『メランコリア』の記者会見で本作がワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』を多用した音楽などヒットラーの美意識と共鳴する部分があると発言したため、カンヌ側からいわゆる「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)」に指定され、出入り禁止になってしまった監督でもある。
まさに悲劇のヒロインを体現するような主人公セルマの不幸は、次第に視力が奪われてゆく病を患う彼女の不自由さが、遺伝的に同じ病を抱える彼女の息子に対する愛と表裏一体であるということに由来している。不自由な実存的構造故に息子に対する深い愛情が可能であると同時に、その愛故にさらに不自由になっていくというスパイラル。見ていて本当に痛々しい。その結末も物凄く救いがない。唯一の救いは、そう、僕と同じ。一旦社会の外に出てみるのだ(ミュージカル!)。そうやって、ようやく彼女は生きられるのだ。

先週、新京極シネラリーベで『メランコリア』も観た。本当におすすめ。特に主人公のメランコリー(鬱病質)な心情描写とその演技が素晴らしい。監督自身が鬱病であることを公言しているようにその演出が”ガチ”である。そしてそれは僕の過去の姿とも重なる。高校生から大学生にかけて、メランコリーな気分に襲われ、何ども自殺を考えたあの頃。生きることが砂を噛むような味であった頃。映画の前半部で描かれる主人公が結婚披露宴の最中に風呂に入ったり、外を徘徊したり、ベッドに突っ伏したり、どこにいても何をしていても苦痛でしかないというあの感覚を知る者にしかわからない行動。それを観て僕は久しぶりにそれを思い出し、同時に少なくともこの世界にはトリアーという理解者が存在することを知った。この映画はその救済を惑星メランコリアとの衝突により地球が滅亡することに求めているのだ!事実、彼女は、世界の終わりが近づくにつれ、姉とは対照的にどんどん気持ちが軽くなってゆく。世界の終わり、つまり黙示録が魂を救済するという今まで幾度となく繰り返されてきた主題。そして僕はこの映画のいい知れぬ映像美とともにこの「救済の技法」に同意するのである。



映画を見ること(撮ること)を動機付けるもの。前回は比較的幸せな人間のそれについて語ったが、今回は映画に救済を求める不幸な人間のそれを語ってみた。無論、映画に対するモチベーションはこの二つに限られるわけでは決してない。けれども君たちにもし、そのような心の機微があるのなら、僕が言いたいことはわかるはずだ。村上春樹ではないが壁をすり抜ける(社会の外に出てみる)勇気が君たちにあらんや。