2012年1月30日月曜日

橋下市長に「ついてゆけない」ひとですが。

 先日、以下のようなブログ記事を拝読しました(http://d.hatena.ne.jp/syocyo/20120128/1327765979)。詳細はURLを参照していただければよいと思いますが、ブログの主によると、「なにやら権益とは無縁で単に「ついてゆけないひと」が多くいる」ということです。

「ついてゆけないひと」の気持ちはおもに2点だろう。

ついてゆけないひと → a.やりかたが嫌

            b.変化の先の保証がみえないから嫌

a.やりかたが嫌、というのはおそらくどうして橋下市長がこういう手法をとっているのかが判らないのだ。彼らにはたぶん唐突にどんどん進んでゆくようにみえるので「独裁」となる。

b.保証がみえなくて嫌、というのはリスクへの知識不足からきており、はやく投資教育を必須科目にすべきとおもう。

(中略)

なぜ、こうしたひとが橋下市長の手法に「ついてゆけない」のか朝生をみてわかったことがあって、ようは「ついてゆけない」のはビジネスモデルが理解できないということだろう。

ビジネス脳がないと、橋下市長の行動則はたぶん理解しにくいのではないのか。ビジネスをやってる人間からすると、橋下市長のやってることは至ってふつーのことだ。

・カスタマーへフォーカスする。

・細部をつめないで前にすすめる。

・やりながら最適化する。

・手法に執着しない。

・状況は変化してあたりまえ。

・言ってることも変化してあたりまえ。

・やってることも変化してあたりまえ。

・目標達成の最短行動をえらぶ。

・ぜんぶをコンセンサスとる必要はない。

・決定してから手法をかんがえる。

こーんなのは、今を生き抜くうえであたりまえのことで、薬師院やら香山やらはそういう脳みそをつかってないから判らない。反対派はすべてのプロセスをボトムアップですすめないとついてゆけず、コンセンサスに漏れあると問題視する。まさに日本が意見の集約ができず苦しんでいるのは、こうした過剰なコンセンサスで、政治家だけでなく「市民レベルで決定させないひとたち」をみるいい機会になった。

彼らは、橋下市長へしきりに「思想」とか「信条」をたずねてたけど、これは意味がない。橋下市長の政治では思想信条は重要じゃないからだ。興味もないかもしれない。興味があるのはビジネスモデルの整合性だろう。

反対派は橋下市長の目標値の設定よりもプロセスがどうしても気になるらしく、しきりに「言ったこととちがう!」と唱える。ビジネス脳がない彼らは「先に決定がくる手法」についてゆけないのだ。

 これを読んで思ったことは、次の二点です。まずは、政治とビジネスとは異なるということ。もうひとつは、橋下氏のやっていることが、果たしてビジネスとしての整合性を持っているのかということです。

 「目標達成の最短行動をえらぶ」、「ぜんぶをコンセンサスとる必要はない」というのは、ビジネスでは当たり前なのかもしれませんが、政治にはあまりふさわしくありません。というか、ほとんど不可能です。もちろん、目標達成のために最も短く効率的な手法が望まれることはいうまでもありませんし、コンセンサスをなるべく必要としないなら、それに越したことはありません。しかし、政治、ことに民主制においては、なかなかそうは参りません。

 民間企業にとって、自社の利益を最大化するというのは、唯一かつ最大の命題です。その一方、政治において目指されるべきものとは何なのでしょうか。それは公益でしょうが、その中身は一概には決まりません。とくに民主主義社会においては、さまざまなアクターが存在しますから、当然、望ましい利益もひとによってさまざまです。したがって、コンセンサスを得るのも、民間企業と比べものにならないほど困難です。これでは、目標達成の最短行動をとろうにも、かなり遠回りをしなければなりません。

また橋下氏は、選挙において「白か黒か」とおっしゃっていましたが、政治というものは白か黒か、はっきりとするものではありません。さまざまアクター間のせめぎあいの中で、いかに自身に有利なグレーをつくりだすか(つまり、白側なら限りなく白に近いグレーを、黒側なら限りなく黒に近いグレーを目指すということです)、それが政治です。「白か黒か」はっきりすることなど、まずないでしょう。当然、そうした攻防においては、コンセンサス(とそのプロセス)が重要になってきます。これはなにも私が勝手に申していることではなく、政治学の通説です。

 ですから、民主主義政治というのは本質的に「決められない政治」です。最近は、「決められない政治から脱却を」という声が高まっていますが、そうしたいのであれば民主主義をやめることをお勧めします。念のために申しておきますが、だからといって私は、何をやっても無駄というニヒリズムに陥っているわけではありません。「決められない政治」の中で、いかにリーダーシップを発揮してコンセンサスを得るかということが重要なのであり、そういう意味では橋下氏のリーダーシップに期待する面もあります。しかし、「コンセンサスなんていらない」、「嫌だったら辞めろ」という横暴な態度を改めない限り、橋下的手法には限界があるでしょう。

 また、「言ってることも変化してあたりまえ」、「やってることも変化してあたりまえ」では、有権者の信を得ることは難しいでしょう。今の民主党政権をみていれば、一目瞭然です。それはビジネスでも同じはずです。言動が朝令暮改のごとく変化する会社に対して顧客が信頼を置くでしょうか。よほど納得のいく説明がないと、理解を得るのは難しいはずです。

 次に、橋下氏のやっていることにビジネスとしての整合性があるのでしょうか。とりあえず、大阪都という大風呂敷を広げたはいいが、それへの道筋は不透明です。また、都構想が実現したその先には何があるのでしょう。そもそも、都構想を実現すれば、大阪が今より活性化するという保証はどこにもありません。また、大阪が東京と同じような制度にしたからといって東京のようになれるというのも、あまりに楽観的です。このように大阪都構想には、その根拠が希薄といえます。もちろん、府と市の長年にわたる対立という事情もあるでしょうが、だからといって都構想だけが唯一の手法とも思えません。現在、維新の会のふたりが市長と府知事なわけですから、いまこそ、府と市が強調する絶好の機会ではないでしょうか。このほうが、よほど最短で低コストな改革ではないでしょうか。

(坂木)

2012年1月28日土曜日

あえて野田政権を評価する

先ほど、gerira氏より芸術的感性のない人間と名指しされた者である。まあ仕方がない。いつか見返してやるつもりだ。今回、取り上げるテーマもさして芸術的感性のいらないテーマである(笑)。

最近、桜井よしこ氏がTPP推進、野田政権評価を表明して、保守論壇から総スカンをくらっているようだ。ここ最近の一部保守界隈の論調は極めてラディカルであり、異論を許さない風潮が強まってきているように思われる。

野田政権が誕生し、一旦は政権の体たらくに落胆した。しかし、最近の野田政権の動きには目を見張るものがある。まずはそれを実直に評価したいと思う。

①TPPの交渉参加表明
自民党は一貫して自由貿易を擁護してきたが、一方で農協などの利権団体とのしがらみがあって、中途半端な貿易自由化にしか着手できていなかった。もちろん自民党が全く無策だったと指摘するわけではない。民主党のばらまき型の農業補助金ではなく、中山間部や大規模農家への補助金を開始したのはほかでもない自民党だからだ。農政改革はゆっくりとしたものだったが確かに自民政権下でも進展していた。

一方、民主党は今までの関税・価格支持による補助をやめ、補助金行政に切り替えたところはWTO協定の趣旨に沿う筋のいい政策だったのだが、小沢を中心とする勢力によりばらまきによる票田確保の一環とされてしまったところから、政策趣旨が歪んでしまった。

TPPがメリットばかりのバラ色の未来とは言わないが、少なくとも農政・鉱工業・サービス業・知的財産にわたって、これから求められていくであろう見直しを進めるきっかけとなると個人的には期待している。さらに環太平洋諸国との連携は、安全保障上の観点からも対中国戦略として非常に重要である。ASEANと中国の経済的つながりは年々強まっている。一方でASEAN諸国は中国に対して安全保障上の脅威を感じている。だからこそ、日米が協力してASEAN諸国にプレゼンスを提供することは国益に沿うことである。

②武器輸出三原則の緩和
自民党政権でも何度も議論となってきたが、真正面から議論し、緩和に着手したのは安倍政権くらいのものであった。ネット界隈では大人気の麻生氏もこの問題には正面からはタッチしていない。もちろん今まで反対し、足を引っ張ってきた民主党が賛成に回ることで、緩和しやすい環境が形成されていることもあるし、安倍政権が無能だったといいたいわけではない。むしろ今更着手するなら安倍政権が推進したときに賛成しろ、という話である。しかし、党内での合意を得にくいテーマに対して野田氏・前原氏が真摯に取り組んでいる事実を「大したことはない」「特に意味はない」と否定的にみる保守論壇は、一体何をすれば民主党政権を評価するのだろう?

③「マイナンバー」の導入など税と社会保障の一体改革
マイナンバーも一貫して民主党が「プライバシーの保護」を理由に反対していたので、民主党の手柄とするのは抵抗感があるが、野田政権に対する評価として最も高いのは税と社会保障の一体改革を本気で着手しようとしていることである。まあ個人的には大震災後すぐに増税に着手するのはいかがなものかと思うのだが、それでも不人気政策を正面に掲げて、突破を図ろうとしているのは正直でよろしい。

とはいえ、無条件に賛同するわけではない。摩訶不思議な法務大臣人事や国家公安委員長、防衛大臣の不適材不適所人事。民主党に政策通があまりにも少ないからそうせざるを得ないのかも・・・、と同情するが、それでもひどすぎる。

とはいえ、もう半年、1年と成果を待ってあげてもいいのではないかと思える政権に久々に出会えたのではないかと今のところ期待している。

(執筆者 43)

2012年1月24日火曜日

映画を少々

 当会にも芸術に疎い方がおられるが、芸術的な感性は非常に重要な要素だと思う。そのような感性は確かに生まれ持った脂質、いや資質が大きく作用することは言うまでもないが、後天的にそれらを獲得することはある程度まで、いやむしろ、そのような資質以上にできるものである。ちょうど小生がその資質を獲得しすぎていささか肥満気味なように(笑)。

 今回は、映画を少々取り上げ、批評していく。批評という営みは、批評対象を「再発見」し、そして自分のものとする過程である。それを他者と共有することには重要な意味がある。そこには作品に対する欲望の転移が生じるといってもいいし、動機の感染が生じるといってもいい。

 それから小生の文章がどうも他人を見下しているというような批判をするものがいる。このような人間は被害妄想なのか何なのか。むしろ、彼こそ心の底では小生を見下しているのではないか。彼にはsense of humorが欠如しているらしい。まあいい、それならこちらにも考えがある。どうせ鼻持ちならない文章だとか言われるのなら徹底的にそういう表現をしてやろうではないか。


①ノルウェイの森

 コミットメントかデタッチメントかという対比は確かに学生運動と主人公との温度差が比喩的に描写されている。が、これはミスリーディング。現代にも通用するストーリーにしようと思うなら、むしろ「生と死」の 共犯関係を丁寧に、緊張感をもって描きたい。どういう意味か。人は、死を経験しないと生を享受することはできない。もちろんこの世に生きているすべての人間にとって、死は超越的事象であり、決して経験可能なものではない。そうではなく、村上春樹の作品の中で幾度となく反復されてきたモチーフ、つまり「死は生の一部として存在する」ということ。エロスとタナトスの共犯関係はまさにそれである。人は常に死ななければ生きることはできない。死こそ生への動力源である。「死」とは生物学的な死であり、社会的な死であり、観念的な死であり、離別である。そもそも彼らがコミットメントに失敗する理由はデタッチメントの回避ないしはデタッチメントの失敗にある。 学生時代に多くの者が感じる友情の永遠性への願望。そのような全能感から離陸し親友の死を受け入れられなかったのだ。この映画はその主題を全く描けていない。無残なものだ。


②冷たい熱帯魚

 でんでんの好演が光る作品。彼が「あのような」性格である背景に父親からの虐待が原因であるというのが説明的であり「心理学化」した見方であるという批判があるが見当違い。昨今の向きはダークナイトのジョーカーないしノーカントリーのシガー的な来歴未知のものが「絶対悪」的な佇まいを見せることが「正しい」悪の描き方である、云々。けれどもこれはかつて羊たちの沈黙で颯爽と登場したレクター博士が蓋を開けてみれば不幸な幼少期を過ごしたが故の悪性だったというハンニバルライジング的な頽落ではないのだ。文脈が違うのである。園子温は一貫して家族のもつ狂気や閉塞感に焦点を当ててきた。「父」という存在が家族のあり方にどのように影響するのか、前半と後半で違う父の姿を見れば明らかだ。狂った家族がその果てに表す世界とはかくもおどろおどろ しきものなのか。それを目撃、いや経験してしまった観客はおそらくいままでどおりの日常を生きることはできなくなるだろう。だからs氏のように斜に構えて作品を享受という姿勢は御法度。素朴でない人間はあえて真摯に向き合い享受するのが園子温映画における作法である。


 力のある作品には、ひとを自殺に向かわしめる力があるのかもしれない。いやけれどもそれは一時的な衝動だろう。先にも述べたとおり、人は生きるために死を経験しなければならないのである。それは本来の意味での死ではないが、本来の死という位相に物凄く接近してしまい、時には本当に死に向かうことさえある。ひとはそのような「命懸けの飛躍」(意味は異なるが)をせずに先に進むことができなくなることがある。近代においては誰もが通る道ではなくなったかわりに、そのような試練に晒されたものは集合知的な経験が存在しないために一部は芸術作品、つまりアートという営みに縋るのである(あるいはまた一部は宗教に縋るのだ)。アートは時に危険である。僕はyesのclose to the edgeを高1で聞いた日にそのような衝動に駆られた。僕の友人は高校時代にデリダのある作品を読んで自殺未遂したという。そのことに対して、その作者に責任や謝罪を求めるなどというのはお門違いである、たしかに僕もその当時は物凄く恨んだが(よもや教養のある方がそのようなおぼこい主張をするとは僕には到底思えない)。それではオウムの恐ろしさを理解できない(何故か?)。それぐらいの力のある作品がこの世界には必要である。日常を平穏豊かに過ごしたいなどというぬるい人間にはどう背伸びをしてもアートを享受することはできないだろう。オタクでもやってろ。 (文責 : gerira)

久しぶりに、、、

最近では私も橋下市長のように(くだらない)批判ばかり受けるのであるが、橋下市長よろしくそろそろこのへんでそのような手合いに反論をしておこう。

 橋下氏はよく、学者を批判する。曰く、学者の存在価値とは何か、あるいは学者はどのように社会に貢献しているというのか。

 橋下知事は人文科学に真っ向から勝負を挑んできているのである。ならば、批判をするのであれば己のraison d'etreをかけて彼に挑むべきではないか。

 あなたがたがしてきた仕事とは何なのか。それにはどのような意味があるのか。
 そんなこともろくに答えられないのでは橋下氏に論破されても仕方がない。

 日常を揺さぶられることを恐れるが故に、何がしかの理屈をつけて敬遠するヘタレ。
 「リベラル」という衣をまとい、甘えを糺そうとしない連中。
 「保守」というおふだをはって、今までと同じゲームを続けようとする輩。

 リベラルとは甘えるためのいい訳などでは断じてない。
 保守とは安っぽいファイアーウォールなどでは断じてない。

 中野剛志に敬意を抱くことなどありえないと思っていた。彼は保守とは「卓越した経験に基づいた大人の知恵」と言っていた。本当にそうだと思う。


 甘えを克服し、他者に対して最大限の理解を示すこと、その先にリベラルの理想郷は現出する。
 己の実存をかけて危機に立ち向かうこと、その先に保守主義の叡智が宿る。

 ものすごいシニフィアンに出会うとき、人は今までとは違う世界に引きずり込まれる。
 もうもとには戻れない。まさにホラーのような世界。


 そんな経験をしたことがあるだろうか。話はそれからだ。

                                          (文責:gerira)

2012年1月11日水曜日

原発住民投票という愚

原子力発電所稼働の是非を問う住民投票の実施を目指し、大阪市内で署名活動をしていた市民団体「みんなで決めよう『原発』国民投票」(東京都新宿区)は9日、署名数が5万人を超え、市条例制定の直接請求に必要な4万2673人を上回った、と発表した。(1/10読売新聞)

 この記事を読んだ私は、いいようのない憤怒と絶望におそわれた。こうした愚かな試みに反対の声をあげるべく、急遽筆を執った次第である。初めにことわっておくが、私は脱原発そのものを否定しているのではない。それはひとつの意見として尊重する。私が非難するのは、住民投票という手段である。

①原発の是非は住民投票にはふさわしくない

 いうまでもなく、原発を含めたエネルギー問題は、日本全体に関わる重要な事柄である。それは、今生きている我々のみならず、将来の世代にも関係することだ。それを、住民投票という安易な手段で決めるべきではない。

そういうと、「民意を無視するのか」という批判があがりそうだが、そういう連中は多数者の専制という言葉を知らないのだろう。大多数の“民意”があれば何をしても許されるという思い上がりこそが危険なのである。仮に今、原発の是非を問う住民投票を実施すれば、おそらく脱原発が勝利するだろう。しかし、一時の感情にまかせた安易な“脱原発”という主張が将来大きな禍根となることは、火を見るよりも明らかである。経済への影響や代替エネルギーなど、脱原発の先に待ち構える諸問題について彼らは何も考えていないに違いない。そうしたことを議論する間もなく、“民意”だけが暴走する。そして少数派の“民意”は封殺される。

原発を維持するにせよ廃止するにせよ、必要なのは、中長期的なビジョンとそれに関する議論である。住民投票で決めることのできるような簡単な問題ではないのである。

②一部の住民が決めるという傲慢

 原発の是非が住民投票にはふさわしくない問題であることは上述した通りだが、そもそも大阪市といった一部の自治体の住民が原発の是非を決めるというのも傲慢な話である。その自治体が電力会社の大株主であるといっても、当然ながら、電力は彼らだけのものではない。他の自治体に住む住民の声はどうなるのか。ここでも他自治体の“民意”は無視される。

 しかも、大阪はこれまでさんざん原発の恩恵をこうむってきた地である。それが、原発事故が起こってから手の平を返したように脱原発に転換するのは、いかにも奇妙かつ身勝手なことである。脱原発案が可決すれば、原発でつくられる電力を一切消費しないというのならば少しは理解できるが、そういうわけではないらしい。

 繰り返すが、原発問題は住民投票で決着のつく類のものではない。少なくとも、中長期的な視点からの議論を経て、脱原発にともなうメリット・デメリット、あるいは代替エネルギーなどを勘案した上で、投票を実施するべきだろう。現状のように、考えもなしに原発の是非を問おうなど、もってのほかである。

(坂木)

2012年1月5日木曜日

私が消費税増税に反対する理由

 野田総理は、年頭記者会見で消費税増税に向けて決意を示し、衆議院解散の可能性を示唆した。総理の増税に対する信念は固い。私を含めた国民の多くも増税の必要性を感じている。しかし、それでも私は、現段階での消費税増税には反対である。理由は三つある。すでに多くの識者によって主張されていることではあるが、私の意見を述べたい。

第一に、歳出削減努力がみられないことである。昨年の臨時国会で、国家公務員給与の削減をめぐり、政府・与党と野党との意見が食い違い、会期を延長することなく協議を打ち切った。議員定数削減という話もうやむやになってしまった。国民に負担を求める際には、まず自分たち自身が身を切らなければならないと、多くの国民の思うところではなかろうか。

第二に、増税はマニフェスト違反である。民主党が政権をとるとき、少なくとも今後四年は増税しないと述べていたのではなかったのか。そもそも彼らの主張では、財源はいくらでも出てくるはずだった。こうした公約の反故に対する謝罪は一向にない。本来であれば増税前に解散・総選挙をするべきであるが、せめて謝罪ぐらいはしなければならない。

第三に、デフレ不況下における増税は経済をさらに冷え込ませる。増税による消費の減退は経済を疲弊させ、デフレに拍車をかけることは、すでに多くの識者が指摘するところである。そうしたことを総理は理解しているのだろうか。増税の背景には、ひたむきに財政規律を死守しようとする財務省の意向ばかりがちらついて、経済に対する思慮が全く見えてこない。

以上の理由から、現時点での増税には反対である。そして何よりも、増税の先にあるビジョンが総理の姿勢からは全く見えない。増税そのものが目的化しているのではないだろうか。総理が大局的な国家像を掲げ、その実現には増税はやむを得ないというのならば、まだ理解も得やすいだろう。しかしそうした言辞は出てこない。あるのは、財務省への配慮だけである(少なくとも、そのように見られてしまっている)。民主党政権が発足して以来、国家観の欠如は幾度となく指摘されてきた。野田総理も同じ轍を踏むのだろうか。


(坂木)