2014年2月23日日曜日

憲法解釈論争や特定機密保持法案にみる日本の司法の軽さ

最近記事をアップしていませんでしたが、少しずつ復帰していきます。

安倍総理の解釈改憲をめぐる発言が問題となっている。

【集団的自衛権で論戦過熱 】  強気の首相に与党困惑 野党、分断狙って攻勢(共同通信)

http://www.47news.jp/47topics/e/250383.php

「憲法分かってない」 首相解釈変更発言 与野党やまぬ批判(東京新聞)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2014021502000098.html


安倍総理は『憲法解釈を最終決定し責任を負うのは、政府の最高責任者である内閣総理大臣である。憲法解釈で問題があれば選挙に負けるという形で責任を取ることになる』(大意)と述べたことに対して、与野党が『憲法の番人である内閣法制局を無視する暴論である』と反発を強めているわけである。

内閣法制局は、新たに作成される法律が憲法や他の法律に抵触・違反しないかを審査し、文章の体裁が法令表記の慣例に沿っているかを判断する機関である。確かに内閣が提出する法律はここで憲法違反がないか評価されることになるので、『憲法の番人』などと名付けられてしまうのも理解できる。しかし、よくよく考えてみると今ある法律が合憲とみなされているのは、『内閣法制局が合憲としているから』ではなく、『違憲立法審査権を有している最高裁判所が違憲判決を出していないから』である。その意味で安倍総理の述べた『(行政における)憲法解釈を最終決定し、(最高裁判所が違憲判決が出た場合の)責任を負うのは内閣総理大臣』という発言は、行政機構の民主的統制の観点から見れば、最終的な責任を行政官である内閣法制局の職員ではなく政治家である内閣総理大臣が担うという意味で100%正しい。

ではなぜ内閣法制局があたかも『憲法の番人』といわれるのだろうか?

1点目は、内閣法制局が根拠法としている法制局設置法をフルに活用し、ただ法律や憲法との語句や体裁を整えるだけにとどまらず、その解釈を含めて突き返す強い力を持っている点である。このことは多くの省庁にとって他の法令との調整に追われ、政策立案や実行に大きな障害となっている。ただしこのことは内閣提出法案は厳密な法解釈が行われており、異常な法律がはじかれていることを意味しており、行政の暴走が防げるという意味では悪いことではない。2点目は、司法が違憲判決に消極的で、行政に対して有利な判決を繰り返してきたことがある。要は一度成立した法律を違憲判断することは行政の継続性にあまりに大きなダメージを与えてしまうので、司法も違憲判決を出すことに躊躇してきたことがある。

特に問題視すべきは2点目である。
特定機密保持法案でも行政が悪用するリスクが指摘されていた。しかし、あまりにひどい悪法ならば司法が違憲判断し暴走は食い止められる。またよほどの悪法でなくとも、情報公開法や公文書管理法など行政文書に関する法整備は不十分ながら進められているので、他の法律との兼ね合いの中で特定機密保持法の悪用を阻止することもできる。アメリカやイギリスではそうした判例法の蓄積が、行政機関の情報公開などを促進してきたし、日本も英米法の影響を受けているので大陸と比べると判例の重みは大きい。しかし、誰1人として裁判所の機能に期待する意見は出なかった。悪法が成立する際に司法が本来の機能を果たせるなどと誰も期待していないのである(皮肉なことに司法制度の一翼を担う日弁連でさえ)。

安倍総理の”暴言”は、奇しくも(民主主義を擁護していると主張する)リベラル派の司法に対する信頼の低さをあらわにしている。日本の民主主義が成熟していないのだとすれば、立法や行政の問題というより三権の一翼を担っているはずの司法の信頼性が乏しいことにあるのかもしれない。

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2014年2月8日土曜日

書評:『誰も書かなかった「反日」地方紙の正体』

 私事になるが、私は某全国紙を購読しているので、普段「地方紙」と呼ばれる新聞を読むことはあまりない。まして、地方紙は各都道府県にそれぞれ一紙あると言ってよい。私を含めた多くの人にとって、それを全て読み比べるということはないだろう。

 そうした中で、本書を読んで地方紙の一端を知ることができた。本書の主張を要約すると次の二点に尽きる。

1.地方紙は共同通信の絶大な影響下にある
2.共同通信の影響もあり、地方紙の多くが左翼的・反日的な記事を掲載している

 地方紙の偏向ぶりというと、北海道新聞や中日新聞などが度々話題になる。確かに本書を読むと、地方紙の多くが左翼的な報道をしている印象を受ける。扶桑社版歴史教科書に反対、菅談話賛美、田母神バッシングなど、地方紙がいかに偏向しているかという例で満ちている。

ただし、本書を読んだだけでは、本当に地方紙の多くが左翼的・反日的な報道ばかりしているのかを判断することはできない。例えばある地方紙では、夫婦別姓には慎重な立場をとったり、菅談話に疑問を呈したりする一方で、終戦記念日の社説ではイラク派遣反対・改憲反対を唱える。必ずしもすべての地方紙が一貫して左翼的だというわけではなさそうだ。

私にとって驚きだったのは、共同通信の影響力のほうだった。共同通信は各地方紙にニュースを配信している。地方紙は、各々の地域のニュースを取材することには長けているが、国政をはじめとした全国ニュース・海外ニュースに関しては手薄になる。地域のニュースだけを記事にするわけにもいかないから、全国・海外ニュースは共同通信に頼らざるを得ないのだ。こうして共同通信の価値観を反映した紙面になってしまう。共同通信が配信する記事には偏った内容のものも少なくないので、そうした影響もあって、地方紙が左翼的・反日的になってしまうのだろう。

特に驚きだったのは、共同通信が社説までも提供しているという事実だ。「資料版論説」という名前だそうだが、これを地方紙が社説として使用するので、同内容の社説が各紙に掲載されることもある。社説とは文字通り各紙の主張を述べる場であるはずだ。他社から仕入れたネタをほとんどそのまま流用するとは、その社説に果たして意味があるのだろうか。いくら地方紙が全国ニュースに弱いといっても、社説すらも共同通信に依存するとは、新聞社としての独自性が問われかねない。せめて「共同通信」の署名を載せるべきだろう。

本書の中で日下公人が次のように述べている。

「要る新聞(生き残る新聞)」と「要らない新聞(消える新聞)」を分かつものは何かを指摘すれば、記事や評論を「自分で調べ、自分の頭を使って書いているか否か」であり、目先の読者の利益と一致しなくとも、国家(郷土)百年の計のために筆を揮えるかどうか、そうした損な役回りをやれるかどうかである。


まったくもって同感だ。たとえ自力で記事・社説を執筆することが難しくとも、共同通信から配信される記事や論説に偏りがないかどうか精査し、表現を改めることはできよう。それすらも怠り、他社からの記事をそのまま垂れ流すだけでは、地方紙に未来はない。

(坂木)