2014年8月11日月曜日

書評:『ナショナリズムの力: 多文化共生世界の構想』(白川 俊介)

 今年5月に行われた欧州議会選挙の結果は、日本でも大いに話題になったように思う。EUに懐疑的な勢力が躍進したことは欧州のみならず、世界に少なからぬ衝撃を与えた。自由、民主主義、平等、人権といったリベラルな理念の下、国家の枠組みを超えた存在として影響力を拡大してきたEUであったが、ここにきて大きな壁にぶつかったといっていいだろう。グローバリゼーションの中で国境の消滅が言われて久しいが、比較的同質な文化的素地をもつ欧州ですら、この有様である。国家という枠組みが解体される日はまだまだ先のようだ。
 
 このような中で、リベラル・ナショナリズムの思想は改めて注目されて然るべきだと考える。リベラル・ナショナリズムとは、自由や平等、民主主義といったリベラルな諸価値を支える基盤としてナショナルな共同体の持つ文化的文脈、連帯意識を重視する思想である。リベラル・ナショナリズムに関する詳しい解説は本書を参照していただくとして、本稿では、私的に重要と思われる点について論じたい。

■民主主義について
 
 リベラリズムにとって民主主義は重要な価値である。そしてそれは、究極的には、国民国家を越境し、あらゆる人に対話や熟議が開かれている「普遍的コミュニケーション共同体」あるいは「対話的コスモポリタニズム」を志向するものである。そこでは、さまざまな差異を有する他者が自由にコミュニケーションに参加できる。こうした構想は、一見すると非排除的であり望ましいように見える。
 
 しかしかながら、筆者はこうした「普遍的コミュニケーション共同体」に疑問を呈する。それは、コミュニケーションや熟議は一体どんな言語で行われるのかということに他ならない。これは素朴な疑問であるが、極めて本質を突いた指摘であるように思う。「普遍的コミュニケーション共同体」では何らかの共通語(主に英語)で熟議が行われるのだろうが、そもそもその共通語を話すことのできない者は「普遍的コミュニケーション共同体」から排除されるのである。

 また、筆者が言うように、理性的な熟議によって合意が成立するのは、熟議の参加者がお互いのことを理解し、信頼している場合であり、そのためには共同性が必要である。その共同性の基盤になるのが、あらゆる社会的実践や制度の背景にある伝統と慣習を含む「社会構成文化」であり、それは多くの場合、「ナショナルな文化」と重なる。そしてその「社会構成文化」は共有された言語を基盤とする。

 私の理解では、もっとわかりやすく説明すると次のようになる。熟議というのは―よほどのエリートでない限り―ふつうの人間にとっては母語以外で行うのは難しい。なぜならば、語彙的な問題ももちろんあるが、言葉の言い回しや使い方、それぞれの語のもつ微妙なニュアンスの違いなどを外国語において理解するのは多大な労力と困難が伴うからだ。そして、そうした言葉の持つ語感や意味合いを理解するということは、取りも直さずその言語を話す人々の間に共有される文化的文脈を理解することを意味するのである。

■社会正義の問題

 社会正義とその具現化たる再配分政策、それを含む社会保障制度が安定して持続的に機能するためには、ある程度まとまった大きさの社会が必要であり、その社会において制度を下支えする「社会的連帯」が必要である。そして、そうした「社会的連帯」は、事実上ナショナルなレベルにおける連帯であった。

 その一方でポスト福祉国家の時代においては、ナショナルな共同性に基づく連帯ではなく、「民主的な公共性」によって支えられる連帯―熟議民主主義による連帯―が求められるという。

 しかしながら、筆者は、ナショナリティが社会的連帯の源泉であることを強調する。前述したように、熟議が成立するためには、ナショナルな共同性を必要とする。ナショナルな共同体においては、そこに所属する人々の間に公共文化―ある人間集団がどのようにして共に生活を営んでいくかに関する一連の理解―が共有されているため、互いを文化的に同質な仲間であると認識し、生活の多様な場面で継続的に協力し合い、社会を共同でつくっていこうと考えるのである。したがって、社会正義やその具現化である再配分政策はナショナルな政治単位でこそ最もよく実現されるのである。


 以上、長々と説明してきたが、私が強調したいことは、リベラルな諸価値の実現を目指すのであれば、個々のナショナルな枠組みが、それぞれの枠内において、リベラルな価値を実践していくことが望ましいし、現実的な選択肢であるということだ。無論、ネイションという枠組みが万能だと言うつもりはないし、リベラル・ナショナリズムに対する反論も当然あるだろう(ただし、そうした反論に対する応答も本書には記述されている)。しかしながら現実には、ネイションはなくならないどころか、冒頭で述べたように、それを志向する動きさえある。そのような中で、「普遍的コミュニケーション共同体」や「対話的コスモポリタニズム」といった議論は―理論として全く無意味とは言わないが―やはり現実味を欠いているように思う。民主主義や社会福祉といったリベラルな諸制度が今も昔もネイションという枠組みによって担保されてきたという事実を看過するべきではない。

(坂木)

2014年8月1日金曜日

「妄想狂」なのは誰か

 先日、ネット上で信じがたい記事を見つけた。『AERA』から抜粋された記事らしい。少々長いが、全文を掲載する。

 万全の備えが抑止力になる。安倍首相は、こう集団的自衛権を正当化する。でも、その言葉に説得力はない。母親たちの声なき声は、直感的に「危険」を察知している
   国の方向性が見えない中で、母親たちが子どもの将来を案じるのは、自然の流れだろう。千葉県に住む理系研究職の女性(44)は閣議決定後、「子どもたちには、自分の頭で考えて選ぶ力をつけさせたい」と、より強く思うようになったと話す。
   小学4年になる娘は1歳から英語教室に通わせた。自身の就職活動や働きながらの子育てを通して、この国で女であることの生きにくさを痛感してきたからだ。ただ、憲法改正に前のめりな安倍晋三首相の「妄想狂的なところ」に怖さを感じ、第2次安倍政権が発足した後、5歳の長男にも英語教育をほどこし始めた。いざというときの海外避難に備えて外貨預金をし、家族全員のパスポートも常備している。
   閣議決定後、夫婦の会話は娘の中学受験の話から、集団的自衛権に変わった。政治に関する本を読み始め、少子化や高齢化についても考えをめぐらせる。
  「特定秘密保護法も集団的自衛権も、来るものが来たなという感じ。自分の家だけで海外に逃げていいのか。ほかのお母さんたちがどんな思いなのかを知りたい」 
   元弁護士で2歳の娘がいる黒澤いつきさん(33)は昨年1月、30歳前後の弁護士仲間とともに「明日の自由を守る若手弁護士の会」を立ち上げ、共同代表を引き受けた。会員は現在、330人ほど。活発なメンバーは女性、とくに母親たちだ。今年6月には、法律用語を日常的に使う言葉に置き換えて解説した『超訳 特定秘密保護法』(岩波書店)を出版した。 
   前回総選挙で自民党が圧勝した瞬間、頭をよぎったのは生後8カ月の娘の顔だった。会の目的は、思想やイデオロギーではなく、何が起きているのか簡単な言葉やイラストで伝え、考える材料を提供することだ。カフェやレストランで憲法について学ぶ「憲法カフェ」を催し、じわじわ人気が広がりつつある。超訳本の著者の一人でもあり、この活動を始めた弁護士の太田啓子さん(38)も2児の母。やはり子どもの存在が後押ししていると、太田さんは言う。 
  「子どもがいなかったらここまでやらなかったと思う。母親になると、子どもの年齢で考える『子ども暦』が自分の中にできて、初めて50年後の社会を想像するようになります。ママたちの行動は、こうした体感に根差しているのです」

 こんな馬鹿げた記事を臆面もなく掲載するAERA編集部の頭は大丈夫かと心配になる。それとも、政権批判のためなら恥も外聞もかなぐり捨てて憚らないのか。このような三文記事にもならないようなものに論評する価値もないが、日本人の平和ボケを極端な形で象徴する記事のように思えるので、あえて取り上げたい。

 この文脈では、「理系研究職の女性」は、集団的自衛権容認によって日本が戦争に関わる危険が増大したため、海外へ避難することを検討しているようだ。しかしながら、集団的自衛権を認めていない国がほかにあるのだろうか。彼女が具体的にどこへ避難するつもりなのかは不明だが、彼女の論理に従えば、集団的自衛権を認めている別の国へ避難したところで、戦争のリスクは変わらない。むしろ、日本国内の治安は他国よりも良いので、移住によってかえって危険な状況に陥るのではないか。

 「特定秘密保護法も集団的自衛権も、来るものが来たなという感じ」というが、いままでの日本にそうしたものがなかったということの方が異常なのだ。にもかかわわず、あたかも日本が特異な国になったかのような「妄想」に憑りつかれて慌てふためく様は、まさに平和ボケそのものである。

 そもそも、「いざというとき」というのは具体的にはどのような事態を想定しているのか。尖閣諸島付近での紛争?はたまた彼女の住む千葉県を含む首都圏への攻撃?安倍総理を「妄想狂」というが、「いざというときの海外避難に備えて外貨預金をし、家族全員のパスポートも常備している」など、起こりもしない(蓋然性の乏しい)ことに対して病的なまでに過剰に心配する連中の方がよほど「妄想狂」に思える。

  ここに登場する女性たちは、どうも自民党政権、とりわけ安倍政権に対して尋常ならざる危機感を覚えているようだが、他の政党―例えば民主党―が政権をとれば安心するのだろうか。民主党が与党の座にあったときには何も感じなかったのだろうか。もしそうだとすれば、彼女たちの直感というのは、全くあてにならない。

(坂木)