2012年11月26日月曜日

最近ご無沙汰ですが...


  今年の秋は「政治の季節」になった。けれども、僕個人としてはそのようなものに
さして関心はない。

  第三極が結集しようが、自民党が政権に返り咲こうが、正直なところどうでもいい。


  解散総選挙で浮かれているあなたがたに水を差すようで悪いが、それが偽らざる僕の
感慨である。

  最近43がにわかに「心の政治」などというスローガンを掲げ出したが、
明らかにこれは僕の影響だろう。

  童貞的な語り口を脱する契機にして欲しい。

  僕は近いうちにまた映画の批評か書評を書く予定である。


gerira

2012年11月21日水曜日

あえて自民党を批判的に検証する・理念編

私は、基本的に自民党を強く支持する立場にある。しかし誰にとってもすべての政策が合致する政党など存在するはずはない。今回、自民党を「あえて」批判的に検証しながら、私なりの国家観を提示し、議論の材料としたい。

1.保守とは何か?

一般的な日本的「保守」の定義とは以下の3つに代表されるように思われる。

①他国との協調・妥協より自国の主権・国益を重視。
②憲法改正
③教育での道徳心や愛国心の涵養。

自民党の政権公約では①~③を強く打ち出した。このためマスコミはこぞって保守色の強い政策だと報道している。しかしそもそも日本的「保守」の定義とは保守なのだろうか?簡単に保守主義をgoogleなどで検索してもらえばわかる(※1)が、保守とは必ずしもこうした政策を掲げれば済むものではない。保守とは本来、現実主義に基づいて改革を恐れないが、伝統的価値観や制度を尊重する考え方である。また急進主義とは一線を画する考え方でもある。

これに照らし合わせれば、本来の保守的な政策とは、以下のようなものになるはずである。

①家族やコミュニティといった人のつながりの復活
②自助と共助の尊重
③穏健主義・現実主義

こうした政策こそ保守政党に求められるのだが、どうも「真正保守」にはこうした要素を重視し、中心的な政策として掲げる考え方は乏しいようである。

2.心のない政治

私は先ほどの保守的な政策の定義で、人のつながりの復活や共助の精神を強調した。こうした点がないがしろにされていると思う典型例が、いわゆる障碍者や弱者に対する共感が保守政治家からは見られにくいことである。政治家として国家の大所高所から言及されることはすばらしいことだが、こうした分野でリベラル派が圧倒的に強い。

本来、人のつながりを強調するからこそ草の根で弱者や障碍者を支える取り組みを保守政治家が進めるべきなのだ。しかし現実にはリベラル系のNPOがこうした役割を担い、リベラル政治家が意見をくみ上げ、「クニガー、クニガー」という主張を強めているのである。

コミュニティの再建や家族の再定義も全く進んでいない。個人の価値観が大きいから難しいとする意見もわからなくはない。しかし保守政治家がこのことに取り組まなくて誰が取り組むのだろうか?

3.自助と共助の欠如した経済政策

自民党は今回の政権公約として「国土強靭化」を提唱している。具体的には10年間で200兆円の公共事業を実施し、デフレギャップを埋め、経済不況から脱却することが骨子である。厳密な政策論は別の機会に譲るが、ここでは国土強靭化が持つ他力本願的な考え方を批判したい。そもそも国土強靭化は、経済の「自律的」回復が困難であるから政府がまず財政出動し、経済の回転をよくすることが主眼である。つまり言い換えると個人や企業ではこの事態を乗り切ることは無理だから政府がすべて何とかするということである。

この「国土強靭化」の提唱者である三橋氏や藤井氏は実際はさておき、「この政策は保守だろうがリベラルだろうが関係ない」といっているらしい。しかし、自助と共助の精神を失った政策は単なる設計全能主義である。政府が完全な経済政策をうてば、経済は回復するなどというのは単なる政策立案者の傲慢である。なぜこうした財政出動政策が「社会主義」などと批判されるのか?自称保守を掲げる三橋氏はぜひハイエクの「隷属への道」でもお読みになって勉強されるとよい。


(※1)オークショットの定義

『見知らぬものよりも慣れ親しんだものを好むこと、試みられたことのないものよりも試みられたものを、神秘よりも事実を、可能なものよりも現実のものを、無制限なものよりも限度のあるものを、遠いものよりも近くのものを、あり余るものよりも足りるだけのものを、完璧なものよりも重宝なものを、理想郷における至福よりも現在の笑いを、好むことである。得るところが一層多いかも知れない愛情の誘惑よりも、以前からの関係や信義に基づく関係が好まれる。獲得し拡張することは、保持し育成して楽しみを得ることほど重要ではない。革新性や有望さによる興奮よりも、喪失による悲嘆の方が強烈である。保守的であるとは、自己のめぐりあわせに対して淡々としていること、自己の身に相応しく生きていくことであり、自分自身にも自分の環境にも存在しない一層高度な完璧さを、追求しようとはしないことである。或る人々にとってはこうしたこと自体が選択の結果であるが、また或る人々にとっては、それは好き嫌いの中に多かれ少なかれ現れるその人の性向であって、それ自体が選択されたり特別に培われたりしたものではない。
(Wikipedia 保守より2012年11月21日引用 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%AE%88)

執筆者 43

2012年11月7日水曜日

第三極結集という烏滸



 最近、いわゆる第三極の政党間の連携が話題を呼んでいる。先日は、石原氏とたちあがれ日本、日本維新の会との会談があった。しかし、実際には政策の違いなどから、第三極結集というのは難しそうだ。

 いや、私にしてみれば、第三極結集などというのは噴飯物以外の何ものでもない。さきほども述べたように、消費税や原発、TPPなどに対する各党の考え方は異なっている。選挙のために小異を捨てて大同についたところで、その後の展望はあるのだろうか。

 思い出してほしい。考え方のバラバラな人間が選挙のために野合した例が過去にもある。民主党である。民主党は非自民という一点のみで結束を保っていた。その結果はどうだったか。口にするのも憚られるほどの愚劣さであった。

 今、「既成政党打破」だか「官僚支配の打破」だかは知らないが、そうしたスローガンのもとで同じことが繰り返されようとしている。

 もはや、わけのわからない烏合の衆が国政において闊歩することに、国民は飽き飽きしているのではなかろうか。だいたい、既成政党の打破とか言っておきながら、第三極の政党の議員はほとんど“既成政党”出身の先生たちばかである。今求められているのは、第三極とか非既成政党という陳腐な真新しさではなく、確かなビジョンを共有できる政党であろう。

 であるからして、石原氏がなぜ熱心に日本維新の会などに秋波を送るのか、理解できない。おそらく、いくら立派なビジョンがあっても、実際に政権を獲れなければ意味がない、したがって今は数を揃えることが重要だというふうに考えているのだろう。しかし、問題は政権を獲った後なのである。民主党とて、政策の違いから離党者が続出し瓦解しつつある。仮にみんなの党、日本維新の会、たちあがれ日本+石原氏からなる連立政権が発足したとしても、それが長く続かないことは火を見るよりも明らかだ。

 そして、石原氏の支持基盤であると思われる保守層をげんなりさせているのは、石原氏が日本維新の会などというとんでもない政党と組もうとしていることである。

 以下は、114日付け産経新聞の記事からの引用である。


石原氏「大変良好!」

 たちあがれ日本・平沼赳夫代表「(進展があったかを)話す必要はないよ…」

 古くからの同志が語った会談後の感想は対照的だった。帰りのJR京都駅でも、苦虫をかみつぶしたような表情の平沼氏に、石原氏が「生みの苦しみだなあ」と漏らした。
会談では、石原氏が「中央集権の支配から変えるのはこの機会しかない」と「官僚支配打倒」による大同団結を呼びかけた。
橋下氏は、この場でもたちあがれ批判を展開した。

 「『真正保守』とか言っているメンバーとは組めない!」

 「大変失礼だが、石原御大もたちあがれとはカラーが違うじゃないですか?」

 「真正保守」について、平沼氏が「日本の伝統・文化を守りたいという意味で言っているのだ」と説明しても、橋下氏は「政策の決定基準にするのは違う。もっと合理的に決めなきゃ」と攻撃を緩めなかった。
同席者の一人は「平沼氏が怒ると思ったが、黙って聞いていた」という。
 たちあがれ内には、橋下氏について「政策が違う」「本当の保守なのか」との異論があったのは事実だ。しかし、たちあがれは「石原新党」への合流を機関決定した。石原氏が突き進む橋下氏らとの連携を拒否する選択肢はもはやない。


(引用終わり)

 橋下氏側は、「『真正保守』とか言っているメンバーとは組めない」と明言したのである。改めて、橋下氏が保守ではないということが明らかになった。

 話は逸れるが、私は、いち地方公共団体の長としての橋下氏とその政策には共鳴するところもあるのだが、国政政党である日本維新の会とその代表であるところの同氏には全く賛同できない。理由は、政策的なところもある―脱原発などというバカげた政策を臆面もなく披歴するなど―のだが、何よりも大きいのは、維新の会が本当に国政政党としてふさわしいのか疑問だからだ。

 保守主義の父エドモンド・バークは、1774年のブリストル演説において、政治家の「国民代表の原理」を表明した。それは、政治家というのはその選挙区の人々の声を政治に反映するのではなく、国民の代表として国家全体の利益のために奉仕するのだということである。これを敷衍するに、政党にも同様のことが言える。
 
 しかしながら、日本維新の会はどうだろうか。私には、この政党が日本国よりも大阪を優先して物事を進めているように思えてならない。いうまでもなく日本維新の会とは大阪維新の会を中心とした政党なのだが、大阪維新の会がその他勢力と連合し日本維新の会として国政に進出するに至った経緯を思い出してほしい。それは、大阪都構想を実現するために国の法律・制度を変えることが原点にあった。その政策にしても、大阪のような大都市を念頭に置いているという側面が強い。

 また、代表である橋下氏自身が未だに大阪市長を続けているというのもおかしな話である。自らが国政政党の舵をとろうとするのであれば、石原氏のように辞職するのが筋だろう。二足のわらじ状態を続ける同氏の姿勢は、国民を愚弄しているように思われる。

 以上のような理由から、私は日本維新の会を支持することはできない。第三極結集というのも烏滸の沙汰だというのに、その上、日本維新の会と組もうなど、空いた口がふさがらない。自民党の方がまだ政策的にも近い。石原氏に本当に政権を獲る気があるのであれば、悪いことは言わない、自民党と組むのが現実的だろう。

(坂木)