2012年5月5日土曜日

憲法、原発、ラディカリズム


 53日は憲法記念日ということで、この時期になると憲法に対する議論が活発化する。中でも9条をめぐっては最も意見が分かれるところだろう。

 護憲派の論理では、憲法改正=戦争のできる国へ、だ。確かにそうかもしれない。しかし、日本が戦争を起こす蓋然性はまずもってない。中国や北朝鮮など、近隣諸国の武力紛争に巻き込まれる蓋然性の方がはるかに高い。結局彼らは、憲法を改正すれば戦争が起こるという極端(ラディカル)な解釈をしているのである。

 そもそも一度の戦争(敗戦)体験から軍事力の保持にNOを突き付けるというのも極端だ。もちろん、“あの戦争”がいかに悲惨だったかということに異論はないし、戦争など起きないに越したことはない。だが、こうした対応はまさに羹に懲りて膾を吹くが如く、やりすぎである。かつて日本が“侵略戦争”を起こしたとしても、再び日本が同じことをすることなどまずあり得ない。常識的に考えてもらいたい。

 同じことが原発についてもいえる。一度の原発事故が起きたくらいで全ての原発を廃止せよというのも極端だ。誤解のないように言っておくが、福島の事故を過小評価するつもりはない。しかし、別の原発でも同様の事故が起こるという確証はない。ここにも、原発があれば事故が起こるという極端なロジックが存在する。

 それにしても、こうして書いていると、日本人には極端な方向へ傾きやすいきらいがあるのではないかと思ってしまう。上述した以外にも、例えばナイフによる殺傷事件が起こるとすぐにナイフ販売規制の声が上がるなど、極端な対応をとるケースも少なくない。

 9条を含めた憲法は主としてアメリカがつくったものだが、それを60余年にもわたって守り続けてきたのも、日本人に―多かれ少なかれ―ラディカリズムを受け入れる傾向があったからではなかろうか。

 そして、今回の原発事故で改めてラディカリズムが露呈した。無論、極端な脱原発派など少数だろうが、それでも脱原発のムーブメントがここまで広がったのも偶然ではないように思う。

 そのほかにも、大阪維新の会の台頭など、ラディカリズムと無縁ではない出来事も起こっている。これらのラディカリズムに対処するには冷静な判断力しかない。ここまで極端な対応が必要なのか、それを問うていかなければならない。

(坂木)