2013年6月1日土曜日

書評:『コミュニタリアニズムのフロンティア』



 本書『コミュニタリアニズムのフロンティア』(小林正弥、菊池理夫〔編著〕)は、コミュニタリアニズムに関するオムニバス形式の論文集である。

全体の印象としては、『コミュニタリアニズムのフロンティア』というタイトルにふさわしく、従来コミュニタリアニズムと関連して論じられることの少なかった、環境、フェミニズム、福祉、ジャーナリズム等を取り上げていて、従来のコミュニタリアニズム研究にはない新鮮さがあった。さらに、京都学派の哲学者や南原繁といった日本の人物をコミュニタリアニズムの視点から論じている点も非常に興味深い。

 本稿では、本書に収められた論文の中でも、個人的に気になったものを取り上げたい。それは「戦争責任」(第14章、宮田裕行)についてである。

 宮田はまず、丸山眞男、加藤典洋、高橋哲哉の戦争責任論を取り上げ、責任の「主体」という点から戦争責任を論じた各人の主張を紹介している。そしてそれらを踏まえた上で、今日の戦争責任及び戦後責任論の課題を、「戦後責任の具体的な責任主体となる国家と、その責任の実質的な担い手となる国民一人一人の意識との間の開きを、そのようにして埋められるのかという点にある」とする。そこで次にサンデルの戦争責任論が取り上げられる。

 サンデルは、道徳的責任を、「自然的義務」「自発的責務」「連帯の責務」の3つに分類し、とりわけ、「連帯の責務」を重視する。「自然的義務とは異なり、連帯の責務は個別的であって、普遍的ではない。そこにはわれわれが負う道徳的責任も含まれる含まれるのだが、この責任は理性的な人間そのものではなく、一定の歴史を共有する人間に対する責任である。だが、自発的責務とは異なり、そうした責務は同意という行為に基づいているわけではない。その道徳的な重みの源は、位置ある自己をめぐる道徳的省察であり、私の人生の物語は他人の物語をかかわりがあるという認識なのである」とサンデルは言う。「連帯の責務」は、個々人が自ら所属する共同体の価値や道徳的文脈について熟考することで、はじめてその責務を引き受けることができるものなのだ。

 こうしたサンデルの主張を踏まえて、宮田は次のように述べる。


 サンデルの「集合的な道徳的責任」では、みずからが所属する共同体の歴史に対して、積極的に向き合っていくことが要請される。また同時に、そうした責任を、世代を超えて継承していくことが要請される。戦後責任の問題でいえば、自分自身が直接に手を下したわけではない出来事や自分自身が生まれ育った以前の出来事、つまり自分自身の経験的現象を超えている出来事に対しても、そこにある種の「うしろめたさ」のような感覚を呼び起こさせるものであり、戦後世代に積極的に戦後責任の問題について考えることを要請する議論となる。


 以上のように、宮田はサンデルの議論を、戦後責任の具体的な責任主体となる国家と、その責任の実質的な担い手となる国民一人一人の意識との間の開きを埋める考え方として評価する。

 私は、こうしたサンデルの主張は概ね妥当なものだと思う。コミュニタリアニズムの思想からいって、共同体の培ってきた歴史を継承するというのは当然のことであり、そこには負の歴史も含まれるだろう。

 私が気になったのは、次の二点である。

 まず、我々はどのような出来事を「責任」として継承していかなければならないのかという点である。宮田論文では、第二次世界大戦下での支那や朝鮮に対する侵略的行為を「責任」の対象としていた。では、我々が負うべき「責任」はそれだけなのか。例えば日清戦争や日露戦争などで日本が他国に与えた損害については「責任」は負わなくてよいのか。私が言いたいのは、「責任」を負うべき対象となる出来事が一体いかなる基準で選ばれるのかということである。

 共同体での熟議で決めるべきとコミュニタリアンなら答えるのかもしれないが、そうであるならば、熟議の結果、第二次世界大戦下での支那や朝鮮に対する侵略的行為は「責任」を負うべき出来事に値しないという結論が出たとすればどうだろう。もちろん中韓は反発するに違いないが、誰がその共同体の下した結論に異を唱える正当性をもつというのか。いずれにせよ、第二次世界大戦下での行為が「責任」を負うべき対象とみなされる根拠を明確にしない限り、恣意的だという批判を免れることはできないだろう。

 もう一つの点は、この「責任」はどのくらいの世代にまで継承され続けなければならないのかということだ。宮田は「ある種の「うしろめたさ」のような感覚を呼び起こさせる」と言うが、この「うしろめたさ」を共同体の人々は未来永劫持ち続けないといけないのか。例えば、(アングロサクソン系)アメリカ人は18世紀にアフリカ大陸から黒人が奴隷として拉致されたという事実を受けて、今現在でも黒人に対して「うしろめたさ」を持たなければならないのか。フィリピンを植民地にしたことや、ベトナム戦争に対して今でも責任を感じなければならないのか。

 これに対して、「被害者が謝罪を求めている限り、責任を負わなければならない」、「相手が許してくれたら責任から解放される」という回答が可能かもしれない。しかし、その際厄介なのは、相手がそもそも許す気がない場合である。宮田は、「先の戦争における被害者やその遺族からの謝罪や補償、真相究明を求める声」が後を絶たないのは、「その謝罪や賠償が単なる政治外交上の形式的なものであり、日本国民の深い洞察から導かれたものではないからではないか」と述べている。確かにそうした側面も否定できないが、大きな理由は、中韓がこの問題を外交上の切り札として利用しているからだろう。また、「日本国民の深い洞察から導かれた」謝罪というものは、何を基準にしてそのようにいえるのか。相手側が判断するのか。

 確かに我々は、自らの属する共同体の歴史を、負の部分も含めて、継承していく必要がある。しかし、負の歴史を継承していくことと、負の歴史に対する責任や謝罪が直ちに結びつくわけではないし、積極的に結びつけるべきでもないと私は思う。

(坂木)