2012年1月11日水曜日

原発住民投票という愚

原子力発電所稼働の是非を問う住民投票の実施を目指し、大阪市内で署名活動をしていた市民団体「みんなで決めよう『原発』国民投票」(東京都新宿区)は9日、署名数が5万人を超え、市条例制定の直接請求に必要な4万2673人を上回った、と発表した。(1/10読売新聞)

 この記事を読んだ私は、いいようのない憤怒と絶望におそわれた。こうした愚かな試みに反対の声をあげるべく、急遽筆を執った次第である。初めにことわっておくが、私は脱原発そのものを否定しているのではない。それはひとつの意見として尊重する。私が非難するのは、住民投票という手段である。

①原発の是非は住民投票にはふさわしくない

 いうまでもなく、原発を含めたエネルギー問題は、日本全体に関わる重要な事柄である。それは、今生きている我々のみならず、将来の世代にも関係することだ。それを、住民投票という安易な手段で決めるべきではない。

そういうと、「民意を無視するのか」という批判があがりそうだが、そういう連中は多数者の専制という言葉を知らないのだろう。大多数の“民意”があれば何をしても許されるという思い上がりこそが危険なのである。仮に今、原発の是非を問う住民投票を実施すれば、おそらく脱原発が勝利するだろう。しかし、一時の感情にまかせた安易な“脱原発”という主張が将来大きな禍根となることは、火を見るよりも明らかである。経済への影響や代替エネルギーなど、脱原発の先に待ち構える諸問題について彼らは何も考えていないに違いない。そうしたことを議論する間もなく、“民意”だけが暴走する。そして少数派の“民意”は封殺される。

原発を維持するにせよ廃止するにせよ、必要なのは、中長期的なビジョンとそれに関する議論である。住民投票で決めることのできるような簡単な問題ではないのである。

②一部の住民が決めるという傲慢

 原発の是非が住民投票にはふさわしくない問題であることは上述した通りだが、そもそも大阪市といった一部の自治体の住民が原発の是非を決めるというのも傲慢な話である。その自治体が電力会社の大株主であるといっても、当然ながら、電力は彼らだけのものではない。他の自治体に住む住民の声はどうなるのか。ここでも他自治体の“民意”は無視される。

 しかも、大阪はこれまでさんざん原発の恩恵をこうむってきた地である。それが、原発事故が起こってから手の平を返したように脱原発に転換するのは、いかにも奇妙かつ身勝手なことである。脱原発案が可決すれば、原発でつくられる電力を一切消費しないというのならば少しは理解できるが、そういうわけではないらしい。

 繰り返すが、原発問題は住民投票で決着のつく類のものではない。少なくとも、中長期的な視点からの議論を経て、脱原発にともなうメリット・デメリット、あるいは代替エネルギーなどを勘案した上で、投票を実施するべきだろう。現状のように、考えもなしに原発の是非を問おうなど、もってのほかである。

(坂木)