2012年8月15日水曜日

終戦記念日によせて。


 今日8月15日で、終戦から67年を迎えた。毎年この日になると、「平和への誓いを新たに」などといった表現をよく聞く。「平和への誓い」「平和への祈り」、まるで純真無垢な少女のような耳触りのいい言葉に、いささかうんざりさせられる。祈りで平和が訪れるならば、シリアで多くの死者がでることもないだろうし、そもそもあの戦争すら起こらなかっただろう。残念なことに、祈願しているだけでは平和は訪れない。平和は我々自身の手で勝ち取る必要があるのだ。

 おりしも今日、香港の活動家が尖閣諸島に上陸したことはそのことを如実に物語っている。人々が平和への誓いを捧げている間にも、我々の領土、生命、財産は脅かされて続けている。尖閣だけではない。北方領土にもロシアの大統領が上陸した。韓国大統領は竹島に上陸し、あまつさえかの国は対馬をも我が国の領土だと主張している。中国は尖閣をはじめ、南シナ海へもその触手を伸ばし、今では沖縄をも虎視眈々と狙っている。そうした意味で、終戦記念日である8月15日に外国勢力が我が国の領土に足を踏み入れたことは、まさに戦後における平和の希求というものがいかに空虚で無力であったかを象徴している。

 メディアでも相変わらず、平和への祈りと過去の戦禍ばかりを伝えている。これから平和を守るために何が必要なのかということを語ろうとはしない。平和を守るために必要なのは、軍事力とそれに裏打ちされた交渉力である。平和を訴える理想に満ちた言葉も悪くはない。しかし、その言葉が空虚な絵空事にならぬようにするためには、しっかりと現実を見据えなければならないのである。

 「一億総玉砕」というスローガンや特攻といった行為にみられるように、戦時中は精神論が日本を席巻していた。そして戦後においても、「平和への誓い」という形でその精神論は残っているように私には思われてならない。敗戦という事実からわかるように、空虚な精神論ではどうにもならない。日本人はそのことを嫌というほど思い知らされたのではなかったのか。平和への誓いという精神論の無力さに気がつくのは一体いつになるのか。我が国が他国に蹂躙されてからでは遅いのである。

(坂木)

2012年8月10日金曜日

書評:『コミュニティの政治学』


 前回の記事で、リベラル・コミュニタリアン論争について触れたが、今回はコミュニタリアニズムに関する2つの思想について取り上げることとする。『リベラル・コミュニタリアン論争』がリベラリズムとコミュニタリアンを対立軸としていたのに対して、本書『コミュニティの政治学』(Adrian Little)における対立軸は、正統派コニュニタリアニズムと急進的コミュニタリアニズムである。

 正統派コニュニタリアニズムは、エツィオーニ、サンデル、マッキンタイアなどにみられる思想である。筆者によれば、それは、コミュニティの均質性・統一性を目指し、単一の道徳を追求する考えである。それゆえ、コミュニティにいる人々の多様性は無視され、社会的排除の危険をはらんでいるとされる。

 一方の急進的コミュニタリアニズムとは、諸個人のアイデンティティがコミュニティに基礎づけられているという考えを支持した上で、コミュニティ内の多様性を重視する考えである。筆者は、この急進的コミュニタリアニズムの立場から、正統派コニュニタリアニズムを批判するわけである。

 もう少し筆者の思想を詳しくみていくことにしよう。多様性という言葉はリベラリズムにおいてもよく登場する言葉ではあるが、筆者は、リベラリズムにも批判を向けている。筆者によれば、リベラリズムが中立性や寛容を強調するのは、価値には通約不可能性があり、共通の価値としての善の構想と距離を置こうとしているからだという。問題なのは、中立性や寛容が私的領域に止まっていることである。リベラリズムは価値の多様性を認めながら、それを指導原理として用いるというよりも、私的領域で好きなことを行える自由を残しているにすぎず、価値の対立状況に目をつむっている。このようなリベラリズムの価値に従えば、寛容とは差異に耐えるという意味にしかならない。今求められているのは、価値の対立の可能性を認めつつ、諸個人が公的領域において善き生のイメージを表現することのできる状況をつくることなのである。

 そこで必要になってくるのは、公的領域で表明される他者の善の構想と真摯に向かい合い、それを受け入れる、“尊敬”の概念と、全ての人が善き生を営む公平な機会を提供する条件を保証することで、差異を活かす道を探るという国家の果たすべき役割である。

 さらに筆者は、コミュニティの徳性や諸原理が、資本主義社会の求める経済合理性や道具的理性によって歪められている点を指摘する。筆者によれば、コミュニティとは、友情、協同、ケア、ボランタリズムといった徳性や原理が存在する空間である。それは、経済的成功を共通の目的として連帯するアソシエイションとは異なり、利他的で互恵的な性質を持つものである。したがって、コミュニティの徳性が十分に発揮されるためには、道具主義や経済的理論、市場理論に対抗していく必要があるのである。

 私の印象として、急進的コミュニタリアニズムは、その名とは裏腹に、比較的常識的かつ穏健な理論であるように思う。確かに現代社会においては、多様な価値観というのは当たり前であるし、それを尊重しなければならない。しかし、そうした多様性から政治(=公的領域)は中立的に振る舞わなければならないというリベラリズムには違和感を覚えるし、不可能であろう。それゆえ、そうした差異を積極的に公的領域に汲み上げようとする急進的コミュニタリアニズムは魅力的である。

 また、市場競争経済が、コミュニティのもつ道徳的価値を多かれ少なかれ毀損してきたというのは紛れもない事実だろう。したがって、経済的価値の侵攻をくい止める必要があるという筆者の主張にも同意できる。

 しかしながら、急進的コミュニタリアニズムに諸手を挙げて賛成というわけでは、もちろんない。思うに、筆者は、多様性というものを過度に重視する嫌いがある。なるほど、確かにコミュニティには多様な人間がいる。人それぞれ、様々な価値観があるだろう。しかし、そのような多様な人間から成り立つ空間をコミュニティと呼んでよいのだろうか。おそらくこれはコミュニティ観の相違なのだろうが、コミュニティとは多様な人々が何らかの共通の善を追求する空間であると私は考える。そこでは人々の多様な価値観が尊重されるのだけれども、共通の善なり道徳なりといったものがなくてはならない。善の追求過程において、様々な善の構想が表明され、討議を通じて収斂していく。もちろん必ずしもうまく合意に達するというわけではないだろうが、筆者のいうように多様な善の構想に“尊敬”の念を抱きつつも、最終的には集約されなければならない。共通の善が欠けたコミュニティというのは、雑多な人間の寄せ集めに過ぎないと私は思う。だから、正統派コニュニタリアニズムに対する筆者の批判が必ずしも的を射ているとも思わない。

 また、コミュニティ内の多様性に執心するあまり、コミュニティそのものの多様性に目が向いていないように思われる。価値観の多様化にともない、コミュニティ自体も多様化している。さらに最早、昔のようにひとつのコミュニティに生涯縛られ続けるということも少なくなった。移動の自由とともに、人々にはある程度のコミュニティの選択の自由が与えられたといってよい。であるがゆえに、自身の価値観と異なるコミュニティに無理をして居続ける必要もない。最後の手段として、コミュニティから脱退するという選択肢もありうるのである。無論、だからといってコミュニティに多様性はいらないなどという暴論を掲げるつもりはないが、少なくとも多様性に過度こだわる必要はあまりないのではなかろうか。コミュニティ内の多様性という議論は、我々が一生同一のコミュニティに属することを無意識のうちに前提としているのかもしれない。

 最後に、市場経済によるコミュニティの諸原理の毀損をくい止める方法のひとつとして筆者がベーシックインカムを提唱していることについて、私の考えを述べたい。筆者は、人々が有給労働に多くの時間を割かれ、コミュニティを支える無給労働(ボランティアなど)に従事する機会が損なわれていると主張する。そして、その対策として、政府がすべての国民に対して最低限の生活を送るのに必要とされている額の現金を無条件で定期的に支給するというベーシックインカム制度の導入を提唱している。コミュニティのための活動機会を増やしたり、コミュニティの隅に追いやられた人々の復帰を促したりという意味で、社会保障政策は不可欠であることは認めるにしても、ベーシックインカム制度はあまり現実的とはいえない(政府に潤沢な財源があるなら話は別だが)。まずは、ワークライフバランスの確立といったように、人々がコミュニティのための活動に従事できる余裕を少しずつ増やしていくのが現実的ではなかろうか。

 以上のような反論もあるものの、全体として本書は、自身のコミュニタリアニズム理解に新たな視座を提供してくれ、非常に有益であった。

(坂木)