2012年7月29日日曜日

リベラルな政治は可能か―『リベラル・コミュニタリアン論争』を読んで


 先日、『リベラル・コミュニタリアン論争』(Stephan Munhall, Adam Swift)という書籍をよんだ。この本は、文字通りリベラル・コミュニタリアン論争、すなわちロールズを筆頭とするリベラリズムと、サンデルらコミュニタリアニズムとの間で起こった論争を取り上げている。リベラリズムとは、個々人で異なった善の観念の多様性を是認し、彼らの自由と平等を擁護し、価値中立的な政治を目指す思想である。こうしたリベラリズムの思想に対するコミュニタリアンの批判を紹介するとともに、その妥当性を検討している。

 本書では、リベラリズムの中立性について特に重点を置いて検討されている。そこで思ったことは、リベラリズムの目指す、価値中立的な政治は可能なのかということだ。本書によると、ロールズの正義論は二層構造を持っている。ひとつは非政治的な領域であり専ら私的な領域である。そしてもうひとつは政治の領域である。コミュニタリアンはロールズの思想―とりわけ無知のベールという概念―を、共同体が人々の人格に与える影響を無視していると批判したが、実はロールズも共同体が個々人のアイデンティティや善の構想に影響を与えることを認めている。これは私にとっても、当のコミュニタリアンたちにとっても驚くべきことだ。しかしながら、問題なのは、それは私的な領域においてのみ当てはまることである。政治の領域においてはそうした影響を排し、「自由かつ平等で、他の人びとと一緒に社会的協働の公正なシステムに参加する人格」として振る舞わなければならない。そして政府(国家)も、多様な善の構想のどれにも肩入れすることなく、その多元性の保持に努めなければならない。したがってロールズにとって、政治において共同体の諸価値を追求することは誤りなのである。

 こうしたことは妥当なのだろうか。筆者の指摘するように、政治的なものの領域と非政治的なものの領域を分離することは、政治についてそのようなビジョンを持っていない価値観を持つ人、すなわち政治的な領域と非政治的な領域を横断する形の(=包括的な)価値観を持つ人に、統合失調的な態度を要求するであろう。そしてこのような分離を要求する主張それ自体が、包括的な主張を持つ人に対して中立性を損なっている。
 
 また私が思うに、そもそも価値中立的な政治などあり得るのだろうか。ロールズの主張は、政治というものが価値をめぐる闘争であるという事実を省みていないように思われる。アメリカにおける、妊娠中絶や同性婚、銃規制といった問題は全て価値観の対立である。多様な価値観を調整する場所こそが政治であり、したがって、そうした価値観から中立であろうとする姿勢は、政治の役割の放棄に等しいのではなかろうか。例えば、我が国における憲法9条の問題を考えよう。改憲派と護憲派という異なる価値観を持つ人たちがいる。政府はそうした価値観から中立的に振る舞うとするならば、それは国防という国家の最も重要な役割を放棄したことになりはしまいか。

 もちろん、政府が多様な価値観に配慮することは必要である。政府が特定の価値観だけを排除することはあってはならない。しかし、だからといって全く以て価値中立的に振る舞わなければならないということにはならないのである。政府が何らかの政策を決定する以上、そこには何らかの価値観が含まれているし、それを否定することは政治の否定であろう。したがって、政治に必要なのはあらゆる価値から中立であることではなく、多様な価値に配慮しつつも最終的にはひとつの価値を採用することなのである。そして、その選択の鍵になるのは、やはり共同体とそれが持つ諸価値であると思う。

(坂木)

2012年7月28日土曜日

事を成すことの難しさについて


  京都の片田舎にそれなりに大きな役目を引き受けた男がいた。彼ははじめの仕事でものすごい失敗を犯した。原因は段取り不足。事を成すにあたって、明確な到達点の設定とどのような手順でそれを行えばいいのかというシミュレーションを怠っていたのである。

  人が事を成すとき、そこには必ず「行動意図(何をするのか)」と「実行意図(どのようにするのか)」が存在する。通常、行動意図→実行意図という順で思考は展開される。つまり、行動意図がそれなりに大きくても、実行意図がないと人はなかなか実行に移さないのである。
  今回の場合、行動意図も明確でないばかりか、実行意図に至っては全くなかったと言っていい。これでは思うように事をなせないのは当たり前である。しかし、彼はその後この理論を知り、自分の失敗を定式化した。

  次の仕事がやってきた。彼は、前と同じ轍を踏まないように、先の理論にしたがってまず行動意図を明確にし、実行意図をそこから導き出した。これで万事うまくいく、彼はそう思っていたが結果は大惨敗。確かに前の失敗に比べれば少しはマシになったかもしれないが、まだまだ成功には程遠い。

  今回は何が足りなかったのだろうか。人を動かすことが出来ていなかったのである。どれだけ行動プラン(先の行動意図と実行意図のセット)が明確であっても、それを自分一人でやってしまおうとしたために、人をうまく使えなかったのである。

  「構造的方略」という言葉がある。法的な規制や利益分配の仕組みなど、社会的な構造を変革することにより社会問題を解決に導く方法のことである。要するにシステム(アメとムチ)を導入して人を動員するのである。

  次は大きな仕事だった。今までの仕事の大きさとは訳が違った。当然人の使い方が物凄く重要になる。そこで彼はこの構造的方略を取り入れ、積極的にシステムを導入することで極めて効率的に仕事をやってのけた。行動プランも完璧、構造的方略の巧みな利用。今までとは見違えるような仕事の捗り方。事実、ここまで効率的にこの仕事をやり遂げた時代はなかったという。

  それでもだ、まだ何かが足りないのだ。なかなか言葉では表しにくいようなもの。心意気や気概、充実感、、、どれもしっくりこないがそれらが合わさったようなもの。そして、そういうことが実は一番大切なのである。

  一般的に構造的方略は信頼や責任感、道徳心や良心といったものを低減させてしまうという。システムの導入は、システムに適応するという人間の本来的特性(本能的なもの)が強化されてしまい、信頼や良心などの人間的な特性が翳ってしまうというのである。
  確かにそうだった。彼が行なった構造的方略はなるほど人を極めて合理的に動かしはしたが、結果として何か大切なものが欠けてしまったのである。

  彼は少しずつ考えを変えていった。彼はメンバーに対して積極的に仕事を与えた。今までならばリーダーがやっていた仕事も、メンバーに任せたのである。メンバーの事を考えれば、今後中心になってやっていくのは彼らである。その彼らに仕事を任せることで、その技術がしっかりと継承される。少しハードルは高いかもしれないが、その分試行錯誤して学ぶことは多い。真に他者のことを考えればこその方法。何でも自分で全て仕事をやってしまうというリーダーは、結局は自分のことしか見えていない場合が多い。子育てでも同様である。子供を甘やかせて身の回りの事を全てしてしまうことがその子の為にならない。自立した人間を育てるためには、自分のことは自分でするようにしつけるべきであろう。そして、優秀な人間(と自分で思っている人間)ほどその傾向は強いように感じられる。


  少しずつではあるが、皆の自発性、そして内発性(違いは何か?)が高まってきたように思う。大切なものを吹き込むために他に何が必要であろうか。彼は今も、これまでと同様、試行錯誤を重ねている。

2012年7月21日土曜日

ファッショ化する反原発派


 近頃、反原発派がファッショ化〈全体主義化〉してきているように思う。そう思わせる事例がいくつかあった。
 
 まずは、先日行われた反原発デモに際して、作家の落合恵子が「今日ここに来ているのが、国民であり市民」と発言したそうだ。すなわち、デモに参加していない人間は国民や市民たりえないということだ。

 また、精神科医の香山リカは原発推進派を病気と診断した。「原発維持や推進をしようとする人は、私、精神科医として見れば心のビョーキに罹ってるヒトたち」「残念ながらもうカンタンには治りそうにない」「その人達の目を覚ます方法はただひとつ、私達が声をあげ続けること」と述べたそうだ。

 そして最後が、エネルギー政策に関する意見聴取会から電力会社関係者が排除されたことである。電力会社の社員と名乗った人物が聴取会で原発推進の意見を表明したことに対し、これはヤラセだという非難があがった。これを受けて、電力会社の社員は発言できないこととなった。

 これらの事例に共通しているのは、自身と異なる意見は、非国民だの、病気だの、ヤラセなどといってことごとく排除する姿勢である。これはまさにファシズムの思想である。

 自身の主張と異なる者に非国民というレッテルを貼ることはいうまでもなかろう。ファシズムというものは、多様な意見を認めない。

また、意見聴取会におけるヤラセ騒動は、ファシズムの陰謀論を彷彿とさせる。ファシズムにおいて、ユダヤ人は「ドイツ的でないもの」の全ての創造者であり、第一次世界大戦の張本人で大戦後のドイツの混乱を生み出した黒幕、つまりドイツの徹底的破壊を狙う大扇動者であるとされた。また、1933年の国会議事堂放火事件では、ナチスはこの犯行を共産主義者の陰謀であるとし、弾圧した。反原発派の間でも、「原子力ムラ」なる巨大な力を持った勢力がおり、彼らが国民の安全を犠牲に利権を貪っているという陰謀論のような考えがあるように見受けられる。今回の騒動でも、電力会社の社員は「原子力ムラ」によって送り込まれたスパイであり、抽選ではなく恣意的に選ばれたのだということだろう。


最後に、特に私が恐ろしいと思うのは、香山の発言に含まれる、ある種の優生学的思想である。ナチス統治下のドイツでは、弱者、民族の裏切り者、同性愛者や少年犯罪者、常習犯罪者、遺伝病者、精神病者などは「人格全体」もしくは肉体の「変質」を起こした種的変質者であるとされた。そして、こうした「劣等ドイツ人」は淘汰の対象とされた。香山の発言には、自分の意見に沿わない人間を病人とみなし、淘汰(まではいかないにしても更生)の対象とみる意図を感じさせる。ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』にも通じる、危険な思想である。

このように、最近の反原発派は、ファシズムに対する親和性を顕著に持つようになった。しかし、これは必然の帰結である。なぜならば、反原発を支持している多くの人間が、いわゆる左翼であり、ファシズムもまた左翼思想であるからだ。ファシズムが左翼のイデオロギーであるというのは以前にも指摘したかと思う。異なる意見を徹底的に弾圧するその手法は、フランス革命以来続く左翼の常套手段なのだ。ちなみに、ナチスの正式名称は国家社会主義ドイツ労働者党であり、その名称からもファシズムがいかに左翼と親和性があったかを示している。

では、なぜ反原発運動は、ここまで過激化したのか。それは、結局のところ、彼らの再稼働反対・即時廃炉というような主張が、他の多くの国民に支持されなくなってきたからであろう。折しも、落合が「今日ここに来ているのが、国民であり市民」と発言したことは、まさにマイノリティーである自分たち自身を正当化(正統化)するための詭弁に他ならない。香山の発言にせよ、意見聴取会の騒動にせよ、異なる意見に病気だの陰謀だのというレッテルを貼り、自身の正当性を主張するための悪あがきに過ぎない。ファッショ化する反原発派というのは、彼らの主張が多くの人々の支持を得られにくくなった、その焦燥感の裏返しなのである。

(坂木)

2012年7月16日月曜日

パンダ騒動から考えるメディアのあり方。


 上野動物園のパンダの出生から死までが随分と大々的にメディアで取り上げられていた。私などは、パンダに何の関心もないから、その話題が出るたびに辟易していた。パンダの話題にうんざりしていたのは、おそらく私だけではないだろう。このパンダ騒動から、現代のメディアの歪みを論じたい。様々な切り口があろうが、テレビを中心に、メディアの東京目線という観点から論じる。

 以前、とあるテレビ局で長年プロデューサーとして活躍されてきた人の話を聞く機会があったのだが、そこで彼が述べていたのは、メディアの東京目線ということだった。現在、日本のメディア、なかんずくテレビの中心は、いうまでもなく東京である。テレビでいうと、東京にキー局と呼ばれるものがあり、そこで制作される番組が地方で放送されるわけである。したがって、そのプロデューサー曰く、番組も東京目線になりがちなのだ。

 それはニュース番組で顕著に表れる。今回のパンダ騒動がまさにそれだ。上野動物園という、本来なら全国に数ある動物園のひとつに過ぎないところでパンダが生まれたというのは、どう考えても全国で放送するべきほどの価値はない。せいぜい、首都圏ニュースで取り上げられる程度だろう。例えば、和歌山県にもパンダを飼育している施設があるが、そこでパンダが生まれたとしたら、全国ニュースで取り上げられるだろうか。答えは、否である。東京でパンダが生まれたことに意味があるのであり、だから全国で放送されるのである。

 同様のことは、東京スカイツリーにもいえるだろう。スカイツリーも、上野動物園のパンダと同様、首都圏以外に住む人間には何の関係もない出来事であり、トップニュースになるほど重要ではない。東京にできたから取り上げられるのである(ただし、スカイツリーをナショナリズムの問題としてとらえるならば、話は別であるが)。

 このように、メディアの価値基準が東京に偏っている。テレビのみならず、出版社も東京に偏在していることからわかるように、こうした偏りはメディア全般についてもいえることだろう。昨今では地方分権の声が喧しい。ニュース番組でも、霞が関の中央集権体制を批判するコメンテーターは事欠かないが、まさにそのメディアこそ、霞が関に負けず劣らずの中央集権なのである。

(坂木)

2012年7月13日金曜日

F教授の考え方に対する個人的な見解並びに考察―Part3


  前回でF教授の議論を類型化した。そのうえで類型化されたそれぞれの考え方が抱える問題点について、それぞれ指摘していく。
その前に、F教授の思想的傾向をまとめる。F教授には、理性と本能という人間の二面性から人間の理性を重んじ、本能は可能な限り小さい方が望ましいという強い理性志向の考えが見え隠れする。
こうしたことから以下のような結論が導かれる。
    公共投資の有する構造的方略としての側面の軽視
 F教授は心理的方略を賞賛し、構造的方略の問題点を強く批判する。一方で公共事業については社会での必要性を強調し、より拡大していくべきであると提唱する。
 しかし、公共投資には、都市から地方への資本の還流、つまり、地方経済活性化のための構造的方略としての側面を有する。結果、地方経済は、構造的方略の欠陥[1]によって苦しめされる。もちろん、感情的な公共事業批判には与しない[2]。しかし、反省なき公共投資は、地方経済を特色ある経済ではなく、ますます公共投資漬けの経済にするだけである。

    経済成長・イノベーションにおける本能の重要性
ケインズは、雇用・利子および貨幣の一般理論において「アニマルスピリッツを持った野心的な起業家」が必要だと指摘した[3]
これはイノベーションでも同じことである。談合にもメリットはあり得るが、新規参入者を否定する可能性が高い。またイノベーションを抑制する方向に作用する。また理性を賞賛する考えからは、本能の果たす役割は軽視されがちである。

    過度な競争排除による新たな犠牲者の発生
 タクシー規制の緩和にF教授は強い反発を示されている。確かに問題[4]は多い。しかし原因を突き詰めれば、その背景には大量の失業者が雇用先を求めて、タクシー業界に流入したことがわかる。言い換えれば、タクシー規制の強化は多くの失業者を職から締め出し、失業者から「誇りを失わせる」行為に他ならない。
 高度な専門性を持ち、供給が常に不足する医療のような分野では規制を緩和すること[5]で米国のような医療価格の異常な高騰を招くことは考えられるが、タクシー業界ではそのような不利益は考えにくい。むしろ労働基準監督署による監視強化など間接的な対策を行う方がタクシー運転手の労働環境を守れたのではないか?

    コーポラティズムとエリート主義の融合「合意なきコーポラティズム」による問題
F教授は、英米的な新自由主義的な政策、競争原理を批判し、一方で談合や規制強化について評価している。合議や人間の理性に信頼を置く考え方は、北欧において1980年代に政労使3者が合議により国家戦略や公共政策の方向性を決定していたコーポラティズムを想起させる。しかし、F教授は、エリート主義を理想とする発言をしている。これは、北欧のコーポラティズムとは、矛盾する発想[6]である。
F教授の理想とする社会と北欧型コーポラティズムとの矛盾点を解消するためには、F教授の考え方の帰結は以下のようになるはずだ。つまり、談合など枝葉での部分的最適化のために合議を取り入れる。しかし、根幹の政策決定は、専門家集団やエリートが独断的に決定権を保持する「合意なきコーポラティズム」といえるものである。これはもはやポピュリズム(国家コーポラティズム)[7]に近い。
確かに南米にて成立した包括政党などが、エリートとして腐敗せず、あたかもプラトンが理想とした「賢人政治」を実行できれば、理想的である。しかし歴史が語るように、(そして藤井先生にあえて述べるまでもないだろうが、)南米でのポピュリズム政治は、その腐敗を理由として強い批判を受け、必ずしもうまくいっていない。



[1] 公共投資の持つ依存性によって公共投資失くして成り立たない地方経済となる。また都市と地方の差がなくなり、郷土の特色が失われる。日本の原風景を失わしめる公共投資が、本当に正しい公共投資なのか?
[2]防災対策や大都市圏の再開発、不足した高速道路網、公共交通機関、LRTなど
[3] もし、すべての人間が理性・リスク計算に従っていれば、起業のような失敗のリスクの大きい、リターンの少ない行為など誰もしない。しかし、人間は野心的な時に危険選好型で冒険心豊かになる素質を持っているから、経済は回っていく。
[4] タクシー運転手の給与低下、労働時間の長期化、タクシー台数の過度な増加など
[5] 混合診療や医療への株式会社参入など。適切な緩和でなければ問題が大きい例。
[6] 北欧でのコーポラティズムは利害関係者が集中的な権限を持ち、合議により公の立場から政策を決定するものである。したがって直接民主主義が徹底される反面、合議が破たんし公共政策が失敗することも少なからずある。
[7] ここで想定しているポピュリズムとは、ネオリベラリズム的なポピュリズムではなく、南米で誕生した政治学的なポピュリズムを指す。南米でのポピュリズムには、2000年までのメキシコ・制度的革命党、アルゼンチンのペロン党、近年ではベネズエラのチャベス大統領などの例がある。制度的革命党は包括政党として、労働組合・資本家・知識人層すべてを体制内に抱合する体制であった。この体制下では、メキシコ革命を定着させるために貧困層に対するパターナリズム的な政策が採用される。一方で包括政党として制度的革命党が圧倒的であるため、野党が弱体で一般市民はほぼ政治的意思表示ができない。なお、制度的革命党は、1980年代の財政危機をきっかけとして、パターナリズム的政策を維持できず、ポピュリズムを維持できなくなった。結果、2000年に下野した。