2012年11月21日水曜日

あえて自民党を批判的に検証する・理念編

私は、基本的に自民党を強く支持する立場にある。しかし誰にとってもすべての政策が合致する政党など存在するはずはない。今回、自民党を「あえて」批判的に検証しながら、私なりの国家観を提示し、議論の材料としたい。

1.保守とは何か?

一般的な日本的「保守」の定義とは以下の3つに代表されるように思われる。

①他国との協調・妥協より自国の主権・国益を重視。
②憲法改正
③教育での道徳心や愛国心の涵養。

自民党の政権公約では①~③を強く打ち出した。このためマスコミはこぞって保守色の強い政策だと報道している。しかしそもそも日本的「保守」の定義とは保守なのだろうか?簡単に保守主義をgoogleなどで検索してもらえばわかる(※1)が、保守とは必ずしもこうした政策を掲げれば済むものではない。保守とは本来、現実主義に基づいて改革を恐れないが、伝統的価値観や制度を尊重する考え方である。また急進主義とは一線を画する考え方でもある。

これに照らし合わせれば、本来の保守的な政策とは、以下のようなものになるはずである。

①家族やコミュニティといった人のつながりの復活
②自助と共助の尊重
③穏健主義・現実主義

こうした政策こそ保守政党に求められるのだが、どうも「真正保守」にはこうした要素を重視し、中心的な政策として掲げる考え方は乏しいようである。

2.心のない政治

私は先ほどの保守的な政策の定義で、人のつながりの復活や共助の精神を強調した。こうした点がないがしろにされていると思う典型例が、いわゆる障碍者や弱者に対する共感が保守政治家からは見られにくいことである。政治家として国家の大所高所から言及されることはすばらしいことだが、こうした分野でリベラル派が圧倒的に強い。

本来、人のつながりを強調するからこそ草の根で弱者や障碍者を支える取り組みを保守政治家が進めるべきなのだ。しかし現実にはリベラル系のNPOがこうした役割を担い、リベラル政治家が意見をくみ上げ、「クニガー、クニガー」という主張を強めているのである。

コミュニティの再建や家族の再定義も全く進んでいない。個人の価値観が大きいから難しいとする意見もわからなくはない。しかし保守政治家がこのことに取り組まなくて誰が取り組むのだろうか?

3.自助と共助の欠如した経済政策

自民党は今回の政権公約として「国土強靭化」を提唱している。具体的には10年間で200兆円の公共事業を実施し、デフレギャップを埋め、経済不況から脱却することが骨子である。厳密な政策論は別の機会に譲るが、ここでは国土強靭化が持つ他力本願的な考え方を批判したい。そもそも国土強靭化は、経済の「自律的」回復が困難であるから政府がまず財政出動し、経済の回転をよくすることが主眼である。つまり言い換えると個人や企業ではこの事態を乗り切ることは無理だから政府がすべて何とかするということである。

この「国土強靭化」の提唱者である三橋氏や藤井氏は実際はさておき、「この政策は保守だろうがリベラルだろうが関係ない」といっているらしい。しかし、自助と共助の精神を失った政策は単なる設計全能主義である。政府が完全な経済政策をうてば、経済は回復するなどというのは単なる政策立案者の傲慢である。なぜこうした財政出動政策が「社会主義」などと批判されるのか?自称保守を掲げる三橋氏はぜひハイエクの「隷属への道」でもお読みになって勉強されるとよい。


(※1)オークショットの定義

『見知らぬものよりも慣れ親しんだものを好むこと、試みられたことのないものよりも試みられたものを、神秘よりも事実を、可能なものよりも現実のものを、無制限なものよりも限度のあるものを、遠いものよりも近くのものを、あり余るものよりも足りるだけのものを、完璧なものよりも重宝なものを、理想郷における至福よりも現在の笑いを、好むことである。得るところが一層多いかも知れない愛情の誘惑よりも、以前からの関係や信義に基づく関係が好まれる。獲得し拡張することは、保持し育成して楽しみを得ることほど重要ではない。革新性や有望さによる興奮よりも、喪失による悲嘆の方が強烈である。保守的であるとは、自己のめぐりあわせに対して淡々としていること、自己の身に相応しく生きていくことであり、自分自身にも自分の環境にも存在しない一層高度な完璧さを、追求しようとはしないことである。或る人々にとってはこうしたこと自体が選択の結果であるが、また或る人々にとっては、それは好き嫌いの中に多かれ少なかれ現れるその人の性向であって、それ自体が選択されたり特別に培われたりしたものではない。
(Wikipedia 保守より2012年11月21日引用 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%AE%88)

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