2013年2月15日金曜日

『桐島』に感じる気持ち悪さについて



朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』(以下、『桐島』)を今頃になって読んだ。気持ち悪い、それが率直な感想だった。読み進めるのが苦痛になるくらいで、そんな気分にさせる作品は、私にとってはこれがはじめてである。

 この気持ち悪さはどこからくるのだろうか。

 原因は、この作品の生々しさにあるのだろう。主人公が仲間たちと何かを成し遂げるという、ありがちな青春小説ではない。どこにでもいそうな平凡な高校生の日常を淡々と描写するのだ(「宮部実果」はやや特殊なストーリーではあるが)。

 そういうと、そんな自然主義文学みたいな作品はごまんとあるではないかと思うかもしれない。だが、この作品が持つリアリティーは、高校生たちの日常の描写という点に留まらない。

 『桐島』の持つリアリティーとは、何か。それを端的に語っているのが、次の文章だろう。


 高校って、生徒がランク付けされる。なぜか、それは全員の意見が一致する。英語とか国語ではわけわかんない答えを連発するヤツでも、ランク付けだけは間違わない。大きくわけると目立つ人と目立たない人。運動部と文化部。
 上か下か。
 目立つ人は目立つ人と仲良くなり、目立たない人は目立たない人と仲良くなる。目立つ人は同じ制服でもかっこよく着られるし、髪の毛だって凝ってていいし、染めていいし、大きな声で話していいし笑っていいし行事でも騒いでいい。目立たない人は全部だめだ。
 この判断だけは誰も間違わない。どれだけテストで間違いを連発するような馬鹿でも、この選択は誤らない。(文庫版pp.89-90


 こうした学校という共同体の持つ秩序―上下関係といってもいい―をこの作品では嫌というほど見せつけられる。誰もが多かれ少なかれ感じる、暗黙のルールのようなものを暴きだしてしまったわけだ。

 そう、問題なのは、この「ランク付け」なのである。「かっこいい」とか「かわいい」とか、スポーツができるとか、彼氏・彼女がいるとか、こうした類の人間を優位に置く秩序。そして、こうした価値観に異を唱える者を「非リア充」(の僻み)などといって蔑み、批判を許さない暴力性。

 この上下関係に気持ち悪さを感じてしまう。いや、上下関係そのものに対してもそうだが、何よりも、そうした価値観を信じている人間に対して気持ち悪いと私は思うのだ。自分のことを「上」だと思っていようが、「下」だと思っていようが、それはあの「ランク」の中に自らを位置づける行為であり、既にその価値観を前提としているのである。『桐島』の登場人物たちは―違和感を抱くこともあるものの―基本的にこうした価値観の中に身を置いている。

無論、個人的な信条として「かっこよくなりたい」とか「かわいくありたい」とかいう価値観を持っているのであれば、それはそれでいいと思う。問題なのは、そうした価値観を金科玉条とし、それを基に人間を階層化することなのだ。単一の尺度に縛られる必要はない。各々が自らの信じるところに基づいて思い思い行動すればよい。だから、作中において「前田涼也」が映画づくりに夢中になることは決してダサくない。

学校という共同体における上下関係をえぐり出したという意味において、『桐島』は注目に値する。しかし、私のような人間にとっては、それに終始してしまったのが残念でならない。「上」と「下」というヒエラルキーを超越する、あるいは無効化する、そうした想像力を描いてほしかった。

(坂木)

2013年2月12日火曜日

沈黙と“素人感覚”の狭間で



 今回は、無知ゆえの沈黙と“素人感覚”について考えたい。

43氏の記事にもあったが、実践しない人間にその分野を語らせてはならないとする考えは、橋下氏の発言に見られるように、一定の支持を集めているように思う。しかし、その一方で、その分野に身を投じた経験がないからこそわかることもあるという考えもある。後に述べるように、実はこの考えの方が市井では支持されているように思われる。

 自分が知らないことに対していかなる態度をとるのか。これは現代社会において結構重要なことではなかろうか。そこで、無知ゆえの沈黙と“素人感覚”というふたつの態度を検討したい。

 無知ゆえの沈黙というのは、文字通り「私はそのことについては知らないので、意見を述べるようなことはしません」という態度である。さまざまなことが細分化され、高度に専門化された現代においては、ひとりの人間が知ることなど、ほんの一握りに過ぎない。自分の専門分野については語ることができるが、それ以外になるとわからない。だから自分の知らないことにかんしては極力語らないようにする。沈黙は金という格言があるが、時として沈黙した方がよい場合もある。

 その対極にあるのが、いわゆる“素人感覚”という言葉だろう。そのことに通じていないからこそ、わかるものがある。だから素人でも積極的に発言するべきだ。

 現代においては、この“素人感覚”が優勢のようだ。司法の場に市民感覚をということで裁判員制度が導入された。テレビのニュ-ス番組などでタレントが一般人の声を代弁して政治や事件などについてコメントする。そして何より、インターネットの普及により、誰もがこの“素人感覚”を持ち合わせた発言者たりうる。かくいう当ブログも、“素人感覚”の産物に過ぎないといってよい。

 以上を踏まえた上で、我々はいかなる態度をとるべきなのだろうか。

 無知ゆえの沈黙というのは、一見すると非常に謙虚な態度である。知りもしないことに対してでしゃばって意見することはしない。自らの限界を見極め、分相応の振る舞いをする。その一方で、この態度は、ある意味で楽である。なぜならば、自分の知らないことに対しては何も言う必要がないからである。自身の知らないことに対して積極的に関わろうとする意志が欠落しているのだ。無知ゆえの沈黙は結果的には物事に対する関心を希薄化してしまう危険性がある。

 一方で、 “素人感覚”は、無知ゆえの沈黙と比較して積極的な態度である。そこには、物事に精通していないにもかかわらず、いや、詳しくないからこそ見えるものがあるという信念がある。しかし同時にこの態度は、どこまでいっても“素人”から脱却することはないだろう。なぜならば“素人感覚”は、多かれ少なかれ素人である自分を特権化することになるからだ。それゆえ、物事を深く探求しようとする意欲も沸いてこない。“素人”であることに満足してしまう。“素人感覚”は、そうした知的怠慢を招くおそれがある。

 結局のところ、無知ゆえに沈黙することも、“素人感覚”に頼って雄弁になることも、不十分であるように思う。ありふれた結論かもしれないが、自身の無知を自覚し謙虚になりつつも、素人なりに試行錯誤や探求を重ね、自らの思考を開示していくのが最善のようである。

(坂木)

2013年2月3日日曜日

内田樹氏に見る「橋下的な何か」

最近、ほぼ読書をする機会もないので記事をアップするほど蓄えがない状態が続いている。最近は何人かの著名なブロガーをつまみ食いするくらいしか社会科学的な何かを考える機会がないわけだが、ほぼブログに記事を投稿していなかったので軽い記事を1つアップしてみる。

内田樹氏が投稿した以下の記事についてである。
http://blog.tatsuru.com/2013/01/29_0925.php

内田樹氏は反橋下氏の代表的論客の一人と数えて差し支えない人物だ。思想の基本線はおおむねリベラルだが、やや保守的に分類される点もある。

この記事ではいわゆる保守論壇による日教組批判や財界による教育批判に対する簡単な考察と反論がなされている。

前半部分を要約すると、自らが日教組に属し、どのような組合活動をしてきたかを振り返りながら、保守論壇によくみられる「日教組が日本の教育をダメにした諸悪の根源論」に対して、日教組のみに責任を押し付けるのはナンセンスであるとの論旨を展開している。日教組の影響力が過大評価されているとの主張自体はリベラル系の論者によくみられる主張だし、さほど新しいものではない。まあ「諸悪の根源仮説」は複雑な知的操作の苦手な人が好むとまで言い切るあたりは保守論壇にケンカを売っている印象は否めないが。(※1)

問題は後半部分にある。内田氏は様々な利害関係者が主張しあった結果、不幸な日本の教育が生まれたと考える。なので、様々な論客の主張する「教育論」を混乱をエスカレートさせるだけだと主張する。なので、オレの意見を全面的に取り入れろといったたぐいの「極論」といえる安倍氏の愛国心教育や石原氏の体罰肯定論、財界の「グローバル人材育成」、メディアの教育論といったものに対して、実証責任を求める。要は「大して金はかからないのだから私塾の形で実践して、教育論の正しさを実証せよ、実証できなければ黙れ」と主張するわけである。

どこまで本心で私塾を開けと言っているかはわからないが、後半部分の主張どこかで見たことはないだろうか?

私は橋下氏の「バカ学者」的な発想とすごくよく似ていると思うのだ。

実践しない人間にその分野を語らせてはならないとする考え方は非常に受けはいい。またここまで高度化した社会において、専門家集団に対する過度な批判、手前勝手な主張はかえって合理的な結論を妨害する場合もあるだろう。橋下氏がよく「バカ学者」という批判をレトリックとして用いるのはそうすることで相手を「実践のわからない、できない頭でっかち」という主観的イメージを植え付けることが可能だからである。

自省を込めて言えば、人はどうしても自分の専門分野や実践している分野に外野から口を出されると「何もわかっていないやつが!!」という感情を持ちがちである。内田氏も自らの日教組での組合活動を振り返って、保守論壇の『無責任』な日教組批判に怒りを禁じえなかったのかもしれない。

別にこの件は内田樹氏に限った話ではない。橋下的なものは私も含めて社会を構成する人間のほぼ誰もが持ち合わせている。要はどこまでそれを自覚し、自制できるかだろう。

(※1)私からしてみれば、ゆとり教育は日教組の「教育労働者の権利を守れ」という主張に、寺脇研のフィンランド式教育というカモフラージュを施した失敗作だと思うし、同和教育をはじめとして一部の教職員がノイジーマイノリティーとして教育現場で高い発言力を持っている現実を学生時代に体験しているので、日教組諸悪の根源説の保守論壇に同調しないまでも、主犯説くらいは勧めたいものではあるが。もちろん文科省も自民党も保護者もそれ相応の責任はある。

(執筆者 43)