2014年5月25日日曜日

集団的自衛権をめぐる考察2

 今回は、憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認について管見を述べたい。結論からいうと、憲法解釈変更による行使容認は、ベストではないにしても、反対はしない。では、その理由を書いていく。

 集団的自衛権の行使を憲法の解釈変更によって容認することは、立憲主義に反するという批判がよくなされる。ときの政権の意のままに解釈が変更されるのは好ましくないというわけだ。

 これに対して、まず確認しなければならないことは、憲法には集団的自衛権を禁止する直接的な文言は書かれていないということと、現在の自衛隊を中心とする安全保障体制が確立しているのは憲法の“解釈”によってであるということだ。

 憲法学においては、9条の解釈をめぐり、以下のような説が多数派である。第1項においては、侵略戦争を放棄しているのあって、自衛戦争までも放棄するものではない。しかし、第2項においては、侵略・自衛の如何を問わずあらゆる戦力の保持が禁止されているのであるから、自衛戦争を含めた戦争をすることは一切できず、自衛隊も違憲である。

 このように、憲法学の通説においては、自衛隊は違憲である。憲法制定当初、政府も、憲法は一切の軍備を禁止し、自衛権の発動としての戦争も放棄したという見解を示していた。しかし、朝鮮戦争にともない警察予備隊を発足させたことをきっかけに、“解釈”を改めることになる。そして現在まで、自衛権が否定されない以上、その行使を裏付ける自衛のための必要最小限度の実力を保持することは憲法上禁止されておらず、自衛隊は必要最小限度の「実力」であって、憲法で禁止された「戦力」には当たらないとする“解釈”をとっている。

 何が言いたいかというと、ときの政権がその時代の状況に合わせて憲法の解釈を変更してきたことで、現在の安全保障体制があるということだ。政権によるあらゆる恣意的な解釈を一切認めないとするならば、現在自衛隊が存在すること自体も許されない。いままでも解釈変更を行ってきたのに、なぜ今回解釈変更することが認められないのか。立憲主義に反するというのであれば、自衛隊は「実力」であって「戦力」ではないという詭弁じみた“解釈”など、まさに立憲主義を踏みにじるものではないのか。
 
 しかも、先述した通り、現行の憲法には集団的自衛権を禁止する直接的な文言は存在しない。集団的自衛権は保有しているが、行使できないというのは“解釈”の話である。したがって、その“解釈”を変更することに問題はないはずである。

 無論、憲法を改正し、自衛隊を軍隊として位置づけ、我が国の自衛権を明確に規定するのがベストである。そうすれは、集団的自衛権はもちろんのこと、自衛隊は「実力」であって「戦力」ではないというような詭弁を弄せずともよいのだ。しかしながら、日本の安全保障を取り巻く状況を鑑みるに、憲法改正を待つ余裕はない。だから私は、解釈変更によって行使を容認することもやむを得ないと考える。


 いま、立憲主義がどうこうと批判している人たちは、逆に、自衛隊は違憲だから解散するという憲法解釈に政府が変更した場合でも、同じような批判をするのであろうか。私には彼らが、自分たちの信条にそぐわない政府の解釈に対して、立憲主義を持ち出して批判しているようにしか思えないのである。

(坂木)

2014年5月18日日曜日

集団的自衛権をめぐる考察

 ここでは、最近議論の的となっている集団的自衛権について、私の見解を述べたい。まず、私の立ち位置をいうと、集団的自衛権の行使容認には賛成である。そして、それは原則的には憲法改正によって実現されるのがベストだと考える。よって、現在安倍政権下で行われている憲法解釈の変更による行使容認は、ベストではないにしても、反対はしないという立場である。なお、念のために申し添えておくが、ここで論じているのは、あくまでも包括的・一般的概念としての集団的自衛権であり、安倍政権が目指すそれとは必ずしも一致しないかもしれない。安倍政権下における集団的自衛権が具体的にどこまでを可能とするものなのかは、今後の協議の推移を見極める必要がある。

 では、なぜ集団的自衛権の行使容認に賛成するのかについて述べたい。国際貢献という観点からはもちろんだが、何よりも集団的自衛権の行使容認は、日本の安全保障にとってメリットが大きいからである。

 行使容認によってアメリカの戦争に巻き込まれるという批判がある。心配する気持ちもわからなくはないが、私は逆に、行使容認が、アメリカを日本の安全保障に積極的にコミットさせる圧力になると考える。

 現在、日米安保条約によって、アメリカには日本を防衛する義務があるとされる。しかし、日本にアメリカを防衛する義務はないし、集団的自衛権が行使できないとされる以上、事実上不可能である。そのような中で、果たしてアメリカがいざというときに助けてくれるのだろうか。いくらアメリカの大統領が、尖閣諸島は日米安保第5条の適用対象だと宣言したところで、実際に尖閣諸島が侵攻された場合に、米軍が動く保証はない。ただでさえ内向き志向が強くなったといわれるアメリカである。有事の際、「日本はアメリカのために戦ってくれないのに、なぜアメリカが日本を守らなければならないのか」という批判があがることは想像に難くない。少なくとも、片務的な防衛義務は、アメリカ政府にとって米軍の介入を躊躇させる口実を与えることになる。このように、片務的な防衛義務は、日本にとっても、アメリカが助けてくれないのではないかという懸念材料となっている。

 しかし、集団的自衛権を行使することが可能になり、双務的な防衛義務を負うことになればどうだろうか。そうなれば、アメリカは必ず日本を防衛しなければならない状況に追い込まれるだろう。なぜならば、双務的な防衛義務においては、「日本はアメリカのために戦ってくれないのに、なぜアメリカが日本を守らなければならないのか」という言い訳は通用しないからだ。つまり、先ほど述べた懸念は払拭されるのである。もしアメリカが、日本に危機が訪れた際に静観しているだけならば、日米同盟は完全に破局を迎える。それは即ち極東地域のパワーバランスの崩壊を意味し、中国や北朝鮮などの躍進を許すことになる。アメリカが極端な孤立主義に回帰しない限り、それはありえないだろう。したがって、行使容認は、アメリカを日本の、あるいは極東アジア地域の安全保障戦略に巻き込む強力なカードになるのである。そして、双務的な防衛義務で結ばれた、より信頼度の高い日米同盟は、取りも直さず中国や北朝鮮に対するより強固な抑止力となる。


 以上のように、集団的自衛権の行使を容認することは、日本の安全保障にとって大きな恩恵をもたらすのである。

(坂木)

2014年5月6日火曜日

書評:『嘘の人権 偽の平和』(三浦小太郎)

 筆者、三浦小太郎氏は正真正銘の人権活動家である。本書を読んでそう思った。筆者は、北朝鮮の人権問題や脱北者の支援活動などに取り組む一方で、評論活動も行っている。本書は、筆者がさまざまな雑誌に寄稿した文章を集めたものだ。

 それゆえ、ひとつひとつの章で取り上げているものは異なるが、本書を通じての一貫したメッセージは、党派性あるいはイデオギーを超えた人権の追求にあると私は思う。さきほど私が筆者のことを正真正銘の人権活動家だといったのは、そういう意味である。「人権活動家」というと、やもすれば左派的イデオロギーを込めて使われがちだが、そうした党派性を乗り越えた人権の概念、そして人権活動の必要性を筆者は説いている。

 それを端的に表しているのが、「姜尚中批判 偽善的平和主義を批判する」という章だ。筆者は、党派性にとらわれることは知識人としての自殺であると断言する。その上で、北東アジアの平和を求め、平和を余りにも大きな価値として崇拝することによって、北朝鮮の全体主義体制による人権侵害を直視しない姜氏の姿勢を「偽善的平和主義」として厳しく批判する。

 この批判はもっともだろう。党派性にとらわれた知識人、とりわけ左派知識人のなんと多いことか。戦時中のいわゆる慰安婦問題には積極的に発言し、当時慰安婦に身を落とした女性たちの人権回復を声高に叫ぶ一方で、北朝鮮や中国で現在行われている人権弾圧には口をつぐむ。あるいは、ヘイトスピーチに伴う在日外国人の人権侵害を批判する一方で、気に食わない“右翼の”政治家に対してはヘイトスピーチ以上の口汚い言葉で罵る。まさに党派性に満ちている。

 筆者は北朝鮮の人権問題に直接取り組んできたからこそ、自らのご都合主義で平和や人権を語る人間が許せないのだろう。

 しかし、筆者の批判のまなざしは、このような党派的知識人のみならず、我々日本人全体にも向けられる。

 筆者は別の章で、ハンナ・アレントの言葉を引用しながら、北朝鮮難民を座視することは、我々の社会の人権概念を崩壊させると警鐘を鳴らす。

 「また現代政治のあらゆるパラドックスも、善意の理想主義者の努力と、権利を奪われた人々自身の状態との間の懸隔以上に痛烈な皮肉に満たされたものは無い。理想主義者たちが、最も繁栄する文明国の市民しか享受していない諸権利を相も変わらず奪うべからざる人権と主張している一方では、無権利者の状態は相も変わらず悪化の一途をたどり、第二次世界大戦前には無国籍者にとってまだ例外的にしか実現されないはずだった難民収容所が、ついには難民の居住地問題のお決まりの解決策となってしまったのである」(註:アレント『全体主義の起源』)  
 ここでアレントが述べている状態は、「繁栄する文明国」を日本や韓国、「無権利者」を北朝鮮と読み替えするとき、まさに私達に「人権」概念の空しさを痛切に感じさせずにはおれない。

 北朝鮮での惨状を座視し、豊かな社会が空虚な人権議論にふけっている様は、先ほど述べた、自分たちさえ平和でありさえすればそれでよいという「偽善的平和主義」に通底するものがあるように思う。人権のかけらも与えられないような「無権利者」を置き去りにして、恵まれた人々が叫ぶ「人権」に果たしてどんな意味があるのか。アレントの、そして筆者の言葉に、私ははっとさせられた。


 考えてみると、戦後の平和主義とは、我が国だけが平和でありさえすればそれでよいとうという考えに立脚したものだった。そして、それを支持してきたのが、いわゆる進歩的知識人であり、彼らもまた、自らのイデオロギーのために平和や人権を唱えてきたに過ぎない。そのようななかで、我々の平和や人権という思想が空虚なものになったとしても不思議ではない。今一度、そうした概念の再検証が必要だろう。

(坂木)