2012年1月24日火曜日

映画を少々

 当会にも芸術に疎い方がおられるが、芸術的な感性は非常に重要な要素だと思う。そのような感性は確かに生まれ持った脂質、いや資質が大きく作用することは言うまでもないが、後天的にそれらを獲得することはある程度まで、いやむしろ、そのような資質以上にできるものである。ちょうど小生がその資質を獲得しすぎていささか肥満気味なように(笑)。

 今回は、映画を少々取り上げ、批評していく。批評という営みは、批評対象を「再発見」し、そして自分のものとする過程である。それを他者と共有することには重要な意味がある。そこには作品に対する欲望の転移が生じるといってもいいし、動機の感染が生じるといってもいい。

 それから小生の文章がどうも他人を見下しているというような批判をするものがいる。このような人間は被害妄想なのか何なのか。むしろ、彼こそ心の底では小生を見下しているのではないか。彼にはsense of humorが欠如しているらしい。まあいい、それならこちらにも考えがある。どうせ鼻持ちならない文章だとか言われるのなら徹底的にそういう表現をしてやろうではないか。


①ノルウェイの森

 コミットメントかデタッチメントかという対比は確かに学生運動と主人公との温度差が比喩的に描写されている。が、これはミスリーディング。現代にも通用するストーリーにしようと思うなら、むしろ「生と死」の 共犯関係を丁寧に、緊張感をもって描きたい。どういう意味か。人は、死を経験しないと生を享受することはできない。もちろんこの世に生きているすべての人間にとって、死は超越的事象であり、決して経験可能なものではない。そうではなく、村上春樹の作品の中で幾度となく反復されてきたモチーフ、つまり「死は生の一部として存在する」ということ。エロスとタナトスの共犯関係はまさにそれである。人は常に死ななければ生きることはできない。死こそ生への動力源である。「死」とは生物学的な死であり、社会的な死であり、観念的な死であり、離別である。そもそも彼らがコミットメントに失敗する理由はデタッチメントの回避ないしはデタッチメントの失敗にある。 学生時代に多くの者が感じる友情の永遠性への願望。そのような全能感から離陸し親友の死を受け入れられなかったのだ。この映画はその主題を全く描けていない。無残なものだ。


②冷たい熱帯魚

 でんでんの好演が光る作品。彼が「あのような」性格である背景に父親からの虐待が原因であるというのが説明的であり「心理学化」した見方であるという批判があるが見当違い。昨今の向きはダークナイトのジョーカーないしノーカントリーのシガー的な来歴未知のものが「絶対悪」的な佇まいを見せることが「正しい」悪の描き方である、云々。けれどもこれはかつて羊たちの沈黙で颯爽と登場したレクター博士が蓋を開けてみれば不幸な幼少期を過ごしたが故の悪性だったというハンニバルライジング的な頽落ではないのだ。文脈が違うのである。園子温は一貫して家族のもつ狂気や閉塞感に焦点を当ててきた。「父」という存在が家族のあり方にどのように影響するのか、前半と後半で違う父の姿を見れば明らかだ。狂った家族がその果てに表す世界とはかくもおどろおどろ しきものなのか。それを目撃、いや経験してしまった観客はおそらくいままでどおりの日常を生きることはできなくなるだろう。だからs氏のように斜に構えて作品を享受という姿勢は御法度。素朴でない人間はあえて真摯に向き合い享受するのが園子温映画における作法である。


 力のある作品には、ひとを自殺に向かわしめる力があるのかもしれない。いやけれどもそれは一時的な衝動だろう。先にも述べたとおり、人は生きるために死を経験しなければならないのである。それは本来の意味での死ではないが、本来の死という位相に物凄く接近してしまい、時には本当に死に向かうことさえある。ひとはそのような「命懸けの飛躍」(意味は異なるが)をせずに先に進むことができなくなることがある。近代においては誰もが通る道ではなくなったかわりに、そのような試練に晒されたものは集合知的な経験が存在しないために一部は芸術作品、つまりアートという営みに縋るのである(あるいはまた一部は宗教に縋るのだ)。アートは時に危険である。僕はyesのclose to the edgeを高1で聞いた日にそのような衝動に駆られた。僕の友人は高校時代にデリダのある作品を読んで自殺未遂したという。そのことに対して、その作者に責任や謝罪を求めるなどというのはお門違いである、たしかに僕もその当時は物凄く恨んだが(よもや教養のある方がそのようなおぼこい主張をするとは僕には到底思えない)。それではオウムの恐ろしさを理解できない(何故か?)。それぐらいの力のある作品がこの世界には必要である。日常を平穏豊かに過ごしたいなどというぬるい人間にはどう背伸びをしてもアートを享受することはできないだろう。オタクでもやってろ。 (文責 : gerira)