2012年5月10日木曜日

維新の会の家庭教育支援条例案に思う


何年か前のお話。ある講義の授業中に発達障害と思しき女性が乱入してきた。その様子を見て、授業を受けていた生徒たちの大半は生理的な嫌悪感を示していた。講師に対してよくわからない質問を発する姿は確かに奇妙ではあった。けれども私は生徒たちのその態度に、ものすごく不快な印象を持った。自分が理解できない行動原理に則って振舞うその女性に対し、理解を示そうとしないだけでなく、あまつさえ嫌悪感を露骨に表す姿は、人間の最も醜い部分を反映しているように思えてならない。(43氏も例外ではなかった。)

  今回の条例案はまさに、その生理的な嫌悪を条例という形で表出したものではなかろうか。この条例案は、児童虐待や子どもの非行などを発達障害と関連付け、親の愛情不足が原因とする内容になっている。間違いなく、この条例案を提起した人間には自分の身内に発達障害など存在しないのであろう。その中で、自らの偏った価値観を他者に押し付けようとする姿勢にこそ嫌悪感を抱く。子供の教育にとって家庭環境が重要であることは疑い得ない。家庭環境に問題があってある種の障害を背負った者もいるだろう。

  私が問題視しているのは、発達障害を持つ人間が問題であるとされる価値観を強化してしまう危険性である。そもそも、発達障害とは基本的に”先天的”に精神的ないし身体的に障害を抱えた者を指す。アメリカ精神医学会のガイドラインDSM-Ⅳに従えば、発達障害は、広汎性発達障害(PDD)、精神遅延(MD)、学習障害(LD)ないし注意欠陥・多動性障害(ADHD)に分類される。それぞれ症状が異なり単純な議論は難しいため、医学的にも未だ未解明なものも多い。あるいは時代の推移によってもその症状が変化することが報告されている。これは、発達障害というものが社会との関係において見出されたり生産されたりするものであることを示している。

発達障害を持つ子供はいつの時代も確率論的に一定数存在する。そしてそれを規定するのは社会システムであるという事実。発達障害というラベルを生み出す社会もまた障害を抱えているとは言えないだろうか。


今回のような条例を提起した維新の会の市議団はもとより、そういう社会的な前提が整いつつあるということに戦慄を覚えるのである。




(文責: gerira)