2013年12月30日月曜日

靖国参拝にバカ騒ぎするマスコミ



 12月26日、安倍総理が靖国神社を参拝した。このことでまたもやマスコミは大騒ぎだ。あたかも重大事件が発生したかのような扱いである。

 私はこの問題に関していつも思うことがある。それは、マスコミが首相の靖国参拝を問題視し、大袈裟に報道することによって、中韓等を刺激し、外交問題化に拍車をかけているということだ。

今回の参拝をめぐっても、例えばNHKは、同日19時のニュースの枠半分以上を割いて大々的に報じた。そこでは、与野党の幹部はもちろんのこと、財界や安全保障の専門家、戦没者遺族にもコメントを求めていた。与野党幹部はともかく、そこまで大勢の人間にインタビューする必要があるのかと呆れてしまう。

本来、一国の代表である総理大臣が、国のために犠牲になった人々に哀悼の意を捧げることは何の問題もないし、至極まっとうなことである。そういう意味で、靖国参拝などニュースになるはずがないし、少なくともここまで大騒ぎになることではない。

靖国神社には、いわゆるA級戦犯が合祀されていて、そこに参拝するということは、“侵略戦争”を肯定することになるという批判がある。しかし、「二度と再び戦争の惨禍で人々が苦しむことのない時代を作るとの誓い、決意を伝えるため」という首相の言葉からもわかるように、今回の参拝が“侵略戦争”を肯定したり、戦争を賛美したりすることが目的ではないことは明白である。同時に、首相は「母を残し、愛する妻や子を残し、戦場で散った英霊の冥福を祈り、リーダーとして手を合わせることは世界共通のリーダーの姿勢ではないか。これ以外のものでは全くない」と語った。まったくもってその通りだと思う。

したがって、靖国参拝は、アメリカはもちろんのこと、中韓に批判される筋合いはない。そもそも、首相の靖国参拝が中韓の批判にさらされるようになったのは、85年に当時の中曽根総理が参拝したときだ。それまでにも首相の参拝は行われていたが問題視されることはなかった。靖国参拝が外交問題として表面化する、その発端は、朝日新聞による一連の批判記事だという。まさに靖国問題はマスコミによってつくりだされたということになる。

このように、首相の靖国参拝そのものではなく、マスコミのバカ騒ぎとしか言いようのない対応が、東アジアの国際関係に緊張をもたらしているのだ。果たしてそうした自覚がマスコミにはあるのか。仮に自覚があってやっているのだとしたら、それこそいたずらに紛争を煽る重大な脅威である。

(坂木)

2013年12月3日火曜日

特定秘密保護法よりも不安なこと

 最近、世間では特定秘密保護法をめぐる議論で喧しい。とりわけマスコミは、知る権利や報道の自由が侵害されるだの、民主主義にとって脅威だのと、凄まじいまでのネガティブキャンペーンを繰り広げている。

 この法案の是非について、ここで論じるつもりはない。ただ、この法案をめぐり私が不安に感じていることを述べたい。それは、この法案が成立することによって言論の自由が抑圧された社会が誕生することへの不安ではない。

 先にも触れたが、この法案についてマスコミは驚くほどのネガティブキャンペーンを展開している。新聞・テレビでは反対論ばかりが目立ち、この法案に賛成する意見は極めて少ない。本来であれば、このような法案が出された背景を含めて、賛成・反対の両論を併記するべきだろう。一方的に反対論ばかりを取り上げるのは公正ではないし、もっと言うと、偏向報道と言われても仕方がない。「報道各社の世論調査でも「慎重審議」を求める意見が、60%台から80%台を占めていた。」(東京新聞11/27)らしいが、法案の背景・内容もろくに報道せず、ひたすら反対論を垂れ流せば自ずとそういう結果になるだろう。

また、この法案が衆議院を通過した際も、マスコミはこぞって「強行採決」という言葉を使った。与党に加えて野党の一部も賛成したのに、これのどこが強行採決なのか。他の野党が反対しているじゃないかと言われるかもしれないが、民主党はともかくとしても、共産・社民など、いくら議論しようが反対の姿勢は変わらないだろう。「強行採決」という表現にマスコミの悪意を感じざるを得ない。

 私が不安なのは、こうしたマスコミの偏向ぶりである。特定秘密保護法案によって戦前に逆戻りするという飛躍した不安(妄言?)を口にする人がいるが、先祖返りしたのは、あの時戦意高揚を図り、国民を誤った方向へ煽動したマスコミではないか。いや、椿事件に見られるように、民衆を一定の方向へ誘導しようとする報道を行ってきたという点においては、戦中から変わっていないのかもしれない。しかも、そのマスコミが、国民の知る権利や民主主義を声高に叫んで憚らないのだから、危なっかしいことこの上ない。

「知る権利」とは、もともと行政情報を国民が自由に入手する権利を指すが、我々のような普通の人間にとって、そうした情報は主としてマスコミを介して知ることになる。そのマスコミが恣意的な報道をするのだから、マスコミに知る権利を守れと政府に言う資格があるのだろうか。政府がきちんと情報公開をすることが重要なのは言うまでもないが、公開された情報をマスコミが偏りなく報道することも同じくらい重要だ。「報道しない自由」などと嘯いて、情報を勝手に取捨選択するようなことは許されない。

また、民主主義の発展にとって、マスコミが多面的な視点・価値観に沿って多様な情報を提供することが求められるはずである。にもかかわらず、単一の価値観しか報じない今の姿勢は果たして民主主義にとって良いことなのか。それで民主主義が守れるのか。民主主義が危ないと言っているマスコミの皆さんには、もう一度よく考えてもらいたい。いやしくも、この法案を廃案に追い込むことこそが民主主義のためになるのだと思い上がっているのなら、それこそマスコミという第四の権力の暴走に他ならない。

(坂木)


2013年11月4日月曜日

大学入試に「人間力」は必要か



 先月末、大学入試に関して新たな提言が発表された。概要は次の通りである。

 政府の教育再生実行会議(座長・鎌田薫早稲田大総長)は31日、大学入試や高校・大学教育の改革に関する提言を安倍晋三首相に提出した。高校在学中に複数回受けられる「基礎」「発展」の2段階の達成度テストを新たに導入し、「発展」を現行の大学入試センター試験に替えて実施するよう提案。1点刻みの知識偏重型から、能力や適性を含めた総合評価型への制度転換を求めた。
 (中略)
 提言によると、「発展レベル」のテストは受験生を段階別の点数グループに分けて評価。大学側が学力把握に活用し、面接や小論文、ボランティア活動などを多面的に評価し入学者を選抜する。さらに、英語などでの外部検定試験の活用や将来的なコンピューター方式での実施にも言及した。
(10/31 時事通信より)

 そこで、今回提出された「高等学校教育と大学教育との接続・大学入学者選抜の在り方について」(第四次提言)を実際に読んでみたので、その感想を述べたい。

 まず思ったのは、この手の提言にはよくあることだが、全体的に美辞麗句が並んだ、理想主義的な色彩が強いということだ。この提言が目指す教育の在り方が実現できるのであれば大いに結構である。ただし、実現するのは至難の業だろうが。

 この提言で注目すべきは、やはり、そうした教育の在り方を実現するためのプロセス、具体的には大学入試の方法だろう。

 「達成度テスト(仮称)」の導入には、概ね賛成だ。無論、テストの内容が具体的になっていない現時点では何とも言えない部分が多いのだが、この提言が指摘しているように、受験生に対する心理的圧迫等、現状のセンター試験の持つ課題についは理解できる。一回だけのセンター試験に比べて、複数回の達成度テストのほうが、受験生の心理的圧迫を緩和できる。また、受験期だけの集中的な学習ではなく、高校3年回を通して万遍のない、継続的な学習も期待できる。ただし、テストの内容如何によっては、受験生全体の学力低下を招きかねないので、内容については今後十分に検討しなければならないだろう。

 一方で、入試に面接等を取り入れることには危惧の念を抱かざるをえない。提言は次のように述べる。


 各大学は、学力水準の達成度の判定を行うとともに、面接(意見発表、集団討論等)、論文、高等学校の推薦書、生徒が能動的・主体的に取り組んだ多様な活動(生徒会活動、部活動、インターンシップ、ボランティア、海外留学、文化・芸術活動やスポーツ活動、大学や地域と連携した活動等)、大学入学後の学修計画案を評価するなど、アドミッションポリシーに基づき、多様な方法による入学者選抜を実施し、これらの丁寧な選抜による入学者割合の大幅な増加を図る。その際、企業人などの学外の人材による面接を加えることなども検討する


論文や高等学校の推薦書、大学入学後の学修計画案はまだいいとしても、面接や生徒が能動的・主体的に取り組んだ多様な活動までもが評価の対象となるのは如何なものか。

就職活動ならともかく、入学試験で面接を実施して学生の何を評価するのかいまいちよくわからない。だいたい、大学の教職員に学生を面接で評価するだけの能力があるのか疑問であるし、企業人などの学外の人材による面接もそこまでする必要があるのか首を傾げたくなる。とりわけ企業人による面接など、大学の就職予備校化に拍車をかけることに繋がりかねない。そして何よりも、今の就職活動を見てもわかることだが、面接を導入したところで、面接が一つの科目と化してしまい、その手の対策やマニュアルが蔓延るだけに終わるだろう。

 もっと危険なのは、「生徒が能動的・主体的に取り組んだ多様な活動」である。第一に、学力はあるが、そうした活動に消極的な人間が入試で弾かれる可能性が出てくる。言うまでもなく、学生の本分は学業であるのだから、あくまでも学力を本位に評価されるべきだ。「多様な活動」に気を取られて肝心の学力が低下してしまっては本末転倒である。

 第二に、「多様な活動」による評価は、受験生間の平等を阻害することになるおそれがある。現状でも、親の所得が高いほど、子供が難関大に進学する傾向があるという。つまり親の所得と子供の学力には相関関係があって、所得の高い親ほど、子供に対する教育費をふんだんに支出できるというわけだ。現状ですら親の所得による受験生間の格差が存在するにも関わらず、この上に海外留学や文化・芸術活動やスポーツ活動の経験が評価の対象になれば、その格差はますます広がるに違いない。高所得者の子供ほどそうした機会に恵まれていることは明らかだ。このように、「多様な活動」による評価は、所得による学歴格差を助長しかねない。
 
最後に、今回の提言では、知識偏重からいわゆる「人間力」を重視した入試への転換を唱えているわけだが、私が思うに「人間力」の形成は大学に入ってからでも十分に間に合うし、高校まではそうした「人間力」を涵養するための基礎学力・知識を身に着けることに力点を置くべきだ。

(坂木)


2013年9月22日日曜日

今の若者は「幸福」なのか



 今回は、古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』での筆者の主張を検討したい。

筆者は、20代の生活満足度の高さを指摘し、そこから「コンサマトリー化する若者たち」と命名している。「コンサマトリーというのは自己充足的という意味で、「今、ここ」の身近な幸せを大事にする感性のこと」らしい。

彼らは、「仲間」や「友達」を大事にして、ムラのような小さなコミュニティで生きていくことに幸福を感じているが、同時に閉塞感も感じているらしい。だから、ワールドカップや震災ボランティアのように「非日常」という村祭りを提供してくれる場があれば、それに飛び込んでいく。

私がまず思うのは、今の若者が急激に幸福だと感じるようになったのかということだ。本書には、年代別の生活満足度の推移が載っているが、70年代から若者の生活満足度は50%を超えている。2010年では65%で、筆者は15%「も」上昇していると言う。これを高いと解釈するか、低いと解釈するかで主張は変わってくる。

また、年々若者の生活満足度が上昇しているとしても、ここ数十年で我々の生活水準は確実に上がってきているわけだから何ら不思議ではないし、すでに指摘されているように、生活満足度と幸福度は直ちに結びつくわけではない。裕福な生活を送っている者皆が幸福な人生を歩んでいるわけではないことは容易に想像できよう。

そもそもの話だが、統計調査の結果をそのまま信用してもいいのだろうか。もちろん、そんなことを言い出したらおよそ統計など意味をなさなくなるが、鵜呑みにするのも危険だろう。筆者の引用している、国民生活に関する世論調査で2010年の概要を見ると、20代男性の標本数は650で回収数は270だ。女性のほうは、605に対し270だ。当時の20代人口を1300万人としても、あまりに標本数として少なくはないだろうか。しかも20代の標本数は他の年代の中で最も少ない。調査を受けた20代の人々の所得、職業、居住地、家族構成等も不明だ。過去の調査においても、回収数は少ないようで、80年の調査においては、20代男性の回収数は204である。

また、この調査は面接式である。調査員に対して自分は生活に不満を持っていると面と向かって答えられる人は多くないはずだ。たいていの場合、「まあ満足」と答えるだろう。実際、「まあ満足」という回答が20代で、54.8%(2010年)と最も多い。これは推測にすぎないが、そもそも生活に不満を持っている人間がこういう類の調査に積極的に協力するとはあまり思えない。

 さらに、面接式ということは、おそらく昼間に調査員が訪ねてくるのだろうが、昼間に調査に応じることのできる余裕のある人間に範囲が限られてくる。もっと言うならば、住所がある人間しか調査の対象にはならない。一時期、ネットカフェ難民が注目を浴びたが、彼らのような存在は調査からははずされていると考えてよい。

 このように、この調査が果たして20代の現状を正しく反映したものなのか、大いに疑問である。また、若者の生活満足度が年々向上しているとしても、それが今の若者は幸福であるということとイコールであるわけではないということに注意するべきだ。

 そういえば、2007年に赤木智弘という人物が、「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」という文章を発表して世間に衝撃を与えた。ワーキングプアの生活苦を訴えたものだが、こうした若者像は筆者の言う「幸福な」若者とは程遠い。こうした反例は、おそらく調べれば調べるほど出で来るだろう。

 だからといって私は、今の若者は不幸だなどと言うつもりはない。ただ、幸福な人間もいれば不幸な人間もいるという当たり前の話をしているだけだ。

 さらに、筆者は、大澤真幸の議論を引用して、「幸せ」な若者を次のように分析する。今の若者は「今日よりも明日がよくなる」とは信じることができないので、つまり、もはや自分がこれ以上は幸せになると思えないので、「今の生活が幸せだ」と答えるしかないのだ。

こうした類の議論は、正しいとも間違っているとも断言できない。「なぜあなたの生活満足度は高いのですか」というような質問を同時に行わない限り、若者の生活満足度が高い理由などわからないからだ。自分がこれ以上は幸せになると思えないからだというのは、単なる推論に過ぎない。今の若者が生活に満足しているのは、大学進学率の上昇に伴い、所得・生活の質等が向上したからだという推測もできるわけである。

しかも、少なくともこの推論が成り立つには、今の若者が完全に今の生活に満足している必要があるのではないだろうか。なぜなら、「まあ満足している」という回答には、今の生活に対する多少の不満も同時に存在する可能性があるからだ。すなわち、今後自分の生活が改善する、あるいは改善してほしいという希望が残されている。逆に「完全に満足している」という回答には、そうした不満の入り込む余地はない。ただし、これはあくまでも可能性であって、実際には生活の改善を諦めているのかもしれない。いずれにせよ、今の若者が「自分がこれ以上は幸せになると思えない」と考えていると断言することはできない。

筆者は言う。「僕たちはもはや『若者』を一枚岩の存在として語れないことを知っている」と。私には筆者自身こそが若者を「一枚岩」として語りたがっているようにしか思えない。

(坂木)