2014年10月25日土曜日

書評:中島岳志『「リベラル保守」宣言』

 本書は、保守思想の解説を交えながら、原発問題や橋下・維新の会など、具体的なテーマについて筆者の意見を述べている。全体としては彼の意見には概ね賛同できるのだが、ここでは私が違和感を覚えた点について論じたい。

 ①改革をめぐる姿勢

 第1章「保守のエッセンス」では、文字通り保守主義思想を構成する要素について解説を行っている。この解説は、平易な言葉でわかりやすく書かれているし、従前の保守主義思想研究と照らし合わせてみても妥当であるように思う。

 ここで気になったのは、彼の”保守原理主義”的ともとれる態度である。それは、改革に対する姿勢にみることができる。筆者は、「『保守するための改革』は、常に歴史感覚に基づいた漸進的存在でしかあり得ません」と述べる。確かに保守主義は、漸進的改革を志向する。しかし、漸進的改革しか認めないという姿勢はどうだろうか。筆者は別の紙面でも次のように述べている。

 保守するための改革、永遠の微調整というのを積極的に受け入れるのが、保守の考え方です。

 ところが安倍政権は世論の反対を押し切り成立させた特定秘密保護法の決定過程からも明らかなように、大きな変革を上から断行しようとする。自分と立場の違う人たちの言葉に耳を傾けるのではなく、自分にとって都合のいい人たちの言うことだけを聞いて、独断的に物事を進めていく。

(中略)

結論は一歩一歩で地味ですが、漸進的前進こそが保守思想の根本。だから僕は、永遠の微調整しか信じません。

(神奈川新聞)

 繰り返すが、保守主義は漸進的改革を目指すべきである。そのことに異存はない。しかしながら、同時に、漸進的改革しか認めないという、いわば保守原理主義的な姿勢も、「極端なもの」を嫌う保守主義の思想からかけ離れたものである。しかも、政治というものはそう単純なものではない。いくら対話をしても同意を得ることができないときには、結局「上から断行」することになる。さまざまな要因により、漸進的改革がままならないこともある。複雑な政治の営みの中で、漸進的改革しか認めないというのは、あまりに偏狭すぎやしないだろうか。

 ②原発の問題

 次に気になったのは、原発の問題である。筆者は第2章で、次のような理由から、脱原発を漸進させていくべきだと主張する。

 原発事故は広大な国土を台無しにし、そこで歴史的に積み重ねてきた先祖の英智を根源的に破壊します。長年の間、有名無名の日本人によって継承されてきた伝統や慣習が、一瞬にして消滅の危機にさらされます。保守派であれば、そのような事態を全力で阻止し、命を懸けてでも死守しようとするはずです。

 この意見を完全に否定するつもりはない。しかしながら、ここにも保守原理主義的な、過度の理想主義を感じずにはいられない。確かに保守主義思想から上記のような主張が出てきても不思議ではないが、保守主義者であるならば、原発が日本に導入された歴史にも目を向けるべきではないのか。また、現在でも原発停止によって電気料金が高騰しており、産業や国民生活にも影響を与えている。そうしたことを考慮せずに、ただ保守の信念から脱原発を主張するのは、同じく理想のみで現実を顧みない左派の手口と変わらない。

 「靖国に参拝すれば保守」とか「憲法改正に賛成なら保守」など、安易なレッテル張りが横行する中で、保守主義の思想的な定義付け、あるいはそのエッセンスの抽出が重要なことは間違いない。しかしそれが行き過ぎると、今度はその定義を基に、硬直したレッテル張りが跋扈するようになるのではないかと私は危惧する。保守主義(者)はこうでなければならないという原理主義的態度こそ、保守主義が最も忌み嫌うものであることを我々は肝に銘じなければならない。

(坂木)

2014年8月11日月曜日

書評:『ナショナリズムの力: 多文化共生世界の構想』(白川 俊介)

 今年5月に行われた欧州議会選挙の結果は、日本でも大いに話題になったように思う。EUに懐疑的な勢力が躍進したことは欧州のみならず、世界に少なからぬ衝撃を与えた。自由、民主主義、平等、人権といったリベラルな理念の下、国家の枠組みを超えた存在として影響力を拡大してきたEUであったが、ここにきて大きな壁にぶつかったといっていいだろう。グローバリゼーションの中で国境の消滅が言われて久しいが、比較的同質な文化的素地をもつ欧州ですら、この有様である。国家という枠組みが解体される日はまだまだ先のようだ。
 
 このような中で、リベラル・ナショナリズムの思想は改めて注目されて然るべきだと考える。リベラル・ナショナリズムとは、自由や平等、民主主義といったリベラルな諸価値を支える基盤としてナショナルな共同体の持つ文化的文脈、連帯意識を重視する思想である。リベラル・ナショナリズムに関する詳しい解説は本書を参照していただくとして、本稿では、私的に重要と思われる点について論じたい。

■民主主義について
 
 リベラリズムにとって民主主義は重要な価値である。そしてそれは、究極的には、国民国家を越境し、あらゆる人に対話や熟議が開かれている「普遍的コミュニケーション共同体」あるいは「対話的コスモポリタニズム」を志向するものである。そこでは、さまざまな差異を有する他者が自由にコミュニケーションに参加できる。こうした構想は、一見すると非排除的であり望ましいように見える。
 
 しかしかながら、筆者はこうした「普遍的コミュニケーション共同体」に疑問を呈する。それは、コミュニケーションや熟議は一体どんな言語で行われるのかということに他ならない。これは素朴な疑問であるが、極めて本質を突いた指摘であるように思う。「普遍的コミュニケーション共同体」では何らかの共通語(主に英語)で熟議が行われるのだろうが、そもそもその共通語を話すことのできない者は「普遍的コミュニケーション共同体」から排除されるのである。

 また、筆者が言うように、理性的な熟議によって合意が成立するのは、熟議の参加者がお互いのことを理解し、信頼している場合であり、そのためには共同性が必要である。その共同性の基盤になるのが、あらゆる社会的実践や制度の背景にある伝統と慣習を含む「社会構成文化」であり、それは多くの場合、「ナショナルな文化」と重なる。そしてその「社会構成文化」は共有された言語を基盤とする。

 私の理解では、もっとわかりやすく説明すると次のようになる。熟議というのは―よほどのエリートでない限り―ふつうの人間にとっては母語以外で行うのは難しい。なぜならば、語彙的な問題ももちろんあるが、言葉の言い回しや使い方、それぞれの語のもつ微妙なニュアンスの違いなどを外国語において理解するのは多大な労力と困難が伴うからだ。そして、そうした言葉の持つ語感や意味合いを理解するということは、取りも直さずその言語を話す人々の間に共有される文化的文脈を理解することを意味するのである。

■社会正義の問題

 社会正義とその具現化たる再配分政策、それを含む社会保障制度が安定して持続的に機能するためには、ある程度まとまった大きさの社会が必要であり、その社会において制度を下支えする「社会的連帯」が必要である。そして、そうした「社会的連帯」は、事実上ナショナルなレベルにおける連帯であった。

 その一方でポスト福祉国家の時代においては、ナショナルな共同性に基づく連帯ではなく、「民主的な公共性」によって支えられる連帯―熟議民主主義による連帯―が求められるという。

 しかしながら、筆者は、ナショナリティが社会的連帯の源泉であることを強調する。前述したように、熟議が成立するためには、ナショナルな共同性を必要とする。ナショナルな共同体においては、そこに所属する人々の間に公共文化―ある人間集団がどのようにして共に生活を営んでいくかに関する一連の理解―が共有されているため、互いを文化的に同質な仲間であると認識し、生活の多様な場面で継続的に協力し合い、社会を共同でつくっていこうと考えるのである。したがって、社会正義やその具現化である再配分政策はナショナルな政治単位でこそ最もよく実現されるのである。


 以上、長々と説明してきたが、私が強調したいことは、リベラルな諸価値の実現を目指すのであれば、個々のナショナルな枠組みが、それぞれの枠内において、リベラルな価値を実践していくことが望ましいし、現実的な選択肢であるということだ。無論、ネイションという枠組みが万能だと言うつもりはないし、リベラル・ナショナリズムに対する反論も当然あるだろう(ただし、そうした反論に対する応答も本書には記述されている)。しかしながら現実には、ネイションはなくならないどころか、冒頭で述べたように、それを志向する動きさえある。そのような中で、「普遍的コミュニケーション共同体」や「対話的コスモポリタニズム」といった議論は―理論として全く無意味とは言わないが―やはり現実味を欠いているように思う。民主主義や社会福祉といったリベラルな諸制度が今も昔もネイションという枠組みによって担保されてきたという事実を看過するべきではない。

(坂木)

2014年8月1日金曜日

「妄想狂」なのは誰か

 先日、ネット上で信じがたい記事を見つけた。『AERA』から抜粋された記事らしい。少々長いが、全文を掲載する。

 万全の備えが抑止力になる。安倍首相は、こう集団的自衛権を正当化する。でも、その言葉に説得力はない。母親たちの声なき声は、直感的に「危険」を察知している
   国の方向性が見えない中で、母親たちが子どもの将来を案じるのは、自然の流れだろう。千葉県に住む理系研究職の女性(44)は閣議決定後、「子どもたちには、自分の頭で考えて選ぶ力をつけさせたい」と、より強く思うようになったと話す。
   小学4年になる娘は1歳から英語教室に通わせた。自身の就職活動や働きながらの子育てを通して、この国で女であることの生きにくさを痛感してきたからだ。ただ、憲法改正に前のめりな安倍晋三首相の「妄想狂的なところ」に怖さを感じ、第2次安倍政権が発足した後、5歳の長男にも英語教育をほどこし始めた。いざというときの海外避難に備えて外貨預金をし、家族全員のパスポートも常備している。
   閣議決定後、夫婦の会話は娘の中学受験の話から、集団的自衛権に変わった。政治に関する本を読み始め、少子化や高齢化についても考えをめぐらせる。
  「特定秘密保護法も集団的自衛権も、来るものが来たなという感じ。自分の家だけで海外に逃げていいのか。ほかのお母さんたちがどんな思いなのかを知りたい」 
   元弁護士で2歳の娘がいる黒澤いつきさん(33)は昨年1月、30歳前後の弁護士仲間とともに「明日の自由を守る若手弁護士の会」を立ち上げ、共同代表を引き受けた。会員は現在、330人ほど。活発なメンバーは女性、とくに母親たちだ。今年6月には、法律用語を日常的に使う言葉に置き換えて解説した『超訳 特定秘密保護法』(岩波書店)を出版した。 
   前回総選挙で自民党が圧勝した瞬間、頭をよぎったのは生後8カ月の娘の顔だった。会の目的は、思想やイデオロギーではなく、何が起きているのか簡単な言葉やイラストで伝え、考える材料を提供することだ。カフェやレストランで憲法について学ぶ「憲法カフェ」を催し、じわじわ人気が広がりつつある。超訳本の著者の一人でもあり、この活動を始めた弁護士の太田啓子さん(38)も2児の母。やはり子どもの存在が後押ししていると、太田さんは言う。 
  「子どもがいなかったらここまでやらなかったと思う。母親になると、子どもの年齢で考える『子ども暦』が自分の中にできて、初めて50年後の社会を想像するようになります。ママたちの行動は、こうした体感に根差しているのです」

 こんな馬鹿げた記事を臆面もなく掲載するAERA編集部の頭は大丈夫かと心配になる。それとも、政権批判のためなら恥も外聞もかなぐり捨てて憚らないのか。このような三文記事にもならないようなものに論評する価値もないが、日本人の平和ボケを極端な形で象徴する記事のように思えるので、あえて取り上げたい。

 この文脈では、「理系研究職の女性」は、集団的自衛権容認によって日本が戦争に関わる危険が増大したため、海外へ避難することを検討しているようだ。しかしながら、集団的自衛権を認めていない国がほかにあるのだろうか。彼女が具体的にどこへ避難するつもりなのかは不明だが、彼女の論理に従えば、集団的自衛権を認めている別の国へ避難したところで、戦争のリスクは変わらない。むしろ、日本国内の治安は他国よりも良いので、移住によってかえって危険な状況に陥るのではないか。

 「特定秘密保護法も集団的自衛権も、来るものが来たなという感じ」というが、いままでの日本にそうしたものがなかったということの方が異常なのだ。にもかかわわず、あたかも日本が特異な国になったかのような「妄想」に憑りつかれて慌てふためく様は、まさに平和ボケそのものである。

 そもそも、「いざというとき」というのは具体的にはどのような事態を想定しているのか。尖閣諸島付近での紛争?はたまた彼女の住む千葉県を含む首都圏への攻撃?安倍総理を「妄想狂」というが、「いざというときの海外避難に備えて外貨預金をし、家族全員のパスポートも常備している」など、起こりもしない(蓋然性の乏しい)ことに対して病的なまでに過剰に心配する連中の方がよほど「妄想狂」に思える。

  ここに登場する女性たちは、どうも自民党政権、とりわけ安倍政権に対して尋常ならざる危機感を覚えているようだが、他の政党―例えば民主党―が政権をとれば安心するのだろうか。民主党が与党の座にあったときには何も感じなかったのだろうか。もしそうだとすれば、彼女たちの直感というのは、全くあてにならない。

(坂木)

2014年7月6日日曜日

「戦争のできる国」で何が悪い

 挑発的なタイトルをつけたが、何も突飛なことを言うつもりはない。至極真っ当なことを述べたい。

 集団的自衛権容認が閣議決定された。メディアや左派勢力は「戦争のできる国」に近づいたと相も変わらぬ批判を繰り返している。しかし、当たり前の話だが、「戦争のできる国」と「戦争をする国」は違う。戦争のできる国が直ちに戦争を始めているわけではないことは論を俟たない。同様に、集団的自衛権を容認したからといって、実際にそれがすぐに行使されることにはならないのである。

 集団的自衛権容認によって日本が「戦争のできる国」に近づくということ自体は否定しないが、だからといって、それによって自衛隊が海外の戦地へと赴き戦争をするようになるというのは飛躍が過ぎるだろう。にもかかわらず、左翼の連中は何でも彼んでもすぐに戦争に結び付けたがる。もしかすると、心の底で誰よりも戦争を渇望しているのは彼らの方ではないのか。

 以前にも述べた通り、集団的自衛権容認は、我が国の安全保障の選択肢を広げることに繋がる。「集団的自衛権が現行憲法のもとで認められるのか。そうした抽象的・観念的な議論ではない。国民の命と暮らしを守るため、現行憲法のもとで何をなすべきかという議論だ」と首相が語ったように、必要なのは、平和のためにあらゆる手段を尽くすことだ。

 それがなぜ、我が国の身動きを封じることが平和に繋がるのか。私には彼らがなぜ集団的自衛権容認に反対するのかよくわからない。立憲主義云々という批判は手法の問題であって、集団的自衛権そのものに反対する理由にはならない。また、「戦争反対」とか「平和国家としての理念」といった批判は抽象的かつ曖昧であまり説得力がない。集団的自衛権とは他国の戦争に首を突っ込む権利だという批判もまるで筋違いである。私には、彼らが感情論的に反対しているのであって、我が国の安全保障を真剣に考えているとは思えないのである。

 すぐに「戦争が起こる」と騒いでいる左翼の皆さん、その豊かな想像力を日本の外側へと向けてはいかがか。日本を取り巻く状況がいかに危ういかが容易に理解していただけるはずだ。それとも、他国に対しては「平和を愛する諸国民の公正と信義」を信じて疑わぬが、日本に対しては、武器とそれを使う環境を整えれば直ちに戦争を始める野蛮な国だという差別意識に憑りつかれているのか。

 無論、私とて戦争は御免だ。しかし、日本だけが軍事力を抑制することで世界が平和になると本気で信じるほど能天気ではない。集団的自衛権を容認することが「戦争のできる国」に近づくというのであれば、すなわち、「戦争のできる国」になることによって我が国の安全保障体制がより強固なものになるのであるならば、「戦争のできる国」で大いに結構である。

(坂木)

2014年6月22日日曜日

「平和の党」が聞いて呆れる

 集団的自衛権に関して、今国会中の閣議決定が見送られることとなった。やはり公明党の抵抗が大きいようだが、同党の牛歩戦術ともいえる態度は実に見苦しい。

 かの党が集団的自衛権に反対しているのは、自らを「平和の党」と自負しているからだといわれる。

 不思議に思うのは、集団的自衛権の容認が平和に反するものなのだろうかということと、そもそも彼らにとっての平和とは何なのかということだ。
 
 言うまでもなく、平和とは、「戦争反対」とか「九条守れ」と叫んでいれば勝手に実現するものではない。そしてそれは、まずは外交によって実現されるべきものである。しかし、外交努力にも限界はある。某国のように、武力を背景にして侵略ともとれる行動にはしる国もあることを考えれば一目瞭然である。であるならば、我が国の平和を守るために必要なあらゆる対策を講じるべきだし、以前述べたように集団的自衛権の容認は我が国の安全保障に資するものである。

 にもかかわらず、なぜ公明党は反対するのか。我が国の安全保障に係る選択肢の幅を狭めることがなぜ平和に繋がるのか、実に不可解である。まさか自衛隊の手足を縛っておけば平和が実現すると考えているわけではあるまい。それとも、彼らのいう平和とは、所詮、自らのイデオロギーの殻に閉じこもって、現に存在する平和への脅威から目を背けることなのだろうか。

 同党が野党や、戦争反対と叫んでいるだけでいい市民団体、あるいは無責任な言説を垂れ流す新聞社であるならば、そうした態度も許されよう。彼らは実際に我々国民の生命と財産を守る立場にはないからだ。だから、彼らは平和をお題目のように唱えているだけで一向に構わない。

 しかしながら、同党は与党である。平和を脅かす要素に対して考えうるありとあらゆる対策を講じることは政府の責務である。結論を先延ばしにしようという姑息な抵抗こそが、国民の生命や財産を損なうものであることを自覚するべきた。そして、それでも反対だというのなら、潔く連立政権から離脱したほうがよい。

(坂木)

2014年5月25日日曜日

集団的自衛権をめぐる考察2

 今回は、憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認について管見を述べたい。結論からいうと、憲法解釈変更による行使容認は、ベストではないにしても、反対はしない。では、その理由を書いていく。

 集団的自衛権の行使を憲法の解釈変更によって容認することは、立憲主義に反するという批判がよくなされる。ときの政権の意のままに解釈が変更されるのは好ましくないというわけだ。

 これに対して、まず確認しなければならないことは、憲法には集団的自衛権を禁止する直接的な文言は書かれていないということと、現在の自衛隊を中心とする安全保障体制が確立しているのは憲法の“解釈”によってであるということだ。

 憲法学においては、9条の解釈をめぐり、以下のような説が多数派である。第1項においては、侵略戦争を放棄しているのあって、自衛戦争までも放棄するものではない。しかし、第2項においては、侵略・自衛の如何を問わずあらゆる戦力の保持が禁止されているのであるから、自衛戦争を含めた戦争をすることは一切できず、自衛隊も違憲である。

 このように、憲法学の通説においては、自衛隊は違憲である。憲法制定当初、政府も、憲法は一切の軍備を禁止し、自衛権の発動としての戦争も放棄したという見解を示していた。しかし、朝鮮戦争にともない警察予備隊を発足させたことをきっかけに、“解釈”を改めることになる。そして現在まで、自衛権が否定されない以上、その行使を裏付ける自衛のための必要最小限度の実力を保持することは憲法上禁止されておらず、自衛隊は必要最小限度の「実力」であって、憲法で禁止された「戦力」には当たらないとする“解釈”をとっている。

 何が言いたいかというと、ときの政権がその時代の状況に合わせて憲法の解釈を変更してきたことで、現在の安全保障体制があるということだ。政権によるあらゆる恣意的な解釈を一切認めないとするならば、現在自衛隊が存在すること自体も許されない。いままでも解釈変更を行ってきたのに、なぜ今回解釈変更することが認められないのか。立憲主義に反するというのであれば、自衛隊は「実力」であって「戦力」ではないという詭弁じみた“解釈”など、まさに立憲主義を踏みにじるものではないのか。
 
 しかも、先述した通り、現行の憲法には集団的自衛権を禁止する直接的な文言は存在しない。集団的自衛権は保有しているが、行使できないというのは“解釈”の話である。したがって、その“解釈”を変更することに問題はないはずである。

 無論、憲法を改正し、自衛隊を軍隊として位置づけ、我が国の自衛権を明確に規定するのがベストである。そうすれは、集団的自衛権はもちろんのこと、自衛隊は「実力」であって「戦力」ではないというような詭弁を弄せずともよいのだ。しかしながら、日本の安全保障を取り巻く状況を鑑みるに、憲法改正を待つ余裕はない。だから私は、解釈変更によって行使を容認することもやむを得ないと考える。


 いま、立憲主義がどうこうと批判している人たちは、逆に、自衛隊は違憲だから解散するという憲法解釈に政府が変更した場合でも、同じような批判をするのであろうか。私には彼らが、自分たちの信条にそぐわない政府の解釈に対して、立憲主義を持ち出して批判しているようにしか思えないのである。

(坂木)

2014年5月18日日曜日

集団的自衛権をめぐる考察

 ここでは、最近議論の的となっている集団的自衛権について、私の見解を述べたい。まず、私の立ち位置をいうと、集団的自衛権の行使容認には賛成である。そして、それは原則的には憲法改正によって実現されるのがベストだと考える。よって、現在安倍政権下で行われている憲法解釈の変更による行使容認は、ベストではないにしても、反対はしないという立場である。なお、念のために申し添えておくが、ここで論じているのは、あくまでも包括的・一般的概念としての集団的自衛権であり、安倍政権が目指すそれとは必ずしも一致しないかもしれない。安倍政権下における集団的自衛権が具体的にどこまでを可能とするものなのかは、今後の協議の推移を見極める必要がある。

 では、なぜ集団的自衛権の行使容認に賛成するのかについて述べたい。国際貢献という観点からはもちろんだが、何よりも集団的自衛権の行使容認は、日本の安全保障にとってメリットが大きいからである。

 行使容認によってアメリカの戦争に巻き込まれるという批判がある。心配する気持ちもわからなくはないが、私は逆に、行使容認が、アメリカを日本の安全保障に積極的にコミットさせる圧力になると考える。

 現在、日米安保条約によって、アメリカには日本を防衛する義務があるとされる。しかし、日本にアメリカを防衛する義務はないし、集団的自衛権が行使できないとされる以上、事実上不可能である。そのような中で、果たしてアメリカがいざというときに助けてくれるのだろうか。いくらアメリカの大統領が、尖閣諸島は日米安保第5条の適用対象だと宣言したところで、実際に尖閣諸島が侵攻された場合に、米軍が動く保証はない。ただでさえ内向き志向が強くなったといわれるアメリカである。有事の際、「日本はアメリカのために戦ってくれないのに、なぜアメリカが日本を守らなければならないのか」という批判があがることは想像に難くない。少なくとも、片務的な防衛義務は、アメリカ政府にとって米軍の介入を躊躇させる口実を与えることになる。このように、片務的な防衛義務は、日本にとっても、アメリカが助けてくれないのではないかという懸念材料となっている。

 しかし、集団的自衛権を行使することが可能になり、双務的な防衛義務を負うことになればどうだろうか。そうなれば、アメリカは必ず日本を防衛しなければならない状況に追い込まれるだろう。なぜならば、双務的な防衛義務においては、「日本はアメリカのために戦ってくれないのに、なぜアメリカが日本を守らなければならないのか」という言い訳は通用しないからだ。つまり、先ほど述べた懸念は払拭されるのである。もしアメリカが、日本に危機が訪れた際に静観しているだけならば、日米同盟は完全に破局を迎える。それは即ち極東地域のパワーバランスの崩壊を意味し、中国や北朝鮮などの躍進を許すことになる。アメリカが極端な孤立主義に回帰しない限り、それはありえないだろう。したがって、行使容認は、アメリカを日本の、あるいは極東アジア地域の安全保障戦略に巻き込む強力なカードになるのである。そして、双務的な防衛義務で結ばれた、より信頼度の高い日米同盟は、取りも直さず中国や北朝鮮に対するより強固な抑止力となる。


 以上のように、集団的自衛権の行使を容認することは、日本の安全保障にとって大きな恩恵をもたらすのである。

(坂木)

2014年5月6日火曜日

書評:『嘘の人権 偽の平和』(三浦小太郎)

 筆者、三浦小太郎氏は正真正銘の人権活動家である。本書を読んでそう思った。筆者は、北朝鮮の人権問題や脱北者の支援活動などに取り組む一方で、評論活動も行っている。本書は、筆者がさまざまな雑誌に寄稿した文章を集めたものだ。

 それゆえ、ひとつひとつの章で取り上げているものは異なるが、本書を通じての一貫したメッセージは、党派性あるいはイデオギーを超えた人権の追求にあると私は思う。さきほど私が筆者のことを正真正銘の人権活動家だといったのは、そういう意味である。「人権活動家」というと、やもすれば左派的イデオロギーを込めて使われがちだが、そうした党派性を乗り越えた人権の概念、そして人権活動の必要性を筆者は説いている。

 それを端的に表しているのが、「姜尚中批判 偽善的平和主義を批判する」という章だ。筆者は、党派性にとらわれることは知識人としての自殺であると断言する。その上で、北東アジアの平和を求め、平和を余りにも大きな価値として崇拝することによって、北朝鮮の全体主義体制による人権侵害を直視しない姜氏の姿勢を「偽善的平和主義」として厳しく批判する。

 この批判はもっともだろう。党派性にとらわれた知識人、とりわけ左派知識人のなんと多いことか。戦時中のいわゆる慰安婦問題には積極的に発言し、当時慰安婦に身を落とした女性たちの人権回復を声高に叫ぶ一方で、北朝鮮や中国で現在行われている人権弾圧には口をつぐむ。あるいは、ヘイトスピーチに伴う在日外国人の人権侵害を批判する一方で、気に食わない“右翼の”政治家に対してはヘイトスピーチ以上の口汚い言葉で罵る。まさに党派性に満ちている。

 筆者は北朝鮮の人権問題に直接取り組んできたからこそ、自らのご都合主義で平和や人権を語る人間が許せないのだろう。

 しかし、筆者の批判のまなざしは、このような党派的知識人のみならず、我々日本人全体にも向けられる。

 筆者は別の章で、ハンナ・アレントの言葉を引用しながら、北朝鮮難民を座視することは、我々の社会の人権概念を崩壊させると警鐘を鳴らす。

 「また現代政治のあらゆるパラドックスも、善意の理想主義者の努力と、権利を奪われた人々自身の状態との間の懸隔以上に痛烈な皮肉に満たされたものは無い。理想主義者たちが、最も繁栄する文明国の市民しか享受していない諸権利を相も変わらず奪うべからざる人権と主張している一方では、無権利者の状態は相も変わらず悪化の一途をたどり、第二次世界大戦前には無国籍者にとってまだ例外的にしか実現されないはずだった難民収容所が、ついには難民の居住地問題のお決まりの解決策となってしまったのである」(註:アレント『全体主義の起源』)  
 ここでアレントが述べている状態は、「繁栄する文明国」を日本や韓国、「無権利者」を北朝鮮と読み替えするとき、まさに私達に「人権」概念の空しさを痛切に感じさせずにはおれない。

 北朝鮮での惨状を座視し、豊かな社会が空虚な人権議論にふけっている様は、先ほど述べた、自分たちさえ平和でありさえすればそれでよいという「偽善的平和主義」に通底するものがあるように思う。人権のかけらも与えられないような「無権利者」を置き去りにして、恵まれた人々が叫ぶ「人権」に果たしてどんな意味があるのか。アレントの、そして筆者の言葉に、私ははっとさせられた。


 考えてみると、戦後の平和主義とは、我が国だけが平和でありさえすればそれでよいとうという考えに立脚したものだった。そして、それを支持してきたのが、いわゆる進歩的知識人であり、彼らもまた、自らのイデオロギーのために平和や人権を唱えてきたに過ぎない。そのようななかで、我々の平和や人権という思想が空虚なものになったとしても不思議ではない。今一度、そうした概念の再検証が必要だろう。

(坂木)

2014年2月23日日曜日

憲法解釈論争や特定機密保持法案にみる日本の司法の軽さ

最近記事をアップしていませんでしたが、少しずつ復帰していきます。

安倍総理の解釈改憲をめぐる発言が問題となっている。

【集団的自衛権で論戦過熱 】  強気の首相に与党困惑 野党、分断狙って攻勢(共同通信)

http://www.47news.jp/47topics/e/250383.php

「憲法分かってない」 首相解釈変更発言 与野党やまぬ批判(東京新聞)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2014021502000098.html


安倍総理は『憲法解釈を最終決定し責任を負うのは、政府の最高責任者である内閣総理大臣である。憲法解釈で問題があれば選挙に負けるという形で責任を取ることになる』(大意)と述べたことに対して、与野党が『憲法の番人である内閣法制局を無視する暴論である』と反発を強めているわけである。

内閣法制局は、新たに作成される法律が憲法や他の法律に抵触・違反しないかを審査し、文章の体裁が法令表記の慣例に沿っているかを判断する機関である。確かに内閣が提出する法律はここで憲法違反がないか評価されることになるので、『憲法の番人』などと名付けられてしまうのも理解できる。しかし、よくよく考えてみると今ある法律が合憲とみなされているのは、『内閣法制局が合憲としているから』ではなく、『違憲立法審査権を有している最高裁判所が違憲判決を出していないから』である。その意味で安倍総理の述べた『(行政における)憲法解釈を最終決定し、(最高裁判所が違憲判決が出た場合の)責任を負うのは内閣総理大臣』という発言は、行政機構の民主的統制の観点から見れば、最終的な責任を行政官である内閣法制局の職員ではなく政治家である内閣総理大臣が担うという意味で100%正しい。

ではなぜ内閣法制局があたかも『憲法の番人』といわれるのだろうか?

1点目は、内閣法制局が根拠法としている法制局設置法をフルに活用し、ただ法律や憲法との語句や体裁を整えるだけにとどまらず、その解釈を含めて突き返す強い力を持っている点である。このことは多くの省庁にとって他の法令との調整に追われ、政策立案や実行に大きな障害となっている。ただしこのことは内閣提出法案は厳密な法解釈が行われており、異常な法律がはじかれていることを意味しており、行政の暴走が防げるという意味では悪いことではない。2点目は、司法が違憲判決に消極的で、行政に対して有利な判決を繰り返してきたことがある。要は一度成立した法律を違憲判断することは行政の継続性にあまりに大きなダメージを与えてしまうので、司法も違憲判決を出すことに躊躇してきたことがある。

特に問題視すべきは2点目である。
特定機密保持法案でも行政が悪用するリスクが指摘されていた。しかし、あまりにひどい悪法ならば司法が違憲判断し暴走は食い止められる。またよほどの悪法でなくとも、情報公開法や公文書管理法など行政文書に関する法整備は不十分ながら進められているので、他の法律との兼ね合いの中で特定機密保持法の悪用を阻止することもできる。アメリカやイギリスではそうした判例法の蓄積が、行政機関の情報公開などを促進してきたし、日本も英米法の影響を受けているので大陸と比べると判例の重みは大きい。しかし、誰1人として裁判所の機能に期待する意見は出なかった。悪法が成立する際に司法が本来の機能を果たせるなどと誰も期待していないのである(皮肉なことに司法制度の一翼を担う日弁連でさえ)。

安倍総理の”暴言”は、奇しくも(民主主義を擁護していると主張する)リベラル派の司法に対する信頼の低さをあらわにしている。日本の民主主義が成熟していないのだとすれば、立法や行政の問題というより三権の一翼を担っているはずの司法の信頼性が乏しいことにあるのかもしれない。

(43)

2014年2月8日土曜日

書評:『誰も書かなかった「反日」地方紙の正体』

 私事になるが、私は某全国紙を購読しているので、普段「地方紙」と呼ばれる新聞を読むことはあまりない。まして、地方紙は各都道府県にそれぞれ一紙あると言ってよい。私を含めた多くの人にとって、それを全て読み比べるということはないだろう。

 そうした中で、本書を読んで地方紙の一端を知ることができた。本書の主張を要約すると次の二点に尽きる。

1.地方紙は共同通信の絶大な影響下にある
2.共同通信の影響もあり、地方紙の多くが左翼的・反日的な記事を掲載している

 地方紙の偏向ぶりというと、北海道新聞や中日新聞などが度々話題になる。確かに本書を読むと、地方紙の多くが左翼的な報道をしている印象を受ける。扶桑社版歴史教科書に反対、菅談話賛美、田母神バッシングなど、地方紙がいかに偏向しているかという例で満ちている。

ただし、本書を読んだだけでは、本当に地方紙の多くが左翼的・反日的な報道ばかりしているのかを判断することはできない。例えばある地方紙では、夫婦別姓には慎重な立場をとったり、菅談話に疑問を呈したりする一方で、終戦記念日の社説ではイラク派遣反対・改憲反対を唱える。必ずしもすべての地方紙が一貫して左翼的だというわけではなさそうだ。

私にとって驚きだったのは、共同通信の影響力のほうだった。共同通信は各地方紙にニュースを配信している。地方紙は、各々の地域のニュースを取材することには長けているが、国政をはじめとした全国ニュース・海外ニュースに関しては手薄になる。地域のニュースだけを記事にするわけにもいかないから、全国・海外ニュースは共同通信に頼らざるを得ないのだ。こうして共同通信の価値観を反映した紙面になってしまう。共同通信が配信する記事には偏った内容のものも少なくないので、そうした影響もあって、地方紙が左翼的・反日的になってしまうのだろう。

特に驚きだったのは、共同通信が社説までも提供しているという事実だ。「資料版論説」という名前だそうだが、これを地方紙が社説として使用するので、同内容の社説が各紙に掲載されることもある。社説とは文字通り各紙の主張を述べる場であるはずだ。他社から仕入れたネタをほとんどそのまま流用するとは、その社説に果たして意味があるのだろうか。いくら地方紙が全国ニュースに弱いといっても、社説すらも共同通信に依存するとは、新聞社としての独自性が問われかねない。せめて「共同通信」の署名を載せるべきだろう。

本書の中で日下公人が次のように述べている。

「要る新聞(生き残る新聞)」と「要らない新聞(消える新聞)」を分かつものは何かを指摘すれば、記事や評論を「自分で調べ、自分の頭を使って書いているか否か」であり、目先の読者の利益と一致しなくとも、国家(郷土)百年の計のために筆を揮えるかどうか、そうした損な役回りをやれるかどうかである。


まったくもって同感だ。たとえ自力で記事・社説を執筆することが難しくとも、共同通信から配信される記事や論説に偏りがないかどうか精査し、表現を改めることはできよう。それすらも怠り、他社からの記事をそのまま垂れ流すだけでは、地方紙に未来はない。

(坂木)

2014年1月12日日曜日

書評:『反日・愛国の由来 韓国人から見た北朝鮮 増補版』(呉善花)



 本書は、韓国出身の呉善花氏が、李朝及び儒教の観点から北朝鮮という国を解説するものである。北朝鮮に主眼を置いているとはいえ、韓国も含めた朝鮮民族全般についても言及されていて、非常に興味深い。北朝鮮・韓国を理解するにあたり、読んでおいて損はない本である。

 呉善花氏といえば、昨年、祖国韓国に入国を拒否されるという事件があったことを思い出す。筆者によると、「韓国を誹謗中傷することで悪名高い韓国系日本人」と韓国では言われているらしい。確かに筆者の著書には韓国を批判するものも多い。しかし、本書を読んで思ったのは、筆者は祖国韓国を相対化して見ることのできる非常に聡明な人物だということだ。したがって、彼女の韓国に対する批判的言説は、親日的心情というよりも、あくまでも自国の相対化によって生じるものなのだと思う。

 さて、先ほども述べたように、本書は北朝鮮を主として扱っているが、私にとって印象に残ったのは、むしろ韓国に関する記述であった。そこで思ったのは、やはり日韓友好は不可能であるということだ。

 例えば筆者は、韓国人の反日意識について、日本による植民地支配に根拠を求める説明を退け、次のように述べる。


 しかし戦後の韓国政府は、日本の植民地支配それ自体への批判から反日政策を遂行したのではない。植民地支配を、日本民族に固有な歴史的性格に由来する「反韓民族的犯罪」と断罪することによって、人々を「反日本民族・民族主義」へと組織したのである。つまり反日の根拠をなすものは、植民地支配それ自体なのではない。そうした事態を招いた日本人の「侵略的かつ野蛮な民族的資質」にあるというのである。


 こうした日本を侮る価値観は、李朝時代の小中華主義(朝鮮こそが中華の正統な後継者であるという自負)に由来するという。であれば、日本がいくら過去の植民地支配を謝罪しようが、日韓友好にはあまり関係がない。なぜならば、韓国ははじめから日本を下に見ているからである。友好関係とは、互いが互いを認めあい、対等な立場で構築するものだ。自分を侮っているような相手と友好関係になれるだろうか。

 しかも筆者によれば、韓国には、「先祖の怨みに子孫は怨みをもって報いる」ことを「孝」とする儒教道徳があるという。こうした思想に基づいて、事後立法により「日帝植民地支配」時の反民族行為者(=親日派)の糾弾が行われたと筆者は指摘する。

 朴槿恵大統領は「加害者と被害者という歴史的立場は千年経っても変わらない」という発言をしたが、まさに「先祖の怨みに子孫は怨みをもって報いる」という価値観の現れではないか。こうした価値観にとらわれている限り、過去のことを水に流し、未来志向の関係を築けることはない。

 ただし、だからといって、日本も韓国を嫌悪し、関係を断ち切ればよいというわけではない。日韓友好などという空虚な幻想に拘泥するのではなく、あくまでも利害を軸にした戦略的な関係を目指すべきだろう。そこで必要なのは、本書のように、相手を冷静に分析する姿勢である。

(坂木)