2013年9月22日日曜日

今の若者は「幸福」なのか



 今回は、古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』での筆者の主張を検討したい。

筆者は、20代の生活満足度の高さを指摘し、そこから「コンサマトリー化する若者たち」と命名している。「コンサマトリーというのは自己充足的という意味で、「今、ここ」の身近な幸せを大事にする感性のこと」らしい。

彼らは、「仲間」や「友達」を大事にして、ムラのような小さなコミュニティで生きていくことに幸福を感じているが、同時に閉塞感も感じているらしい。だから、ワールドカップや震災ボランティアのように「非日常」という村祭りを提供してくれる場があれば、それに飛び込んでいく。

私がまず思うのは、今の若者が急激に幸福だと感じるようになったのかということだ。本書には、年代別の生活満足度の推移が載っているが、70年代から若者の生活満足度は50%を超えている。2010年では65%で、筆者は15%「も」上昇していると言う。これを高いと解釈するか、低いと解釈するかで主張は変わってくる。

また、年々若者の生活満足度が上昇しているとしても、ここ数十年で我々の生活水準は確実に上がってきているわけだから何ら不思議ではないし、すでに指摘されているように、生活満足度と幸福度は直ちに結びつくわけではない。裕福な生活を送っている者皆が幸福な人生を歩んでいるわけではないことは容易に想像できよう。

そもそもの話だが、統計調査の結果をそのまま信用してもいいのだろうか。もちろん、そんなことを言い出したらおよそ統計など意味をなさなくなるが、鵜呑みにするのも危険だろう。筆者の引用している、国民生活に関する世論調査で2010年の概要を見ると、20代男性の標本数は650で回収数は270だ。女性のほうは、605に対し270だ。当時の20代人口を1300万人としても、あまりに標本数として少なくはないだろうか。しかも20代の標本数は他の年代の中で最も少ない。調査を受けた20代の人々の所得、職業、居住地、家族構成等も不明だ。過去の調査においても、回収数は少ないようで、80年の調査においては、20代男性の回収数は204である。

また、この調査は面接式である。調査員に対して自分は生活に不満を持っていると面と向かって答えられる人は多くないはずだ。たいていの場合、「まあ満足」と答えるだろう。実際、「まあ満足」という回答が20代で、54.8%(2010年)と最も多い。これは推測にすぎないが、そもそも生活に不満を持っている人間がこういう類の調査に積極的に協力するとはあまり思えない。

 さらに、面接式ということは、おそらく昼間に調査員が訪ねてくるのだろうが、昼間に調査に応じることのできる余裕のある人間に範囲が限られてくる。もっと言うならば、住所がある人間しか調査の対象にはならない。一時期、ネットカフェ難民が注目を浴びたが、彼らのような存在は調査からははずされていると考えてよい。

 このように、この調査が果たして20代の現状を正しく反映したものなのか、大いに疑問である。また、若者の生活満足度が年々向上しているとしても、それが今の若者は幸福であるということとイコールであるわけではないということに注意するべきだ。

 そういえば、2007年に赤木智弘という人物が、「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」という文章を発表して世間に衝撃を与えた。ワーキングプアの生活苦を訴えたものだが、こうした若者像は筆者の言う「幸福な」若者とは程遠い。こうした反例は、おそらく調べれば調べるほど出で来るだろう。

 だからといって私は、今の若者は不幸だなどと言うつもりはない。ただ、幸福な人間もいれば不幸な人間もいるという当たり前の話をしているだけだ。

 さらに、筆者は、大澤真幸の議論を引用して、「幸せ」な若者を次のように分析する。今の若者は「今日よりも明日がよくなる」とは信じることができないので、つまり、もはや自分がこれ以上は幸せになると思えないので、「今の生活が幸せだ」と答えるしかないのだ。

こうした類の議論は、正しいとも間違っているとも断言できない。「なぜあなたの生活満足度は高いのですか」というような質問を同時に行わない限り、若者の生活満足度が高い理由などわからないからだ。自分がこれ以上は幸せになると思えないからだというのは、単なる推論に過ぎない。今の若者が生活に満足しているのは、大学進学率の上昇に伴い、所得・生活の質等が向上したからだという推測もできるわけである。

しかも、少なくともこの推論が成り立つには、今の若者が完全に今の生活に満足している必要があるのではないだろうか。なぜなら、「まあ満足している」という回答には、今の生活に対する多少の不満も同時に存在する可能性があるからだ。すなわち、今後自分の生活が改善する、あるいは改善してほしいという希望が残されている。逆に「完全に満足している」という回答には、そうした不満の入り込む余地はない。ただし、これはあくまでも可能性であって、実際には生活の改善を諦めているのかもしれない。いずれにせよ、今の若者が「自分がこれ以上は幸せになると思えない」と考えていると断言することはできない。

筆者は言う。「僕たちはもはや『若者』を一枚岩の存在として語れないことを知っている」と。私には筆者自身こそが若者を「一枚岩」として語りたがっているようにしか思えない。

(坂木)

2013年9月12日木曜日

やはり「若者論」に意味はない



 この頃になってようやく、古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』を読んだ。この筆者に対しては、現役東大院生という肩書がウリの人だという印象しかなかったが、本書を読んでも、残念ながらその印象は変わらなかった。

 表紙を開くと次のような売り文句が書いてあった。

 最注目の若き社会学者が満を持して立ち上げる、まったく新しい「若者論」!

 若者が書く若者論という意味では新しいのかもしれないし、それなりに有用な部分もあったのだが、所詮「若者論」はどこまでいっても「若者論」である。どんなに真新しいことを述べようとも、本質は今までの「若者論」と変わらない。

 そもそも私は若者論というものを信用していない。それは、本章で引用されている言葉を使うなら、「『世代』内部における個人的・階層的多様性を見落としがち」(井上俊)だからだ。結局、若者論は、―意図しようがしまいが―若者、いや人間の多様性を無視して、年代だけで集団を一括りに論じようとするものなのだ。ちょっと考えればこれがいかに乱暴なことかわかるだろう。確かに統計などを用いてもっともらしいことを言うことはできる。「今の若者はこういう傾向にある」と。しかし、それはあくまでもそうした傾向を持つ若者がいるというだけの話であって、当然ながら、それに当てはまらない若者もいる。何も難しい話ではない。繰り返すが、人間は十人十色である。それを年代だけで一括りにして論じることに何の意味があるのか。しかも、そうした議論が若者に限ってなされている。中年論とか高齢者論とか、私は寡聞にして知らない。

では、この“まったく新しい「若者論」!”は具体的にどうだったかを述べたい。

正直、この本で感心したのは第1章だけで、あとはほとんど中身のないものに思えてしまった。第1章では、明治時代から現代までの若者論の系譜をたどっていく。私自身も80年代の若者論について調べたことがあるということもあって、この章は非常に興味深かった。これを見ると、若者論が昔から同じようなことを繰り返し主張してきたことを改めて確認できた。

 第2章では、「内向き」や「嫌消費」など、現代の若者論で言われている事項を検討している。これもなかなか面白い。ちなみに、筆者の意見は、「微妙」だそうだ。「データの解釈次第で「内向き」とも言えるし、「内向きじゃない」とも言えてしまう」。当然と言えば当然の結論だろう。若者論とはそういうものである。

 ここまでは良かったのだが、筆者もまた新たな若者像を打ち立てたことに失望を禁じ得ない。筆者は、20代の生活満足度の高さを指摘し、そこから「コンサマトリー化する若者たち」と命名している。「コンサマトリーというのは自己充足的という意味で、「今、ここ」の身近な幸せを大事にする感性のこと」らしい。

彼らは、「仲間」や「友達」を大事にして、ムラのような小さなコミュニティで生きていくことに幸福を感じているが、同時に閉塞感も感じているらしい。だから、ワールドカップや震災ボランティアのように「非日常」という村祭りを提供してくれる場があれば、それに飛び込んでいく。
 
 これが本書の論旨である。今までの若者論と何が違うのだろう。今までの若者論も統計を用いながら、もっともらしい主張をつくりあげたものだ。確かに一見新しそうな主張だが、多様な人々を年代という共通点で抽出し、勝手な解釈を施しているという点において、他の若者論と変わらない(筆者の主張については、次回、検討するつもりである)。

筆者は第1章で次のように述べている。


「若者」というのは実態があるようで、ないような、曖昧なものだから、いくらでも勝手なイメージを付与できる。さらに、若者はどんどん入れ替わる。だから、若者論が入れ替わっても誰も文句を言わない。むしろ歓迎される。「これが新しい若者か」と。


筆者にそっくりそのままお返ししたい言葉である。

第3章から第5章はほとんど論評に値しない。第3章はワールドカップに熱狂する若者とナショナリズムを扱っているが、どこかで聞いたことのあるような意見が目立つ。第4章は、保守系運動に身を投じる若者を論じている。これも小熊英二あたりの著書で読んだことがある内容だ。第5章では、東日本大震災時の震災ボランティアに参加する若者をクローズアップする。どれについても、この章は本書に必要だったのかと思いたくなる。ワールドカップにせよ、保守系運動にせよ、震災ボランティアにせよ、それらにコミットする若者を取り上げたところで、それは「そういう若者もいる」ということにしかならない。しかも、「国家はいらない」、「社会を変える意味」、「3・11後の希望」などと本論とは直接関係のないこともちりばめられている有様だ。巻末の佐藤健との対談も、週刊誌の記事かと突っ込みを入れたくなる。筆者は、この本は「若者パーフェクトマニュアル〔永久保存版〕」ではないにしても、「若者資料集〔二〇一一年度版〕」くらいにはなると述べているのだが、「資料集」にしてもお粗末な感が否めない。

最終章に至っては、「なんとなく幸せで、なんとなく不安。そんな時代を僕たちは生きていく。絶望の国の、幸福な『若者』として」という文句で幕を閉じる。結局、絶望的な未来が待ち受けているとしても、今がそれなりに幸せならそれでいいということなのか。シニカルと言うべきか、無責任と言うべきか。少なくとも、“社会学者”の吐くセリフではない。

やはり「若者論」に意味はない。本書を読んで改めて確信した。

筆者はまだ博士課程在籍のようだが、有限会社に勤めたりメディアに露出したりする暇があるのなら、勉学に勤しみ、博士号をとるなり単位取得満期退学するなりしたほうがよい。老婆心ながらそう申し上げたい。

(坂木)