2012年5月29日火曜日

脱成長論の背景にあるもの


先日坂木氏によって更新されたブログ記事、毎度のことながら膝をうつ内容であった。確かに昨今の反韓流のムーブメントは非常に稚拙であり、節度にかけたものだと思う。願わくば、その有り余るエネルギーを他のことに使ってほしいものである。

  今回は、恵まれない者の実存についての論考を少々。冒頭で述べたことも無関係ではない。

  経済的に豊かでなくとも幸せは手に入るといった趣旨の議論に対して、本当に貧しさを知らない故の戯言であるとの批判がある。尤もな批判であるが、このような批判をしている者も往々にして「本当の貧しさ」を知らないことが多い。

  それだけではない。彼らは経済的な困窮の悲惨さを強調はしても、精神的なそれには無頓着であるばかりか、経験も想像力も圧倒的に欠けている。うつ病などの精神疾患に対する見解などに如実に表れている。

経済的に困窮することの悲惨さは、精神的な疲弊を伴うがゆえに絶しがたい。貧しくなれば、心も貧しくなる。

問題はそこからである。実際に心が貧しい状態とはどのようなものなのか。まさにこの点を無視して短絡的に経済的な繁栄の重要性を説くことには何ら 意味がない。貧しさを知らずして人は豊かさに本気で動機づけられないからだ。それを理解しないで為される議論は、絶対的に思弁的であるという他はない。

人は貧しくなると、それまでのような人間関係を保てなくなる。出来たことが出来なくなる。要するに、今までのように自由に振る舞えなくなるのだ。感情の豊かさは消え、彼のまわりにはどんよりとした空気が佇む。そういう己の惨めな境遇を少しでも解消しようとネトウヨやパチンコに勤しむ生活保護受給者を想起しよう。彼らは追い込まれているのである。その中で幸せになることはほどんど無理といってもよい。

果して、以上のようなことを考え、脱成長論等に批判をしている者はどれぐらいいるだろうか。

そして、ここからが本題。脱成長論は本当に悪なのか。私の答えは否定的である。何故か。

先の議論をもう少し進めよう。持てる者から持たざる者へ転落した者は確かに不幸になる蓋然性は高い。けれども、その次の世代はどうか。彼らはもは や繁栄すら知らない。であれは、貧しさに対する感受性もまた違うのではないか。それはちょうど、我々近代人が、今よりも格段に貧しかった部族社会の様子を 知らないように。

資源の有限性ゆえ、いずれ経済的な困窮は不可避に訪れる。だとすれば、どこかの世代が必ず、そのような転落を経験することになる。それは、未来の世代のための産みの苦しみとも言うべきものかもしれない。

そして、驚くべきことに、人類の叡知はそのようなどうしようもない貧しさのなかに生きる術をすでに手にしているのである。

それを繙くことが出来れば、近代は終焉を迎えることになろうが、それにも私は否定的である。このことについてはまたあらためて論じることにする。







2012年5月24日木曜日

反韓流運動にひそむ矛盾。


 最近、反韓流運動の勢いが増している。フジテレビや花王に対する抗議デモをはじめ、竹島を韓国の領土だと世界中で宣伝している“反日活動家”(女優)キム・テヒをCMに起用したロート製薬に対する抗議活動では、逮捕者も出る騒ぎだ。また、母親が生活保護を受給していたお笑い芸人の河本準一が批判の矢面に立たされ、同氏の“在日”疑惑も浮上している。

 こうした中、ニコンの所有するギャラリーで「従軍慰安婦」の写真展が開催されるということで抗議が殺到。ニコンは写真展の中止を決めたという。私はこの出来事に対して、ある種の不気味さを感じずにはいられなかった。

抗議した人々は、ニコンの迅速な対応に称賛を浴びせているが、むしろニコン側が彼らの抗議活動がこれ以上激化することを恐れた結果とみるほうが妥当だろう。

 もちろん、私としても、そのような「従軍慰安婦」の写真展が開催されることに対しては不快に思う。また、キム・テヒの件に関しても、彼らの批判は概ね納得できる。

 しかし、ニコンの例からもわかるように、彼らの活動が時として企業の自由な活動を萎縮させているのだ。このままこうした反韓流運動が過激化すれば、企業の方はもはや韓国の「か」の字さえ口に出せない状況が生まれるだろう。果たしてこれは健全なことなのだろうか。

 彼らは、在日朝鮮人の犯罪がメディアで取り上げられないのは、在日による圧力が加えられているからだという。在日団体からの圧力はもちろんだが、マスコミ界は在日に席巻されており、在日によって言論弾圧されているらしい。だから、在日の河本準一ことハ・ジュンイルの騒動も取り上げられないのだと。

 では、こうした朝鮮による言論弾圧を批判し、抗議活動を展開する人は、自身も朝鮮と同等の言論弾圧に加担しているという自覚がどれほどあるのか。朝鮮を批判するだけで逮捕されることになる人権擁護法案に反対しているはずの彼らが、まさにその人権擁護法案にも劣らぬ行為をしているのである。

 誤解のないように申しておくが、私はなにも韓国や在日朝鮮人を擁護しているのではない。韓流ブームや在日に対する優遇措置に対しては違和感を覚える。しかし、それを抗議デモというような過激な手法で批判してほしくないのである。韓国における反日デモのような狂気をともなった野蛮な行為を、日本人に真似してほしくないのである。感情的になる気持ちも理解できるが、冷静に対処しなければならない。韓流ブームや韓国人のCM起用など、取るに足らないことは無視すればよい。必要なことは、そのような瑣末なことにいちいち目くじらを立てることではなく、あらゆる不正―それには当然、在日に対する優遇措置や韓国による反日工作なども含まれる―に毅然とたち向かえる政治、行政、社会をつくっていくことであろう。例えるなら、竹島は韓国領と喧伝する女優を起用する企業に対し抗議デモを展開するのではなく、竹島は日本領であるという歴史的根拠に知悉し、世界に発信する。あるいは、それができるまっとうな政治家を選ぶ。こうしたことが重要なのだと思う。

(坂木)

2012年5月10日木曜日

維新の会の家庭教育支援条例案に思う


何年か前のお話。ある講義の授業中に発達障害と思しき女性が乱入してきた。その様子を見て、授業を受けていた生徒たちの大半は生理的な嫌悪感を示していた。講師に対してよくわからない質問を発する姿は確かに奇妙ではあった。けれども私は生徒たちのその態度に、ものすごく不快な印象を持った。自分が理解できない行動原理に則って振舞うその女性に対し、理解を示そうとしないだけでなく、あまつさえ嫌悪感を露骨に表す姿は、人間の最も醜い部分を反映しているように思えてならない。(43氏も例外ではなかった。)

  今回の条例案はまさに、その生理的な嫌悪を条例という形で表出したものではなかろうか。この条例案は、児童虐待や子どもの非行などを発達障害と関連付け、親の愛情不足が原因とする内容になっている。間違いなく、この条例案を提起した人間には自分の身内に発達障害など存在しないのであろう。その中で、自らの偏った価値観を他者に押し付けようとする姿勢にこそ嫌悪感を抱く。子供の教育にとって家庭環境が重要であることは疑い得ない。家庭環境に問題があってある種の障害を背負った者もいるだろう。

  私が問題視しているのは、発達障害を持つ人間が問題であるとされる価値観を強化してしまう危険性である。そもそも、発達障害とは基本的に”先天的”に精神的ないし身体的に障害を抱えた者を指す。アメリカ精神医学会のガイドラインDSM-Ⅳに従えば、発達障害は、広汎性発達障害(PDD)、精神遅延(MD)、学習障害(LD)ないし注意欠陥・多動性障害(ADHD)に分類される。それぞれ症状が異なり単純な議論は難しいため、医学的にも未だ未解明なものも多い。あるいは時代の推移によってもその症状が変化することが報告されている。これは、発達障害というものが社会との関係において見出されたり生産されたりするものであることを示している。

発達障害を持つ子供はいつの時代も確率論的に一定数存在する。そしてそれを規定するのは社会システムであるという事実。発達障害というラベルを生み出す社会もまた障害を抱えているとは言えないだろうか。


今回のような条例を提起した維新の会の市議団はもとより、そういう社会的な前提が整いつつあるということに戦慄を覚えるのである。




(文責: gerira)

2012年5月5日土曜日

憲法、原発、ラディカリズム


 53日は憲法記念日ということで、この時期になると憲法に対する議論が活発化する。中でも9条をめぐっては最も意見が分かれるところだろう。

 護憲派の論理では、憲法改正=戦争のできる国へ、だ。確かにそうかもしれない。しかし、日本が戦争を起こす蓋然性はまずもってない。中国や北朝鮮など、近隣諸国の武力紛争に巻き込まれる蓋然性の方がはるかに高い。結局彼らは、憲法を改正すれば戦争が起こるという極端(ラディカル)な解釈をしているのである。

 そもそも一度の戦争(敗戦)体験から軍事力の保持にNOを突き付けるというのも極端だ。もちろん、“あの戦争”がいかに悲惨だったかということに異論はないし、戦争など起きないに越したことはない。だが、こうした対応はまさに羹に懲りて膾を吹くが如く、やりすぎである。かつて日本が“侵略戦争”を起こしたとしても、再び日本が同じことをすることなどまずあり得ない。常識的に考えてもらいたい。

 同じことが原発についてもいえる。一度の原発事故が起きたくらいで全ての原発を廃止せよというのも極端だ。誤解のないように言っておくが、福島の事故を過小評価するつもりはない。しかし、別の原発でも同様の事故が起こるという確証はない。ここにも、原発があれば事故が起こるという極端なロジックが存在する。

 それにしても、こうして書いていると、日本人には極端な方向へ傾きやすいきらいがあるのではないかと思ってしまう。上述した以外にも、例えばナイフによる殺傷事件が起こるとすぐにナイフ販売規制の声が上がるなど、極端な対応をとるケースも少なくない。

 9条を含めた憲法は主としてアメリカがつくったものだが、それを60余年にもわたって守り続けてきたのも、日本人に―多かれ少なかれ―ラディカリズムを受け入れる傾向があったからではなかろうか。

 そして、今回の原発事故で改めてラディカリズムが露呈した。無論、極端な脱原発派など少数だろうが、それでも脱原発のムーブメントがここまで広がったのも偶然ではないように思う。

 そのほかにも、大阪維新の会の台頭など、ラディカリズムと無縁ではない出来事も起こっている。これらのラディカリズムに対処するには冷静な判断力しかない。ここまで極端な対応が必要なのか、それを問うていかなければならない。

(坂木)