2013年2月3日日曜日

内田樹氏に見る「橋下的な何か」

最近、ほぼ読書をする機会もないので記事をアップするほど蓄えがない状態が続いている。最近は何人かの著名なブロガーをつまみ食いするくらいしか社会科学的な何かを考える機会がないわけだが、ほぼブログに記事を投稿していなかったので軽い記事を1つアップしてみる。

内田樹氏が投稿した以下の記事についてである。
http://blog.tatsuru.com/2013/01/29_0925.php

内田樹氏は反橋下氏の代表的論客の一人と数えて差し支えない人物だ。思想の基本線はおおむねリベラルだが、やや保守的に分類される点もある。

この記事ではいわゆる保守論壇による日教組批判や財界による教育批判に対する簡単な考察と反論がなされている。

前半部分を要約すると、自らが日教組に属し、どのような組合活動をしてきたかを振り返りながら、保守論壇によくみられる「日教組が日本の教育をダメにした諸悪の根源論」に対して、日教組のみに責任を押し付けるのはナンセンスであるとの論旨を展開している。日教組の影響力が過大評価されているとの主張自体はリベラル系の論者によくみられる主張だし、さほど新しいものではない。まあ「諸悪の根源仮説」は複雑な知的操作の苦手な人が好むとまで言い切るあたりは保守論壇にケンカを売っている印象は否めないが。(※1)

問題は後半部分にある。内田氏は様々な利害関係者が主張しあった結果、不幸な日本の教育が生まれたと考える。なので、様々な論客の主張する「教育論」を混乱をエスカレートさせるだけだと主張する。なので、オレの意見を全面的に取り入れろといったたぐいの「極論」といえる安倍氏の愛国心教育や石原氏の体罰肯定論、財界の「グローバル人材育成」、メディアの教育論といったものに対して、実証責任を求める。要は「大して金はかからないのだから私塾の形で実践して、教育論の正しさを実証せよ、実証できなければ黙れ」と主張するわけである。

どこまで本心で私塾を開けと言っているかはわからないが、後半部分の主張どこかで見たことはないだろうか?

私は橋下氏の「バカ学者」的な発想とすごくよく似ていると思うのだ。

実践しない人間にその分野を語らせてはならないとする考え方は非常に受けはいい。またここまで高度化した社会において、専門家集団に対する過度な批判、手前勝手な主張はかえって合理的な結論を妨害する場合もあるだろう。橋下氏がよく「バカ学者」という批判をレトリックとして用いるのはそうすることで相手を「実践のわからない、できない頭でっかち」という主観的イメージを植え付けることが可能だからである。

自省を込めて言えば、人はどうしても自分の専門分野や実践している分野に外野から口を出されると「何もわかっていないやつが!!」という感情を持ちがちである。内田氏も自らの日教組での組合活動を振り返って、保守論壇の『無責任』な日教組批判に怒りを禁じえなかったのかもしれない。

別にこの件は内田樹氏に限った話ではない。橋下的なものは私も含めて社会を構成する人間のほぼ誰もが持ち合わせている。要はどこまでそれを自覚し、自制できるかだろう。

(※1)私からしてみれば、ゆとり教育は日教組の「教育労働者の権利を守れ」という主張に、寺脇研のフィンランド式教育というカモフラージュを施した失敗作だと思うし、同和教育をはじめとして一部の教職員がノイジーマイノリティーとして教育現場で高い発言力を持っている現実を学生時代に体験しているので、日教組諸悪の根源説の保守論壇に同調しないまでも、主犯説くらいは勧めたいものではあるが。もちろん文科省も自民党も保護者もそれ相応の責任はある。

(執筆者 43)