2012年9月8日土曜日

書評:『もし小泉進次郎がフリードマンの資本主義と自由を読んだら』

(あらすじ)

2013年に民主党が下野。消費税増税はかろうじて実現するが、歳出削減は停滞し、景気低迷もあって、財政再建は遅々として進まない。2015年に札落ちが発生。これに対して、国債を買い支えるため、日本政府は日銀に余った国債の全量買い上げを要請するが、これが市場に国債の信用低下のシグナルを送り、急激な国債暴落が発生。

自民党にてこの危機に対して、若手を中心にして担ぎ上げられた小泉進次郎はこの難局に対してどのように立ち向かっていくのだろうか?

(感想)

新自由主義者の有識者として有名な池田信夫氏が原作である。

基本的なストーリーの下敷きは、財政再建論者の国債暴落論に基づいている。不況を背景として、銀行は安定的な投資先として国債を積極的に買い上げている。また個人資産が国債残高を上回っているため、国内で国債のほとんどを消化できている。よって国債は非常に低率で借り入れることが可能となっている。しかしながら2010年代後半には、個人金融資産と国債残高がクロスするとされており、そうなれば外国人投資家の国債保有率が高まることは目に見えている。そうなれば国債はヘッジファンドなどからの空売りの脅威に常にさらされることになる。

一度、国債が暴落すれば、邦銀の財政基盤を大きく損ねる。というより大半の銀行が破たん処理せざるを得ない状態に追い込まれる。

池田信夫氏はこうした難局を乗り切る策として、小泉進次郎というキャラクターに自己の主張を代理させている。つまり、徹底した小さな政府と財政再建である。例えば、年金の民営化、ベーシックインカムの導入とその他の社会保障の全廃、徹底した規制緩和やバウチャー、職業免許の廃止などである。また、橋下徹氏という人物を出して、関西地方を「一国二制度」のような仕組みの下で、法人税0、改革の先行実施特区とする構想も飛び出している。個人の信条については今までのブログ記事から読み取っていただきたい。そうすれば、それぞれの政策に対して、個人的にはネガティブな感情を持つものではないことがお分かりいただけるだろう。

だが、池田信夫氏の主張にはある違和感を感じる。この小説?を読みながら、おぼろげながらその原因について理解できたように思えたので、その感想を述べたい。この小説は、日本観についてある前提を持っている。「日本人は外圧でしか変われない存在」であり、「過剰な同意性」を持つ存在だというのだ。これらは池田信夫氏が常時主張していることである。

こうした薄っぺらい日本観は、バブル崩壊後に、米国型経営スタイル、経済スタイルを賞賛した経営コンサルタント、経営者たちと非常によく似ている。何かを絶対悪とし、自らを正当化することから、より「ましな」社会は形成できない。何かを絶対悪とし、自らを正当化するために構築された日本観を持つグループは非常に多い。既得権益により小沢一郎は失脚させられたと考える小沢信者や、中韓・電通に社会が支配されていると考えるネトウヨ、脱原発でなければ人でないといわんばかりの左翼勢力・・・。ありとあらゆるグループが偏った日本観を押し付け合っている。

「正しい」日本観など存在するはずもない。1人の人間が日本のすべての事象を理解することなど困難なのだから。しかしながら、何かを絶対悪としない日本観を持つことは、今日よりましな日本を創っていくための必要条件であろう。

池田氏よ、あなたもか?今までも経済学的議論はさておいて、哲学的な部分の乏しさに失望を禁じ得なかったが、改めて、その底の浅さを感じてしまう1冊であった。

(執筆者  43)

2012年9月5日水曜日

反原発派の不都合な真実



 先日、次のような記事を見つけた。タイトルは、「原発の不都合な真実」である。第1回「原発は温暖化対策に役立たない」(http://www.47news.jp/hondana/futsugou/article/1.html)では以下のようなことが書かれている。

温暖化対策のためにも原発は必要だという意見に対して、日本では原発が推進されてきたにもかかわらず、二酸化炭素の排出量は増え続けていると反論する。一方で、「二酸化炭素の排出量に応じて課税する炭素税やエネルギー税の導入、強力な再生可能エネルギー導入支援政策、厳しい省エネの義務づけといったエネルギーの需要と供給、両面からの多彩な政策」をとっているドイツ、デンマーク、スウェーデンなどは、原発の新増設などに頼らずに、温暖化対策を進めているという。原発依存の二酸化炭素排出削減政策によって自然エネルギー拡大が阻害されてきたのだと筆者は主張する。

 なるほど、確かに原発だけが温暖化対策ではない。その他さまざまな方法にも目を向けるべきなのはいうまでもない。しかし、である。筆者は、だから原発に依存するのはやめようと主張したいのだろうが、それは論理の飛躍だろう。原発だけでなく、風力や太陽光といった自然エネルギーを含めて、多様なエネルギー資源を確保することが重要なのである。不安定な再生可能エネルギーに立脚した温暖化対策など本末転倒だ。

 そもそも、日本が原発に依存してきたために、二酸化炭素排出量削減に失敗したという論理的つながりは不明確である。少なくとも、この文章のみからでは読み取れない。「原発の新増設を進めるよりも、規制を強化して省エネを進め、風力や太陽光、バイオマス発電などの自然エネルギーを進め、原発では温排水として単に海に捨てているだけの廃熱を有効利用する方が、はるかに有効な温暖化対策になるのだ」と筆者は断言するが、一体何を根拠にそんなことを言っているのか。この主張は「日本が原発に依存してきたために二酸化炭素排出量削減に失敗した」という命題が証明されない限り、決して成立しない。

さらに、文章中のグラフからもわかるように、原発に依存しきっているフランスの二酸化炭素排出量は他の国に比べて低い。二酸化炭素排出量削減に成功したとされるドイツの約半分である。もちろん経済規模が違うから単純に比較することはできないが、フランスが原発推進政策によって獲得した温暖化対策の成果も検証されてしかるべきであろう。

 もうおわかりかと思うが、この文章は論理的に破綻している。エネルギー政策の素人である私ですら上述したような疑問点が思い浮かぶ。しかしながら、これが反原発派の実態であろう。筆者は別の回で「再生可能エネルギー100%の島」の話を取り上げているが、ここまでくるともはや失笑以外の何ものでもない。論理的思考力に欠けた夢想家。これこそが反原発派の不都合な真実に他ならない。

(坂木)

2012年8月15日水曜日

終戦記念日によせて。


 今日8月15日で、終戦から67年を迎えた。毎年この日になると、「平和への誓いを新たに」などといった表現をよく聞く。「平和への誓い」「平和への祈り」、まるで純真無垢な少女のような耳触りのいい言葉に、いささかうんざりさせられる。祈りで平和が訪れるならば、シリアで多くの死者がでることもないだろうし、そもそもあの戦争すら起こらなかっただろう。残念なことに、祈願しているだけでは平和は訪れない。平和は我々自身の手で勝ち取る必要があるのだ。

 おりしも今日、香港の活動家が尖閣諸島に上陸したことはそのことを如実に物語っている。人々が平和への誓いを捧げている間にも、我々の領土、生命、財産は脅かされて続けている。尖閣だけではない。北方領土にもロシアの大統領が上陸した。韓国大統領は竹島に上陸し、あまつさえかの国は対馬をも我が国の領土だと主張している。中国は尖閣をはじめ、南シナ海へもその触手を伸ばし、今では沖縄をも虎視眈々と狙っている。そうした意味で、終戦記念日である8月15日に外国勢力が我が国の領土に足を踏み入れたことは、まさに戦後における平和の希求というものがいかに空虚で無力であったかを象徴している。

 メディアでも相変わらず、平和への祈りと過去の戦禍ばかりを伝えている。これから平和を守るために何が必要なのかということを語ろうとはしない。平和を守るために必要なのは、軍事力とそれに裏打ちされた交渉力である。平和を訴える理想に満ちた言葉も悪くはない。しかし、その言葉が空虚な絵空事にならぬようにするためには、しっかりと現実を見据えなければならないのである。

 「一億総玉砕」というスローガンや特攻といった行為にみられるように、戦時中は精神論が日本を席巻していた。そして戦後においても、「平和への誓い」という形でその精神論は残っているように私には思われてならない。敗戦という事実からわかるように、空虚な精神論ではどうにもならない。日本人はそのことを嫌というほど思い知らされたのではなかったのか。平和への誓いという精神論の無力さに気がつくのは一体いつになるのか。我が国が他国に蹂躙されてからでは遅いのである。

(坂木)

2012年8月10日金曜日

書評:『コミュニティの政治学』


 前回の記事で、リベラル・コミュニタリアン論争について触れたが、今回はコミュニタリアニズムに関する2つの思想について取り上げることとする。『リベラル・コミュニタリアン論争』がリベラリズムとコミュニタリアンを対立軸としていたのに対して、本書『コミュニティの政治学』(Adrian Little)における対立軸は、正統派コニュニタリアニズムと急進的コミュニタリアニズムである。

 正統派コニュニタリアニズムは、エツィオーニ、サンデル、マッキンタイアなどにみられる思想である。筆者によれば、それは、コミュニティの均質性・統一性を目指し、単一の道徳を追求する考えである。それゆえ、コミュニティにいる人々の多様性は無視され、社会的排除の危険をはらんでいるとされる。

 一方の急進的コミュニタリアニズムとは、諸個人のアイデンティティがコミュニティに基礎づけられているという考えを支持した上で、コミュニティ内の多様性を重視する考えである。筆者は、この急進的コミュニタリアニズムの立場から、正統派コニュニタリアニズムを批判するわけである。

 もう少し筆者の思想を詳しくみていくことにしよう。多様性という言葉はリベラリズムにおいてもよく登場する言葉ではあるが、筆者は、リベラリズムにも批判を向けている。筆者によれば、リベラリズムが中立性や寛容を強調するのは、価値には通約不可能性があり、共通の価値としての善の構想と距離を置こうとしているからだという。問題なのは、中立性や寛容が私的領域に止まっていることである。リベラリズムは価値の多様性を認めながら、それを指導原理として用いるというよりも、私的領域で好きなことを行える自由を残しているにすぎず、価値の対立状況に目をつむっている。このようなリベラリズムの価値に従えば、寛容とは差異に耐えるという意味にしかならない。今求められているのは、価値の対立の可能性を認めつつ、諸個人が公的領域において善き生のイメージを表現することのできる状況をつくることなのである。

 そこで必要になってくるのは、公的領域で表明される他者の善の構想と真摯に向かい合い、それを受け入れる、“尊敬”の概念と、全ての人が善き生を営む公平な機会を提供する条件を保証することで、差異を活かす道を探るという国家の果たすべき役割である。

 さらに筆者は、コミュニティの徳性や諸原理が、資本主義社会の求める経済合理性や道具的理性によって歪められている点を指摘する。筆者によれば、コミュニティとは、友情、協同、ケア、ボランタリズムといった徳性や原理が存在する空間である。それは、経済的成功を共通の目的として連帯するアソシエイションとは異なり、利他的で互恵的な性質を持つものである。したがって、コミュニティの徳性が十分に発揮されるためには、道具主義や経済的理論、市場理論に対抗していく必要があるのである。

 私の印象として、急進的コミュニタリアニズムは、その名とは裏腹に、比較的常識的かつ穏健な理論であるように思う。確かに現代社会においては、多様な価値観というのは当たり前であるし、それを尊重しなければならない。しかし、そうした多様性から政治(=公的領域)は中立的に振る舞わなければならないというリベラリズムには違和感を覚えるし、不可能であろう。それゆえ、そうした差異を積極的に公的領域に汲み上げようとする急進的コミュニタリアニズムは魅力的である。

 また、市場競争経済が、コミュニティのもつ道徳的価値を多かれ少なかれ毀損してきたというのは紛れもない事実だろう。したがって、経済的価値の侵攻をくい止める必要があるという筆者の主張にも同意できる。

 しかしながら、急進的コミュニタリアニズムに諸手を挙げて賛成というわけでは、もちろんない。思うに、筆者は、多様性というものを過度に重視する嫌いがある。なるほど、確かにコミュニティには多様な人間がいる。人それぞれ、様々な価値観があるだろう。しかし、そのような多様な人間から成り立つ空間をコミュニティと呼んでよいのだろうか。おそらくこれはコミュニティ観の相違なのだろうが、コミュニティとは多様な人々が何らかの共通の善を追求する空間であると私は考える。そこでは人々の多様な価値観が尊重されるのだけれども、共通の善なり道徳なりといったものがなくてはならない。善の追求過程において、様々な善の構想が表明され、討議を通じて収斂していく。もちろん必ずしもうまく合意に達するというわけではないだろうが、筆者のいうように多様な善の構想に“尊敬”の念を抱きつつも、最終的には集約されなければならない。共通の善が欠けたコミュニティというのは、雑多な人間の寄せ集めに過ぎないと私は思う。だから、正統派コニュニタリアニズムに対する筆者の批判が必ずしも的を射ているとも思わない。

 また、コミュニティ内の多様性に執心するあまり、コミュニティそのものの多様性に目が向いていないように思われる。価値観の多様化にともない、コミュニティ自体も多様化している。さらに最早、昔のようにひとつのコミュニティに生涯縛られ続けるということも少なくなった。移動の自由とともに、人々にはある程度のコミュニティの選択の自由が与えられたといってよい。であるがゆえに、自身の価値観と異なるコミュニティに無理をして居続ける必要もない。最後の手段として、コミュニティから脱退するという選択肢もありうるのである。無論、だからといってコミュニティに多様性はいらないなどという暴論を掲げるつもりはないが、少なくとも多様性に過度こだわる必要はあまりないのではなかろうか。コミュニティ内の多様性という議論は、我々が一生同一のコミュニティに属することを無意識のうちに前提としているのかもしれない。

 最後に、市場経済によるコミュニティの諸原理の毀損をくい止める方法のひとつとして筆者がベーシックインカムを提唱していることについて、私の考えを述べたい。筆者は、人々が有給労働に多くの時間を割かれ、コミュニティを支える無給労働(ボランティアなど)に従事する機会が損なわれていると主張する。そして、その対策として、政府がすべての国民に対して最低限の生活を送るのに必要とされている額の現金を無条件で定期的に支給するというベーシックインカム制度の導入を提唱している。コミュニティのための活動機会を増やしたり、コミュニティの隅に追いやられた人々の復帰を促したりという意味で、社会保障政策は不可欠であることは認めるにしても、ベーシックインカム制度はあまり現実的とはいえない(政府に潤沢な財源があるなら話は別だが)。まずは、ワークライフバランスの確立といったように、人々がコミュニティのための活動に従事できる余裕を少しずつ増やしていくのが現実的ではなかろうか。

 以上のような反論もあるものの、全体として本書は、自身のコミュニタリアニズム理解に新たな視座を提供してくれ、非常に有益であった。

(坂木)

2012年7月29日日曜日

リベラルな政治は可能か―『リベラル・コミュニタリアン論争』を読んで


 先日、『リベラル・コミュニタリアン論争』(Stephan Munhall, Adam Swift)という書籍をよんだ。この本は、文字通りリベラル・コミュニタリアン論争、すなわちロールズを筆頭とするリベラリズムと、サンデルらコミュニタリアニズムとの間で起こった論争を取り上げている。リベラリズムとは、個々人で異なった善の観念の多様性を是認し、彼らの自由と平等を擁護し、価値中立的な政治を目指す思想である。こうしたリベラリズムの思想に対するコミュニタリアンの批判を紹介するとともに、その妥当性を検討している。

 本書では、リベラリズムの中立性について特に重点を置いて検討されている。そこで思ったことは、リベラリズムの目指す、価値中立的な政治は可能なのかということだ。本書によると、ロールズの正義論は二層構造を持っている。ひとつは非政治的な領域であり専ら私的な領域である。そしてもうひとつは政治の領域である。コミュニタリアンはロールズの思想―とりわけ無知のベールという概念―を、共同体が人々の人格に与える影響を無視していると批判したが、実はロールズも共同体が個々人のアイデンティティや善の構想に影響を与えることを認めている。これは私にとっても、当のコミュニタリアンたちにとっても驚くべきことだ。しかしながら、問題なのは、それは私的な領域においてのみ当てはまることである。政治の領域においてはそうした影響を排し、「自由かつ平等で、他の人びとと一緒に社会的協働の公正なシステムに参加する人格」として振る舞わなければならない。そして政府(国家)も、多様な善の構想のどれにも肩入れすることなく、その多元性の保持に努めなければならない。したがってロールズにとって、政治において共同体の諸価値を追求することは誤りなのである。

 こうしたことは妥当なのだろうか。筆者の指摘するように、政治的なものの領域と非政治的なものの領域を分離することは、政治についてそのようなビジョンを持っていない価値観を持つ人、すなわち政治的な領域と非政治的な領域を横断する形の(=包括的な)価値観を持つ人に、統合失調的な態度を要求するであろう。そしてこのような分離を要求する主張それ自体が、包括的な主張を持つ人に対して中立性を損なっている。
 
 また私が思うに、そもそも価値中立的な政治などあり得るのだろうか。ロールズの主張は、政治というものが価値をめぐる闘争であるという事実を省みていないように思われる。アメリカにおける、妊娠中絶や同性婚、銃規制といった問題は全て価値観の対立である。多様な価値観を調整する場所こそが政治であり、したがって、そうした価値観から中立であろうとする姿勢は、政治の役割の放棄に等しいのではなかろうか。例えば、我が国における憲法9条の問題を考えよう。改憲派と護憲派という異なる価値観を持つ人たちがいる。政府はそうした価値観から中立的に振る舞うとするならば、それは国防という国家の最も重要な役割を放棄したことになりはしまいか。

 もちろん、政府が多様な価値観に配慮することは必要である。政府が特定の価値観だけを排除することはあってはならない。しかし、だからといって全く以て価値中立的に振る舞わなければならないということにはならないのである。政府が何らかの政策を決定する以上、そこには何らかの価値観が含まれているし、それを否定することは政治の否定であろう。したがって、政治に必要なのはあらゆる価値から中立であることではなく、多様な価値に配慮しつつも最終的にはひとつの価値を採用することなのである。そして、その選択の鍵になるのは、やはり共同体とそれが持つ諸価値であると思う。

(坂木)

2012年7月28日土曜日

事を成すことの難しさについて


  京都の片田舎にそれなりに大きな役目を引き受けた男がいた。彼ははじめの仕事でものすごい失敗を犯した。原因は段取り不足。事を成すにあたって、明確な到達点の設定とどのような手順でそれを行えばいいのかというシミュレーションを怠っていたのである。

  人が事を成すとき、そこには必ず「行動意図(何をするのか)」と「実行意図(どのようにするのか)」が存在する。通常、行動意図→実行意図という順で思考は展開される。つまり、行動意図がそれなりに大きくても、実行意図がないと人はなかなか実行に移さないのである。
  今回の場合、行動意図も明確でないばかりか、実行意図に至っては全くなかったと言っていい。これでは思うように事をなせないのは当たり前である。しかし、彼はその後この理論を知り、自分の失敗を定式化した。

  次の仕事がやってきた。彼は、前と同じ轍を踏まないように、先の理論にしたがってまず行動意図を明確にし、実行意図をそこから導き出した。これで万事うまくいく、彼はそう思っていたが結果は大惨敗。確かに前の失敗に比べれば少しはマシになったかもしれないが、まだまだ成功には程遠い。

  今回は何が足りなかったのだろうか。人を動かすことが出来ていなかったのである。どれだけ行動プラン(先の行動意図と実行意図のセット)が明確であっても、それを自分一人でやってしまおうとしたために、人をうまく使えなかったのである。

  「構造的方略」という言葉がある。法的な規制や利益分配の仕組みなど、社会的な構造を変革することにより社会問題を解決に導く方法のことである。要するにシステム(アメとムチ)を導入して人を動員するのである。

  次は大きな仕事だった。今までの仕事の大きさとは訳が違った。当然人の使い方が物凄く重要になる。そこで彼はこの構造的方略を取り入れ、積極的にシステムを導入することで極めて効率的に仕事をやってのけた。行動プランも完璧、構造的方略の巧みな利用。今までとは見違えるような仕事の捗り方。事実、ここまで効率的にこの仕事をやり遂げた時代はなかったという。

  それでもだ、まだ何かが足りないのだ。なかなか言葉では表しにくいようなもの。心意気や気概、充実感、、、どれもしっくりこないがそれらが合わさったようなもの。そして、そういうことが実は一番大切なのである。

  一般的に構造的方略は信頼や責任感、道徳心や良心といったものを低減させてしまうという。システムの導入は、システムに適応するという人間の本来的特性(本能的なもの)が強化されてしまい、信頼や良心などの人間的な特性が翳ってしまうというのである。
  確かにそうだった。彼が行なった構造的方略はなるほど人を極めて合理的に動かしはしたが、結果として何か大切なものが欠けてしまったのである。

  彼は少しずつ考えを変えていった。彼はメンバーに対して積極的に仕事を与えた。今までならばリーダーがやっていた仕事も、メンバーに任せたのである。メンバーの事を考えれば、今後中心になってやっていくのは彼らである。その彼らに仕事を任せることで、その技術がしっかりと継承される。少しハードルは高いかもしれないが、その分試行錯誤して学ぶことは多い。真に他者のことを考えればこその方法。何でも自分で全て仕事をやってしまうというリーダーは、結局は自分のことしか見えていない場合が多い。子育てでも同様である。子供を甘やかせて身の回りの事を全てしてしまうことがその子の為にならない。自立した人間を育てるためには、自分のことは自分でするようにしつけるべきであろう。そして、優秀な人間(と自分で思っている人間)ほどその傾向は強いように感じられる。


  少しずつではあるが、皆の自発性、そして内発性(違いは何か?)が高まってきたように思う。大切なものを吹き込むために他に何が必要であろうか。彼は今も、これまでと同様、試行錯誤を重ねている。

2012年7月21日土曜日

ファッショ化する反原発派


 近頃、反原発派がファッショ化〈全体主義化〉してきているように思う。そう思わせる事例がいくつかあった。
 
 まずは、先日行われた反原発デモに際して、作家の落合恵子が「今日ここに来ているのが、国民であり市民」と発言したそうだ。すなわち、デモに参加していない人間は国民や市民たりえないということだ。

 また、精神科医の香山リカは原発推進派を病気と診断した。「原発維持や推進をしようとする人は、私、精神科医として見れば心のビョーキに罹ってるヒトたち」「残念ながらもうカンタンには治りそうにない」「その人達の目を覚ます方法はただひとつ、私達が声をあげ続けること」と述べたそうだ。

 そして最後が、エネルギー政策に関する意見聴取会から電力会社関係者が排除されたことである。電力会社の社員と名乗った人物が聴取会で原発推進の意見を表明したことに対し、これはヤラセだという非難があがった。これを受けて、電力会社の社員は発言できないこととなった。

 これらの事例に共通しているのは、自身と異なる意見は、非国民だの、病気だの、ヤラセなどといってことごとく排除する姿勢である。これはまさにファシズムの思想である。

 自身の主張と異なる者に非国民というレッテルを貼ることはいうまでもなかろう。ファシズムというものは、多様な意見を認めない。

また、意見聴取会におけるヤラセ騒動は、ファシズムの陰謀論を彷彿とさせる。ファシズムにおいて、ユダヤ人は「ドイツ的でないもの」の全ての創造者であり、第一次世界大戦の張本人で大戦後のドイツの混乱を生み出した黒幕、つまりドイツの徹底的破壊を狙う大扇動者であるとされた。また、1933年の国会議事堂放火事件では、ナチスはこの犯行を共産主義者の陰謀であるとし、弾圧した。反原発派の間でも、「原子力ムラ」なる巨大な力を持った勢力がおり、彼らが国民の安全を犠牲に利権を貪っているという陰謀論のような考えがあるように見受けられる。今回の騒動でも、電力会社の社員は「原子力ムラ」によって送り込まれたスパイであり、抽選ではなく恣意的に選ばれたのだということだろう。


最後に、特に私が恐ろしいと思うのは、香山の発言に含まれる、ある種の優生学的思想である。ナチス統治下のドイツでは、弱者、民族の裏切り者、同性愛者や少年犯罪者、常習犯罪者、遺伝病者、精神病者などは「人格全体」もしくは肉体の「変質」を起こした種的変質者であるとされた。そして、こうした「劣等ドイツ人」は淘汰の対象とされた。香山の発言には、自分の意見に沿わない人間を病人とみなし、淘汰(まではいかないにしても更生)の対象とみる意図を感じさせる。ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』にも通じる、危険な思想である。

このように、最近の反原発派は、ファシズムに対する親和性を顕著に持つようになった。しかし、これは必然の帰結である。なぜならば、反原発を支持している多くの人間が、いわゆる左翼であり、ファシズムもまた左翼思想であるからだ。ファシズムが左翼のイデオロギーであるというのは以前にも指摘したかと思う。異なる意見を徹底的に弾圧するその手法は、フランス革命以来続く左翼の常套手段なのだ。ちなみに、ナチスの正式名称は国家社会主義ドイツ労働者党であり、その名称からもファシズムがいかに左翼と親和性があったかを示している。

では、なぜ反原発運動は、ここまで過激化したのか。それは、結局のところ、彼らの再稼働反対・即時廃炉というような主張が、他の多くの国民に支持されなくなってきたからであろう。折しも、落合が「今日ここに来ているのが、国民であり市民」と発言したことは、まさにマイノリティーである自分たち自身を正当化(正統化)するための詭弁に他ならない。香山の発言にせよ、意見聴取会の騒動にせよ、異なる意見に病気だの陰謀だのというレッテルを貼り、自身の正当性を主張するための悪あがきに過ぎない。ファッショ化する反原発派というのは、彼らの主張が多くの人々の支持を得られにくくなった、その焦燥感の裏返しなのである。

(坂木)