2014年7月6日日曜日

「戦争のできる国」で何が悪い

 挑発的なタイトルをつけたが、何も突飛なことを言うつもりはない。至極真っ当なことを述べたい。

 集団的自衛権容認が閣議決定された。メディアや左派勢力は「戦争のできる国」に近づいたと相も変わらぬ批判を繰り返している。しかし、当たり前の話だが、「戦争のできる国」と「戦争をする国」は違う。戦争のできる国が直ちに戦争を始めているわけではないことは論を俟たない。同様に、集団的自衛権を容認したからといって、実際にそれがすぐに行使されることにはならないのである。

 集団的自衛権容認によって日本が「戦争のできる国」に近づくということ自体は否定しないが、だからといって、それによって自衛隊が海外の戦地へと赴き戦争をするようになるというのは飛躍が過ぎるだろう。にもかかわらず、左翼の連中は何でも彼んでもすぐに戦争に結び付けたがる。もしかすると、心の底で誰よりも戦争を渇望しているのは彼らの方ではないのか。

 以前にも述べた通り、集団的自衛権容認は、我が国の安全保障の選択肢を広げることに繋がる。「集団的自衛権が現行憲法のもとで認められるのか。そうした抽象的・観念的な議論ではない。国民の命と暮らしを守るため、現行憲法のもとで何をなすべきかという議論だ」と首相が語ったように、必要なのは、平和のためにあらゆる手段を尽くすことだ。

 それがなぜ、我が国の身動きを封じることが平和に繋がるのか。私には彼らがなぜ集団的自衛権容認に反対するのかよくわからない。立憲主義云々という批判は手法の問題であって、集団的自衛権そのものに反対する理由にはならない。また、「戦争反対」とか「平和国家としての理念」といった批判は抽象的かつ曖昧であまり説得力がない。集団的自衛権とは他国の戦争に首を突っ込む権利だという批判もまるで筋違いである。私には、彼らが感情論的に反対しているのであって、我が国の安全保障を真剣に考えているとは思えないのである。

 すぐに「戦争が起こる」と騒いでいる左翼の皆さん、その豊かな想像力を日本の外側へと向けてはいかがか。日本を取り巻く状況がいかに危ういかが容易に理解していただけるはずだ。それとも、他国に対しては「平和を愛する諸国民の公正と信義」を信じて疑わぬが、日本に対しては、武器とそれを使う環境を整えれば直ちに戦争を始める野蛮な国だという差別意識に憑りつかれているのか。

 無論、私とて戦争は御免だ。しかし、日本だけが軍事力を抑制することで世界が平和になると本気で信じるほど能天気ではない。集団的自衛権を容認することが「戦争のできる国」に近づくというのであれば、すなわち、「戦争のできる国」になることによって我が国の安全保障体制がより強固なものになるのであるならば、「戦争のできる国」で大いに結構である。

(坂木)