2012年12月17日月曜日

自民党の危機

今回の総選挙で自民党は郵政解散に匹敵する294議席もの地滑り的圧勝となった。

この選挙結果に対して、世間一般の意見の傾向を見ると、

①今回の勝利は自民党への支持ではなく、民主党への不信任であった。
②小選挙区は民意を十分に反映していない政治制度である。中選挙区や比例代表に転換せよ。

くらいだろうか?

私は自民党支持者だが、同時に二大政党論者なので、民主党が壊滅的打撃を負ったことは残念に思っている。また小選挙区は小さな民意の変化を大きく増幅させることで政治の変化を促し、また政治の安定性を確保する制度だと思っている。もし今の日本で中選挙区制や比例代表制を採用すれば、ただでさえねじれなどで動かない政治がますます混迷の度を深める。

ただ今回問題提起したいのはそういった制度論ではない。まずNHKの選挙情報(http://www3.nhk.or.jp/senkyo/)から、今までの選挙での小選挙区・比例代表の獲得議席をご覧いただきたい。

今回の自民党はほぼ2009年の比例代表の獲得議席と変わらない議席しか獲得できていない。ここから導き出せるのは、維新と民主に非自民票が分裂したことでタナボタの圧勝となっただけで何ら自民党への支持は拡大していない事実である。むしろこれだけ失政を繰り返してきた民主党から少しでも支持者を奪い返せていないことは深刻に受け止めるべきである。

このままでは自民党は参院選において手痛い敗北をしかねない。もし自民党の支持基盤を立て直したいならば、保守色をアピールするよりまず現実的な政策課題で国民からの信頼を回復することに努めるべきであろう。

もし強固な支持層に色よい政策のみをうち続ければ、米共和党のように将来の行方が危ぶまれる事態になりかねない。自民党は国民政党である以上、ただ保守層のみに受けの良い政策を打ち出してはいけない。中道という言葉で確固たる政策をぼやかす必要はないが、常に政策実行にはバランス感覚が求められる。

我々は安倍氏が保守タカ派であるからといって急激な保守路線を期待するべきではないし、大人の態度で漸進的な変化を見守る態度が必要である。まずは自民党への積極的な支持者を増やせるよう実績を積み重ねていくべきだ。

(43)

2012年12月16日日曜日

総選挙に寄せて



【自民党よ、驕ることなかれ】

 今回の衆議院選挙は、予想通り、自民党の勝利であった。一自民党支持者として今回の選挙結果は、喜ばしい。しかし、自民党の勝利といっても、有権者が積極的に自民党を支持したかといえば、必ずしもそうではないと思う。

 いうまでもなく、約3年間にわたる民主党政権はひどかった。具体的に述べるまでもないだろう。したがって、今回も民主党に投票するという選択肢は、民主党支持者であるか、よほどの知名度のある候補者でない限り、まずないだろう。

 また、今回の選挙では、いわゆる第三極の政党が注目を浴びた。しかし、実態はどうだったかというと、第三極にも思っていたほどは期待できそうにない。日本維新の会は、石原氏と橋下氏との二層構造―例えば石原氏の発言を橋下サイドが否定するなど―が災いし、あまり支持を広げることができなかったように思う。やはり、維新とたちあがれ(太陽の党)の合併は、石原側と橋下側双方の支持者を減らすだけに終わったのではないか。また、日本未来の党に至っては、即時原発ゼロというラディカルな政策もさることながら、ほとんど「卒原発」のみを訴えるシングルイシュー政党であるゆえに、ほとんど支持を得ることができなかった。しかも、その内実は小沢氏率いる民主党離党組をはじめ、寄せ集め政党という他ない。第三極に投票するぐらいなら民主党に投票するほうがまだましである。

 このような状況の中で、自民党の勝利は必然だった。ただし、それは消去法で自民党が選ばれたにすぎない。自民党は、そのことを肝に銘じて慢心しないようにしていただきたい。

【衆愚政治に終止符を】

 また、今回の選挙で思ったことは、やはり有権者の振れ幅が大きいということだ。いくら民主党が酷過ぎたとはいえ、自民党が勝ち過ぎの感がある。熱しやすいが、冷めやすい。これが今の有権者の性質であり、今の政治の体たらくだろう。小泉政権以後、首相が一年前後で交代するということが常態化している。初めの頃は高かった内閣支持率がどんどん下がっていく。自民がダメだから民主。民主がダメだから自民。このいささか小児病的な飽きっぽさが国民に蔓延している。

 だから、今後もこのようなことが続くのであれば、自民党政権の支持率もすぐに下がるだろう。ポピュラーセンチメンツで動く政治からおさらばしなければなるまい。次期政権に求められるのは、世論に迎合せず、信念に基づいて粛々と政治を進めていく実行力だろう。そして我々有権者は、子供じみた飽きっぽさを捨て、冷静かつ長い目で政治を注視していかなければならない。

(坂木)

2012年12月1日土曜日

政党の耐えられない軽さ




 先日、gerira氏から挑発的な文章が寄せられた。相も変わらず小賢しく偉そうな文章である。解散総選挙で浮かれているわけではない。浮かれているというよりも、政治の混乱に半ば呆れつつ事態を見守っているという感じだ。

 特に私が憂慮しているのは、政党の劣化である。政党が出来ては消え、あるいは他党と集合する。政党とはかように軽薄なものだっただろうか。某与党議員の言うように、政党は選挙互助会になり果てたのだろうか。

 衆議院解散直後、与党・民主党から多数の離党者が出た。彼らは、他党に入党したり、新党を結成したりした。こういう輩には、自身が所属する政党に対して忠誠心というものがないのだろうか。まがりなりにも今まで自身が所属してきた政党であるにも関わらず、自身の当選が危うくなれば平気で離党する。彼らにとって政党とは、その程度の存在でしかないのだろう。そうした人間が、国家・国民に対して忠義を尽くすことなどできないと私は思う。だから、そうした連中及び連中が結成した政党など、信頼に値しない。

 政党という存在がかつてないほどに軽薄になっている。そう思わせる例は他にもある。太陽の党が、日本維新の会と合流するために、いとも容易く解党した。日本未来の党に合流するため、国民の生活が第一が解党された。後者に至っては、候補者のポスターに党名を入れるなという指示があったというのだから驚きである。

 このように政党は、お気軽につくれるし解散することもできるものへと変貌してしまった。無論、同じ主義主張を持つ人間が集まることは悪いことではない。その過程で、離合集散が起こるのも仕方がないことかもしれない。ただ、バークが定義したように、政党とは「ある特定の主義または原則において一致している人々が、その主義または原則に基づいて、国民的利益を増進せんがために協力すべく結合した団体」である。そのことを自覚している議員がどれほどいるだろうか。政党とは、自分が選挙で当選するための道具でもなければ、政権をとるための道具でもない。

(坂木)

2012年11月26日月曜日

最近ご無沙汰ですが...


  今年の秋は「政治の季節」になった。けれども、僕個人としてはそのようなものに
さして関心はない。

  第三極が結集しようが、自民党が政権に返り咲こうが、正直なところどうでもいい。


  解散総選挙で浮かれているあなたがたに水を差すようで悪いが、それが偽らざる僕の
感慨である。

  最近43がにわかに「心の政治」などというスローガンを掲げ出したが、
明らかにこれは僕の影響だろう。

  童貞的な語り口を脱する契機にして欲しい。

  僕は近いうちにまた映画の批評か書評を書く予定である。


gerira

2012年11月21日水曜日

あえて自民党を批判的に検証する・理念編

私は、基本的に自民党を強く支持する立場にある。しかし誰にとってもすべての政策が合致する政党など存在するはずはない。今回、自民党を「あえて」批判的に検証しながら、私なりの国家観を提示し、議論の材料としたい。

1.保守とは何か?

一般的な日本的「保守」の定義とは以下の3つに代表されるように思われる。

①他国との協調・妥協より自国の主権・国益を重視。
②憲法改正
③教育での道徳心や愛国心の涵養。

自民党の政権公約では①~③を強く打ち出した。このためマスコミはこぞって保守色の強い政策だと報道している。しかしそもそも日本的「保守」の定義とは保守なのだろうか?簡単に保守主義をgoogleなどで検索してもらえばわかる(※1)が、保守とは必ずしもこうした政策を掲げれば済むものではない。保守とは本来、現実主義に基づいて改革を恐れないが、伝統的価値観や制度を尊重する考え方である。また急進主義とは一線を画する考え方でもある。

これに照らし合わせれば、本来の保守的な政策とは、以下のようなものになるはずである。

①家族やコミュニティといった人のつながりの復活
②自助と共助の尊重
③穏健主義・現実主義

こうした政策こそ保守政党に求められるのだが、どうも「真正保守」にはこうした要素を重視し、中心的な政策として掲げる考え方は乏しいようである。

2.心のない政治

私は先ほどの保守的な政策の定義で、人のつながりの復活や共助の精神を強調した。こうした点がないがしろにされていると思う典型例が、いわゆる障碍者や弱者に対する共感が保守政治家からは見られにくいことである。政治家として国家の大所高所から言及されることはすばらしいことだが、こうした分野でリベラル派が圧倒的に強い。

本来、人のつながりを強調するからこそ草の根で弱者や障碍者を支える取り組みを保守政治家が進めるべきなのだ。しかし現実にはリベラル系のNPOがこうした役割を担い、リベラル政治家が意見をくみ上げ、「クニガー、クニガー」という主張を強めているのである。

コミュニティの再建や家族の再定義も全く進んでいない。個人の価値観が大きいから難しいとする意見もわからなくはない。しかし保守政治家がこのことに取り組まなくて誰が取り組むのだろうか?

3.自助と共助の欠如した経済政策

自民党は今回の政権公約として「国土強靭化」を提唱している。具体的には10年間で200兆円の公共事業を実施し、デフレギャップを埋め、経済不況から脱却することが骨子である。厳密な政策論は別の機会に譲るが、ここでは国土強靭化が持つ他力本願的な考え方を批判したい。そもそも国土強靭化は、経済の「自律的」回復が困難であるから政府がまず財政出動し、経済の回転をよくすることが主眼である。つまり言い換えると個人や企業ではこの事態を乗り切ることは無理だから政府がすべて何とかするということである。

この「国土強靭化」の提唱者である三橋氏や藤井氏は実際はさておき、「この政策は保守だろうがリベラルだろうが関係ない」といっているらしい。しかし、自助と共助の精神を失った政策は単なる設計全能主義である。政府が完全な経済政策をうてば、経済は回復するなどというのは単なる政策立案者の傲慢である。なぜこうした財政出動政策が「社会主義」などと批判されるのか?自称保守を掲げる三橋氏はぜひハイエクの「隷属への道」でもお読みになって勉強されるとよい。


(※1)オークショットの定義

『見知らぬものよりも慣れ親しんだものを好むこと、試みられたことのないものよりも試みられたものを、神秘よりも事実を、可能なものよりも現実のものを、無制限なものよりも限度のあるものを、遠いものよりも近くのものを、あり余るものよりも足りるだけのものを、完璧なものよりも重宝なものを、理想郷における至福よりも現在の笑いを、好むことである。得るところが一層多いかも知れない愛情の誘惑よりも、以前からの関係や信義に基づく関係が好まれる。獲得し拡張することは、保持し育成して楽しみを得ることほど重要ではない。革新性や有望さによる興奮よりも、喪失による悲嘆の方が強烈である。保守的であるとは、自己のめぐりあわせに対して淡々としていること、自己の身に相応しく生きていくことであり、自分自身にも自分の環境にも存在しない一層高度な完璧さを、追求しようとはしないことである。或る人々にとってはこうしたこと自体が選択の結果であるが、また或る人々にとっては、それは好き嫌いの中に多かれ少なかれ現れるその人の性向であって、それ自体が選択されたり特別に培われたりしたものではない。
(Wikipedia 保守より2012年11月21日引用 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%AE%88)

執筆者 43

2012年11月7日水曜日

第三極結集という烏滸



 最近、いわゆる第三極の政党間の連携が話題を呼んでいる。先日は、石原氏とたちあがれ日本、日本維新の会との会談があった。しかし、実際には政策の違いなどから、第三極結集というのは難しそうだ。

 いや、私にしてみれば、第三極結集などというのは噴飯物以外の何ものでもない。さきほども述べたように、消費税や原発、TPPなどに対する各党の考え方は異なっている。選挙のために小異を捨てて大同についたところで、その後の展望はあるのだろうか。

 思い出してほしい。考え方のバラバラな人間が選挙のために野合した例が過去にもある。民主党である。民主党は非自民という一点のみで結束を保っていた。その結果はどうだったか。口にするのも憚られるほどの愚劣さであった。

 今、「既成政党打破」だか「官僚支配の打破」だかは知らないが、そうしたスローガンのもとで同じことが繰り返されようとしている。

 もはや、わけのわからない烏合の衆が国政において闊歩することに、国民は飽き飽きしているのではなかろうか。だいたい、既成政党の打破とか言っておきながら、第三極の政党の議員はほとんど“既成政党”出身の先生たちばかである。今求められているのは、第三極とか非既成政党という陳腐な真新しさではなく、確かなビジョンを共有できる政党であろう。

 であるからして、石原氏がなぜ熱心に日本維新の会などに秋波を送るのか、理解できない。おそらく、いくら立派なビジョンがあっても、実際に政権を獲れなければ意味がない、したがって今は数を揃えることが重要だというふうに考えているのだろう。しかし、問題は政権を獲った後なのである。民主党とて、政策の違いから離党者が続出し瓦解しつつある。仮にみんなの党、日本維新の会、たちあがれ日本+石原氏からなる連立政権が発足したとしても、それが長く続かないことは火を見るよりも明らかだ。

 そして、石原氏の支持基盤であると思われる保守層をげんなりさせているのは、石原氏が日本維新の会などというとんでもない政党と組もうとしていることである。

 以下は、114日付け産経新聞の記事からの引用である。


石原氏「大変良好!」

 たちあがれ日本・平沼赳夫代表「(進展があったかを)話す必要はないよ…」

 古くからの同志が語った会談後の感想は対照的だった。帰りのJR京都駅でも、苦虫をかみつぶしたような表情の平沼氏に、石原氏が「生みの苦しみだなあ」と漏らした。
会談では、石原氏が「中央集権の支配から変えるのはこの機会しかない」と「官僚支配打倒」による大同団結を呼びかけた。
橋下氏は、この場でもたちあがれ批判を展開した。

 「『真正保守』とか言っているメンバーとは組めない!」

 「大変失礼だが、石原御大もたちあがれとはカラーが違うじゃないですか?」

 「真正保守」について、平沼氏が「日本の伝統・文化を守りたいという意味で言っているのだ」と説明しても、橋下氏は「政策の決定基準にするのは違う。もっと合理的に決めなきゃ」と攻撃を緩めなかった。
同席者の一人は「平沼氏が怒ると思ったが、黙って聞いていた」という。
 たちあがれ内には、橋下氏について「政策が違う」「本当の保守なのか」との異論があったのは事実だ。しかし、たちあがれは「石原新党」への合流を機関決定した。石原氏が突き進む橋下氏らとの連携を拒否する選択肢はもはやない。


(引用終わり)

 橋下氏側は、「『真正保守』とか言っているメンバーとは組めない」と明言したのである。改めて、橋下氏が保守ではないということが明らかになった。

 話は逸れるが、私は、いち地方公共団体の長としての橋下氏とその政策には共鳴するところもあるのだが、国政政党である日本維新の会とその代表であるところの同氏には全く賛同できない。理由は、政策的なところもある―脱原発などというバカげた政策を臆面もなく披歴するなど―のだが、何よりも大きいのは、維新の会が本当に国政政党としてふさわしいのか疑問だからだ。

 保守主義の父エドモンド・バークは、1774年のブリストル演説において、政治家の「国民代表の原理」を表明した。それは、政治家というのはその選挙区の人々の声を政治に反映するのではなく、国民の代表として国家全体の利益のために奉仕するのだということである。これを敷衍するに、政党にも同様のことが言える。
 
 しかしながら、日本維新の会はどうだろうか。私には、この政党が日本国よりも大阪を優先して物事を進めているように思えてならない。いうまでもなく日本維新の会とは大阪維新の会を中心とした政党なのだが、大阪維新の会がその他勢力と連合し日本維新の会として国政に進出するに至った経緯を思い出してほしい。それは、大阪都構想を実現するために国の法律・制度を変えることが原点にあった。その政策にしても、大阪のような大都市を念頭に置いているという側面が強い。

 また、代表である橋下氏自身が未だに大阪市長を続けているというのもおかしな話である。自らが国政政党の舵をとろうとするのであれば、石原氏のように辞職するのが筋だろう。二足のわらじ状態を続ける同氏の姿勢は、国民を愚弄しているように思われる。

 以上のような理由から、私は日本維新の会を支持することはできない。第三極結集というのも烏滸の沙汰だというのに、その上、日本維新の会と組もうなど、空いた口がふさがらない。自民党の方がまだ政策的にも近い。石原氏に本当に政権を獲る気があるのであれば、悪いことは言わない、自民党と組むのが現実的だろう。

(坂木)

2012年10月14日日曜日

衰退する左翼―『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか』を読んで



 先日、仲正昌樹『集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか』という本を読んだ。文字通り、戦後日本における思想史をたどりながら、80年代の「現代思想」ブームとその後を解説するというものである。

 本書を読んで、なぜ左翼(思想)が衰退の一途をたどってきたのかという疑問に対して、ひとつの答えが示されたと思う。戦後、圧倒的影響力を持ったマルクス主義は、大衆社会の到来とともにブルジョア・プロレタリアートの二項対立というその図式が現実から乖離し、説得力を失った。その後、構造主義、そしてポスト構造主義が台頭し、その流れの中で、日本ではそうした「現代思想」が「ニューアカデミズム」として80年代にブームになる。しかしバブル崩壊によって、ポストモダン思想も力を失い、ポストモダン系の論客も、新自由主義的資本主義批判のように、「左回転」していった。ただ、マルクス主義は既に影響力を失っているし、現代思想もマルクス主義のような「大きな物語」の失効を謳う思想なので、統一的理論を描けない。左翼は個別の問題―在日外国人やジェンダーの問題など―を論じるための「小さな物語」にしか依拠できなくなったのである。そこで左翼の間では、大きな物語としての“共通の敵イメージ”―例えば「弱肉強食の市場原理を貫徹して経済格差を拡大し、行き場のなくなった負け組を海外派兵の要員にすることを画策しつつ、そのための伏線として、愛国心・反ジェンダー・フリー教育や監視社会化を推進する右派勢力」―が登場するようになったという。こうして左翼思想は左/右という二項対立図式へと回帰した。

 つまり、マルクス主義の凋落後、自らを統一的に語ることのできる物語がなくなってしまったわけである。左翼を統合できる物語として「護憲」というのが考えられるが、これも突き詰めれば個別の問題でしかなく、しかも国民の大半が改憲を支持する中では訴求力に乏しいといえる。もはや左翼は統一的なビジョンを提示することができず、個々の問題を論じるに終始せざるを得なくなってしまった。

 ただし、右派も統一的な物語を紡ぎだすことに成功しているかといわれれば、私はそうは思わない。改憲や歴史問題など、ここでも個別の問題ばかりが論じられ、肝心の部分―例えば保守とは何かとか、保守すべきものは何かとか―は置き去りにされている。「小さな物語」にしか依拠できないのは右側も同じ状況である。

 いずれにせよ、左翼が衰退しているのは紛れもない事実である。だからこそ、左翼は“共通の敵”を欲する。それを思い知らされたのは、本書のあとがきである。実をいうと、本論よりもあとがきに書かれていた次の文章のほうがはるかに印象に残っている。本書が記された2006年といえば、安倍政権が発足した年である。


 私にとってマジで気持ち悪いは、「安倍の「美しい国」は危ない!」と叫んでいるサヨクの人たちが、やたらと生き生きしていることである。反権力的な言論をメシのタネにしている人たちは別として、サヨクの大半は、思想的な確信をもってやっているというよりは、野球やプロレスのテレビ中継試合を見ながら悪口雑言を吐いてストレスを発散している酔っ払いのおじさんと同じレベルなので、メディアにかっこうの“悪役”が登場したら、嬉々として吼えまくるのは当然と言えるわけだが、今回はとくにすごい。

 
 衰退し、社会からも以前ほど注目されなくなった左翼の方々が、格好のネタを手にしたわけである。喜ばないはずがない。こうして、安倍晋三が左翼の共通の敵として標的になった。

 そして今、我々は同様の光景を目にしているはずだ。いうまでもなく、「原発」である。原発事故の後、まるで水を得た魚の如く、左翼たちの脱原発運動がいっきに盛んになった。筆者ではないが、脱原発運動にコミットしている左翼の方々は本当に「生き生きしている」。だから、私が本書を読了した後に真っ先に思い浮かんだのが「脱原発」である。そして上記あとがきを目にしたときのデジャヴ感といったら、思わず笑ってしまうほどである。

 むろん右派の方にしても、共通の敵を求めるきらいはある。朝日新聞などはその最たる例だ。ただし、右派の方がよりコンスタントな批判活動を続けているのに対して、左派の方は、ひとたび“敵”を見つければ爆発的なムーブメントになる傾向があるといえる。そうした意味で、右派には安定的な“敵”がいるので活動に困らないが、左派は比較的“敵”に飢えており、それが見つかると活動がいっきに活発化する。安倍政権や原発はその例である。

 ただそうしたやり方では、一時的に支持者を増やすことは可能だが、長期的な活力をもつには至らない。原発問題を見れば一目瞭然だ。事故当初こそ、脱原発に圧倒的な支持が集まったが、いまでは左翼連中が主張するようなラディカルな脱原発の支持者は少数派になっている。したがって、このままのやり方を続けていては、左翼はますます衰退していくことになるだろう。

(坂木)