2014年10月25日土曜日

書評:中島岳志『「リベラル保守」宣言』

 本書は、保守思想の解説を交えながら、原発問題や橋下・維新の会など、具体的なテーマについて筆者の意見を述べている。全体としては彼の意見には概ね賛同できるのだが、ここでは私が違和感を覚えた点について論じたい。

 ①改革をめぐる姿勢

 第1章「保守のエッセンス」では、文字通り保守主義思想を構成する要素について解説を行っている。この解説は、平易な言葉でわかりやすく書かれているし、従前の保守主義思想研究と照らし合わせてみても妥当であるように思う。

 ここで気になったのは、彼の”保守原理主義”的ともとれる態度である。それは、改革に対する姿勢にみることができる。筆者は、「『保守するための改革』は、常に歴史感覚に基づいた漸進的存在でしかあり得ません」と述べる。確かに保守主義は、漸進的改革を志向する。しかし、漸進的改革しか認めないという姿勢はどうだろうか。筆者は別の紙面でも次のように述べている。

 保守するための改革、永遠の微調整というのを積極的に受け入れるのが、保守の考え方です。

 ところが安倍政権は世論の反対を押し切り成立させた特定秘密保護法の決定過程からも明らかなように、大きな変革を上から断行しようとする。自分と立場の違う人たちの言葉に耳を傾けるのではなく、自分にとって都合のいい人たちの言うことだけを聞いて、独断的に物事を進めていく。

(中略)

結論は一歩一歩で地味ですが、漸進的前進こそが保守思想の根本。だから僕は、永遠の微調整しか信じません。

(神奈川新聞)

 繰り返すが、保守主義は漸進的改革を目指すべきである。そのことに異存はない。しかしながら、同時に、漸進的改革しか認めないという、いわば保守原理主義的な姿勢も、「極端なもの」を嫌う保守主義の思想からかけ離れたものである。しかも、政治というものはそう単純なものではない。いくら対話をしても同意を得ることができないときには、結局「上から断行」することになる。さまざまな要因により、漸進的改革がままならないこともある。複雑な政治の営みの中で、漸進的改革しか認めないというのは、あまりに偏狭すぎやしないだろうか。

 ②原発の問題

 次に気になったのは、原発の問題である。筆者は第2章で、次のような理由から、脱原発を漸進させていくべきだと主張する。

 原発事故は広大な国土を台無しにし、そこで歴史的に積み重ねてきた先祖の英智を根源的に破壊します。長年の間、有名無名の日本人によって継承されてきた伝統や慣習が、一瞬にして消滅の危機にさらされます。保守派であれば、そのような事態を全力で阻止し、命を懸けてでも死守しようとするはずです。

 この意見を完全に否定するつもりはない。しかしながら、ここにも保守原理主義的な、過度の理想主義を感じずにはいられない。確かに保守主義思想から上記のような主張が出てきても不思議ではないが、保守主義者であるならば、原発が日本に導入された歴史にも目を向けるべきではないのか。また、現在でも原発停止によって電気料金が高騰しており、産業や国民生活にも影響を与えている。そうしたことを考慮せずに、ただ保守の信念から脱原発を主張するのは、同じく理想のみで現実を顧みない左派の手口と変わらない。

 「靖国に参拝すれば保守」とか「憲法改正に賛成なら保守」など、安易なレッテル張りが横行する中で、保守主義の思想的な定義付け、あるいはそのエッセンスの抽出が重要なことは間違いない。しかしそれが行き過ぎると、今度はその定義を基に、硬直したレッテル張りが跋扈するようになるのではないかと私は危惧する。保守主義(者)はこうでなければならないという原理主義的態度こそ、保守主義が最も忌み嫌うものであることを我々は肝に銘じなければならない。

(坂木)