2013年5月6日月曜日

おそるべき教育者たち―『革新幻想の戦後史』を読んで


 日教組といえば、日の丸・君が代反対、自虐史観的歴史教育、行き過ぎた性教育など、その左翼的教育方針が保守派からよく非難されている。

 日教組が絡んだ事件は、近年では広島県の高校校長が日の丸・君が代をめぐり自殺に追いやられた例などがあるが、本書『革新幻想の戦後史』(竹内洋)を読んで、過去にはさらに衝撃的な事件があったことを知った。

 本書は、タイトル通り、戦後の左翼文化や進歩的知識人について、筆者の体験を交えながら論じたものだ。革新幻想がキャンパスを席巻していた時代に学生であった筆者だからこそ、当時の空気をよりリアルに感じることのできる好著である。

さて、その中で最も印象に残ったのが、「旭丘中学校事件」である。これは、1953年から54年にかけて、京都市立旭丘中学校を舞台にした事件だ。当時、同校は共産党日教組教員(日教組における共産党入党教員であり、日教組の中でも特に過激派であった)による赤化教育が行われており、「子どもをやりたくない学校」として保護者から不満の声が上がっていた。「学校は、子供は子供なりに人民革命の一翼をになうことができるような者に、これを合目的的に育成するべきものである」という共産党員であり教育学者である人物の言葉があるように、共産党は教育労働者に、平和と独立と民主主義のために闘う青少年を育成する教育を指示していた。こうした指示に基づいた教育をしていたわけだから、「市立旭丘中学の教育が赤いということは定評のあるところです」とか「あのような教育をゆるしていたら、京都じゅうの学校がみな赤くなってしまう」という声が保護者からでるのは当然のことであろう。こうした同校の実態は53年の12月、マスコミで報道されることになる。

翌54年2月に、京都市教育委員会が生徒の指導方法・教員の組合活動の制限などの勧告書を同校校長に手交し、3月には赤化教育の指導的立場であった北小路昴教頭、寺島洋之助教論、山本正行教論の異動を内示し3教員を他校に転任させることで事態を収拾しようとした。しかし、この内示に対して、赤化教育を支持する教員、保護者、生徒が3教諭留任の陳情に市役所へ押しかけた。

3教員は転任命令を拒否し、同校での授業を続行。5月5日には3教員の懲戒免職が決定された。この懲戒免職を受け3教員を支持する保護者代表、教員、生徒会代表と北畑紀一郎校長とで団交が行われた。5月6日の正午から翌日朝5時まで17時間に及んだ。7日の生徒大会では、校長に対する辞職決議がなされ、同氏は辞表を強制的に執筆させられた。この際、生徒たちは「おい!おっさん、早く書かんか」と口々に罵倒し、校長が辞表を書き終えると、「おっさん、あんた辞表を書いた以上は校長やあらへんのやで、早う帰りいな」と叫んだという。

京都市教育委員会は、これを強要されたものとし受理せず、5月10日より同校の休校と教職員の自宅研修を通知した。しかし、教職員は同校での自主管理授業を強行する。これに対抗し、市教育委員会は翌日、岡崎の京都勧業館で補習授業を開く。教育委員会は、岡崎までのバスをチャーターしたが、バス乗り場では、日教組派教員と教育委員会派父兄の間で生徒の奪い合いと相手陣営への怒号が起こったという。旭丘中学は冷戦下のドイツのように二極に分断されてしまったのである。なお、分裂授業初日の11日における各陣営の生徒数は、旭丘管理学校449名に対し、岡崎補習学校は818名であった。その後、この事件は、自主管理授業派の事実上の敗北という形で収束する。

この事件について、筆者は、教育学者森田伸子の言葉を引用して、次のように述べている。

旭丘の生徒たちの、「民主主義を担う子ども」像は、戦中期の子ども像の反復である。教育学者森田伸子はこう言っている。

戦後の「民主主義の申し子」と戦時期の「少国民」との間には断絶はない。断絶はファシズム国家と民主主義国家という国会体制の違いのなかにあるのであって、子どものあり方のなかになるのではない。いずれの場合においても子どもは、政治的現実を大人とともに共有する小さな国民とみなされている。

この指摘は正鵠を射ているように思う。教職員たちが否定していたであろう戦中期の軍国主義者と、彼らは同じことをしていたというわけだ。何とも皮肉である。

それにしても、かような激烈な事件があったことを知り、私もいささか驚き呆れてしまった。左翼のラディカリズムについては当ブログでもたびたび言及してきたが、自身のイデオロギー闘争のために子供でさえも利用するとは、恐ろしいものである。

(坂木)