2013年8月25日日曜日

『はだしのゲン』を過大評価するな



 松江市内の小中学校でマンガ『はだしのゲン』に対して閉架処置がなされていた問題が波紋を呼んでいる。

 閉架処置反対派からは、「平和を考える機会を子供たちから奪う」「言論の自由の侵害だ」などといった批判が出ている。

 一方、賛成派の間には、『はだしのゲン』の過激な描写や反日的・自虐史観的表現を問題視する意見がある。

 この問題について管見を述べさせてもらうと、どちらも『はだしのゲン』を過大評価しているように思う。

 まず反対派に対してだが、反対派はどうも『はだしのゲン』を平和教育のバイブルとして神聖視している節がある。確かに、同作品は戦争、とりわけ広島における原爆を取り扱った作品ではあるが、これだけが原爆の悲惨さを伝える作品ではない。例えば、こうの史代『夕凪の街 桜の国』も原爆を扱った秀逸なマンガである。『はだしのゲン』が原爆を扱ったマンガとしては最も有名であろうことは間違いないにしても、だからといって特別扱いするのはどうなのだろうか。

また、反対派は平和を考える機会を奪うなと言うが、『はだしのゲン』が小中学校の図書館で読むことができなくなったからといって平和を考える機会が奪われるのだろうか。そうだとすれば、この国の平和教育というものは甚だ貧相で薄っぺらなものだと言わなければならない。

 言論の自由を侵害するという批判も的外れだ。『はだしのゲン』が日本全国で発禁処分になったのならいざしらず、一部の小中学校の図書館で閉架になった程度で言論の自由が侵害されたとは到底言えまい。そもそも言論の自由を持ち出すならば、『はだしのゲン』が図書館に置かれているのに、他のマンガ作品が置かれていないということこそ、言論の自由の侵害に他ならない。『はだしのゲン』は平和教育に有用だからという反論があるかもしれないが、では一体誰がどのような基準で平和教育に有用かどうか決めるのか、恣意性を拭い去ることはできない。また、図書を有用かどうかで差別化することも妥当なのか。反対派は、閉架になったのが『はだしのゲン』だからそのような主張をするのではないかと疑いたくなる。例えば閉架になったのが小林よしのりのマンガだったなら、事はここまで大きくはならなかったに違いない。
 
 次に賛成派に対してだが、こちらも私に言わせれば言い過ぎの感がある。

 私自身の体験を語ると、私の通っていた中学校にも『はだしのゲン』が置いてあった。学校の図書館にあるマンガといえば、手塚治虫の作品とこれぐらいだったように記憶している。学校にある数少ないマンガというのは子供にとっては魅力的だから、私も『はだしのゲン』は読んだ。確かに気味の悪い表現が多かったが、全体としてはゲンの成長がメインの話だから結構面白かった。町の図書館で完全版を借りたくらいだ。

 賛成派からは「女性器の中に一升瓶をたたきこんで骨盤をくだいて殺す場面」が過激な描写の一例として挙げられているが、言われてみれば確かにそんなシーンがあったなと思い出す程度で、具体的に悪影響があったわけでもない。先程も述べたとおり、同作品はあくまでもゲンの成長がメインだ。作品の一部の描写をあげつらって批判するのはいかがなものか。

 また、「天皇陛下に対する侮辱、国歌に対しての間違った解釈、ありもしない日本軍の蛮行が掲載」されていて、子供たちに「間違った歴史認識を植えつけている」という批判もあるが、それは大袈裟というものだ。だいたい、そのような場面を見て年端もいかないような子供が「間違った歴史認識」を持つことなどあまりないだろう。賛成派は、『はだしのゲン』が子供たちを反日主義者に仕立て上げるプロパガンダ作品だと本気で信じているのだろうか。賛成派にはいわゆる“保守”の方々もいらっしゃるようだが、反日的な描写が少しでもあれば批判するというようなことをしていると、保守派全体の品位や信頼性を疑われかねない。

 そもそも、今回の松江市での問題が発覚する以前において、『はだしのゲン』を批判する主張を私は見たことがない。今回の問題が発覚した途端に『はだしのゲン』を問題視する主張が一気に噴出した感がある。本当に『はだしのゲン』が問題だというのであれば、なぜもっと早くからそうした主張をしてこなかったのか。

 以上のように、反対派も賛成派も、『はだしのゲン』という作品を過大評価している。確かに原爆が登場するという意味では特異なマンガではあるが、所詮は数あるマンガ作品の中のひとつに過ぎない。少なくとも子供たちにとってはそうである。この作品を変な色眼鏡で見るからこのような問題が起こるのである。

 したがって、今回の問題について言えば、閉架にする必要は特にないと思うが、教育委員会が必要と判断したのであれば閉架にしても構わない。その程度であって、大騒ぎする問題ではない。

(坂木)



2013年8月4日日曜日

橋下現象とは何だったのか ~橋下現象を総括する~



 以下、F参与の授業レポートと同様の内容である。若干お付き合い願いたい。

 
 
 この国の総理大臣はここ5年で6人も変わっている。ここまで政治が不安定であってよいはずがない。東北大震災からの復興の遅れ、日米関係の悪化、拉致問題にかかる交渉の断続性、枚挙にいとまがないほどに、内政、外交に多大な毀損をもたらしていることは疑い得ない。それでもなお、この国が未だに致命的な政情不安に陥っていないのは、政治家と行政官僚および民間がそこまで互いに依存的でないからだと言える。政治はそれが持つ大きな権力によって国家を容易く変容しうるが、まさにそういった「政治主導」の不徹底ゆえに我々は致命傷を免れているのであろう。
 そのように政治が混迷を窮める中、「橋下徹」という人間がにわかに脚光を帯びている(最近はそうでもないが)。彼は言う、「政治に必要なのは大胆な構造改革だ」「政治には民間の感覚が足りない」云々、経済的には新古典派(Neo Classical)を理論ベースとし、全体の政策パッケージとしては新自由主義(Neoliberalism)ないし新保守主義(Neoconservatism)と呼ばれる思想潮流だ。何も目新しいものではなく、レーガノミクをを率いた(と揶揄された)アメリカのレーガン、サッチャノミクスを主導したイギリスのサッチャー、さらには日本の中曽根康弘も明確にこのような思想潮流に棹さす政策を実行してきた。
 新自由主義に関する考察は他に譲るとして、今回は、なぜそのような政策ないし政治家、特に最近で言えば「橋下徹」がこれほどまでにもてはやされる(た)のかということについて論考したい。

【唾棄すべきポピュリズム】
そもそも我が国は、天皇を君主とする(これには議論もあるが)立憲君主制の下、アメリカやフランスをはじめとする共和制国家とは異なり、議院内閣制を採用している主権国家である。衆議院と参議院の二院制であり、そこでの議席数が最大の政党が実質的に政権を担当する。衆議院においては政局の動向如何でその任期半ばで解散することも多いうえ、衆参のねじれに伴う議会運営の困難さも相まって、法の制定にかかる政治的な意思決定はもとより、議院内閣制の下組織される行政の主体となる内閣の運営さえも他の先進諸外国と比較しても不健全な状態にある。この背景には何があるのか。

共和政体下の大統領制では、議会に比して権能の強い大統領が行政の運営主体となる。そして君主たる大統領は通常、直接有権者により選出される。対して、議院内閣制においては、政治の中心的役割を担う国会の構成員が有権者によって選出される。要するに民主的な政体下において、国家を運営する代表を選挙によって選出するのは、他でもなく国家の構成員たる国民である。

そのような大切な選挙の趨勢を決定する我々の「民意」の現状はどうか。小泉政権以降、政治の「劇場化」が進んでいる。民衆はパンに飽き足らず政治にサーカスを求めている。ローマの民衆に学のある者はほとんどいなかったが、現代日本は違う。世界でも最高水準の教育(内容に関する議論はあるが)を万人が受ける権利を有し、実際に万人がそれを享受している。一国民として民主政治に参画する主体たりうる教育を施されていながら、かつてのローマの民衆の如き「パンとサーカス」を求める有様。いささか高踏的ではあるが、そのような民衆の姿は、「衆愚」という名に相応しい。

アリストテレスは政体を君主政、貴族政、民主政に三つに分類した。ポリュビオスは、これら三つの政体が堕落することでそれぞれ専制、寡頭政、衆愚政に陥ることを指摘した。この議論に沿えば、我が国の政体は民主制である。民主制はややもすると衆愚政治に陥りやすいことは、古代ギリシャの時代から指摘されていた知見である。

情報を精査し、合理的に判断出来る者たちを、タルトは「民衆」と呼んだ。橋下は「民衆」をあたかも敵と捉え、批判することで「大衆」の支持を謀る下劣な方策をとる。物事を深く考える人間を、頭でっかちで経験が足りないと批判し、そのような人間たちに恥を与えるのである。政治には味方と敵しか存在しないとはシュミットの友敵理論であるが、彼は政治に内包するこの性質を最大限に利用し、権力を射止めようと躍起になっているのではないか。

【安直な構造改革論】
 彼は既存の構造を「悪」と捉える。「悪」である既存の構造は既得権の温床であり、非合理的であり、効用を最大化すべく即刻破壊し新しいシステムを構築する必要がある云々。
ヘーゲルの「存在するものは、合理的である」という箴言が聞こえる。当時苛政を強いていたロシア皇帝について、その存在を擁護するのではなく、無くしたければ現実的かつ合理的なオルタナティブを想定せよという旨の発言である。E.バークのフランス革命にかかる議論を参照するまでもなく、落とし所を想定しないままに単にその場の雰囲気でシステムを大きく変更すれば必ず災厄がもたらされる。特に近代以前の「冷たい社会」(レヴィ・ストロース)ならば共同体の内部で当たり前になされてきた伝承が、近代以降脱呪術化され機能不全に陥った所にこのような病理が蔓延することは見易い。現状存在するシステムには、必ず何らかの合理性が働き、その上で駆動している。そういうものを見極めたうえで構造を変革しようという議論であるならまだしも、それを見極める教養もない者が徒にシステムを破壊し、その光景にカタルシスを得て溜飲を下げる大衆の姿は極めて醜い。
自分の存立が現在の社会構造にどのように埋め込まれているのかということに無頓着な人間が、システムを構成するシグナルとその応答という機能的な部分のみを振りかざし、権力を貪らんとする様は、いわゆる精神病理学上の「サイコパス」と何ら遜色ない(かような記述は‘香山リカ’的であまり好きではないが、、、)。授業中の言葉を使えば、集団から「疎外」された人間の、呪詛ないしルサンチマンに端を発する支配欲、権力欲とも言えるかもしれない。

【現代のソフィスト】
 この国では小泉政権以降、新自由主義に基づく思想潮流が大きく幅を利かせている。無論、彼らの主張にも当然理があるゆえに一定の支持を得てきたことは言うまでもない。けれども山本昌平のいう「空気の支配」も相まって必要以上に肥大化してはいないだろうか。
啓蒙は人間の理性を使いながらあらゆる現実を概念化することを意味する。そこでは人間の思考も画一化されることになり、数学的な形式が社会のあらゆる局面で徹底される。理性は人間を非合理性から解放する役割とは裏腹に、暴力的な画一化をもたらすことになる。このような事態をフランクフルト学派第一世代にあたるホルクハイマーとアドルノは啓蒙の弁証法と呼んでいる。橋下現象とはまさに啓蒙の弁証法ならぬ新自由主義の弁証法というべきであろう。


【大衆社会への処方箋】
橋下徹現象の如きは、過去人類が幾度となく通ってきた道なのである。とりわけ文明の衰退期に頻繁に現れる症候。我々はこのような大衆社会の‘罠’を如何にして超えうるか。
 
社会のありうべき方向性として、エリート主義的か市民社会的かという二つを考えてみる。エリート主義とは、民衆の中でもとりわけ卓越した見識を有する者が社会を善導すべきであるという考え方であるが、当然階級的な固定を産みやすい。また、他律、依存をもたらしがちであるが衆愚化しにくい。一方の市民社会的方策とは何か。市民社会論の典型は、十分に啓蒙された主体的な市民を多く作り出し、それら主体間の積極的な政治参加によって社会を運営していこうとする立場である。確かに、市民社会は自律的ではあるが、主体の能力の向上には歩留まりがある上、ステークホルダーの増加に伴って合意形成が難しくなるといった問題を孕む。

【自己形成・教養・インテリゲンチア】
しかし、いずれにせよ、エリートたる卓越した人物、ないし合理的な社会構築が可能な主体的な市民が少なからず必要になる。そういった人物とは、現在あまりに乱用され形骸化している「インテリ」のことではなかろうか。

少なくともインテリとは、巷間語られるような知識のみが卓抜していたり、討論が上手く相手を論難するに長けていたり、というような人間を指すものではない。インテリ、つまりインテリゲンチャ(Intelligentsia)とは、教養によって共同体から疎外され、また教養によって共同体に再帰的に戻ってくるという特殊な自己形成を遂げた人間であると僕は思う。ツァラトゥストラの生き様や仏教の往相還相、ファン・ヘネップのいう通過儀礼の中でも激烈なる経験を伴うもの、あるいは波乱万丈な人生を、思想と共に生きることでより深い洞察を得ていく過程、そのような自己形成を遂げるに至った者だけが得られる境地。自由に浮動するインテリゲンチャ(free-floating intelctuals)。昨今巷で氾濫する「インテリ~」という類の輩がインテリを騙るのはやめてほしい。と同時に、リスペクトすべきインテリを扱き下ろすことも同様だ。



大衆社会に潜む「罠」を見定め、社会をあるべき方向に向かわしめるために、今日も教養を磨かんとす。