2013年2月12日火曜日

沈黙と“素人感覚”の狭間で



 今回は、無知ゆえの沈黙と“素人感覚”について考えたい。

43氏の記事にもあったが、実践しない人間にその分野を語らせてはならないとする考えは、橋下氏の発言に見られるように、一定の支持を集めているように思う。しかし、その一方で、その分野に身を投じた経験がないからこそわかることもあるという考えもある。後に述べるように、実はこの考えの方が市井では支持されているように思われる。

 自分が知らないことに対していかなる態度をとるのか。これは現代社会において結構重要なことではなかろうか。そこで、無知ゆえの沈黙と“素人感覚”というふたつの態度を検討したい。

 無知ゆえの沈黙というのは、文字通り「私はそのことについては知らないので、意見を述べるようなことはしません」という態度である。さまざまなことが細分化され、高度に専門化された現代においては、ひとりの人間が知ることなど、ほんの一握りに過ぎない。自分の専門分野については語ることができるが、それ以外になるとわからない。だから自分の知らないことにかんしては極力語らないようにする。沈黙は金という格言があるが、時として沈黙した方がよい場合もある。

 その対極にあるのが、いわゆる“素人感覚”という言葉だろう。そのことに通じていないからこそ、わかるものがある。だから素人でも積極的に発言するべきだ。

 現代においては、この“素人感覚”が優勢のようだ。司法の場に市民感覚をということで裁判員制度が導入された。テレビのニュ-ス番組などでタレントが一般人の声を代弁して政治や事件などについてコメントする。そして何より、インターネットの普及により、誰もがこの“素人感覚”を持ち合わせた発言者たりうる。かくいう当ブログも、“素人感覚”の産物に過ぎないといってよい。

 以上を踏まえた上で、我々はいかなる態度をとるべきなのだろうか。

 無知ゆえの沈黙というのは、一見すると非常に謙虚な態度である。知りもしないことに対してでしゃばって意見することはしない。自らの限界を見極め、分相応の振る舞いをする。その一方で、この態度は、ある意味で楽である。なぜならば、自分の知らないことに対しては何も言う必要がないからである。自身の知らないことに対して積極的に関わろうとする意志が欠落しているのだ。無知ゆえの沈黙は結果的には物事に対する関心を希薄化してしまう危険性がある。

 一方で、 “素人感覚”は、無知ゆえの沈黙と比較して積極的な態度である。そこには、物事に精通していないにもかかわらず、いや、詳しくないからこそ見えるものがあるという信念がある。しかし同時にこの態度は、どこまでいっても“素人”から脱却することはないだろう。なぜならば“素人感覚”は、多かれ少なかれ素人である自分を特権化することになるからだ。それゆえ、物事を深く探求しようとする意欲も沸いてこない。“素人”であることに満足してしまう。“素人感覚”は、そうした知的怠慢を招くおそれがある。

 結局のところ、無知ゆえに沈黙することも、“素人感覚”に頼って雄弁になることも、不十分であるように思う。ありふれた結論かもしれないが、自身の無知を自覚し謙虚になりつつも、素人なりに試行錯誤や探求を重ね、自らの思考を開示していくのが最善のようである。

(坂木)