2013年9月12日木曜日

やはり「若者論」に意味はない



 この頃になってようやく、古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』を読んだ。この筆者に対しては、現役東大院生という肩書がウリの人だという印象しかなかったが、本書を読んでも、残念ながらその印象は変わらなかった。

 表紙を開くと次のような売り文句が書いてあった。

 最注目の若き社会学者が満を持して立ち上げる、まったく新しい「若者論」!

 若者が書く若者論という意味では新しいのかもしれないし、それなりに有用な部分もあったのだが、所詮「若者論」はどこまでいっても「若者論」である。どんなに真新しいことを述べようとも、本質は今までの「若者論」と変わらない。

 そもそも私は若者論というものを信用していない。それは、本章で引用されている言葉を使うなら、「『世代』内部における個人的・階層的多様性を見落としがち」(井上俊)だからだ。結局、若者論は、―意図しようがしまいが―若者、いや人間の多様性を無視して、年代だけで集団を一括りに論じようとするものなのだ。ちょっと考えればこれがいかに乱暴なことかわかるだろう。確かに統計などを用いてもっともらしいことを言うことはできる。「今の若者はこういう傾向にある」と。しかし、それはあくまでもそうした傾向を持つ若者がいるというだけの話であって、当然ながら、それに当てはまらない若者もいる。何も難しい話ではない。繰り返すが、人間は十人十色である。それを年代だけで一括りにして論じることに何の意味があるのか。しかも、そうした議論が若者に限ってなされている。中年論とか高齢者論とか、私は寡聞にして知らない。

では、この“まったく新しい「若者論」!”は具体的にどうだったかを述べたい。

正直、この本で感心したのは第1章だけで、あとはほとんど中身のないものに思えてしまった。第1章では、明治時代から現代までの若者論の系譜をたどっていく。私自身も80年代の若者論について調べたことがあるということもあって、この章は非常に興味深かった。これを見ると、若者論が昔から同じようなことを繰り返し主張してきたことを改めて確認できた。

 第2章では、「内向き」や「嫌消費」など、現代の若者論で言われている事項を検討している。これもなかなか面白い。ちなみに、筆者の意見は、「微妙」だそうだ。「データの解釈次第で「内向き」とも言えるし、「内向きじゃない」とも言えてしまう」。当然と言えば当然の結論だろう。若者論とはそういうものである。

 ここまでは良かったのだが、筆者もまた新たな若者像を打ち立てたことに失望を禁じ得ない。筆者は、20代の生活満足度の高さを指摘し、そこから「コンサマトリー化する若者たち」と命名している。「コンサマトリーというのは自己充足的という意味で、「今、ここ」の身近な幸せを大事にする感性のこと」らしい。

彼らは、「仲間」や「友達」を大事にして、ムラのような小さなコミュニティで生きていくことに幸福を感じているが、同時に閉塞感も感じているらしい。だから、ワールドカップや震災ボランティアのように「非日常」という村祭りを提供してくれる場があれば、それに飛び込んでいく。
 
 これが本書の論旨である。今までの若者論と何が違うのだろう。今までの若者論も統計を用いながら、もっともらしい主張をつくりあげたものだ。確かに一見新しそうな主張だが、多様な人々を年代という共通点で抽出し、勝手な解釈を施しているという点において、他の若者論と変わらない(筆者の主張については、次回、検討するつもりである)。

筆者は第1章で次のように述べている。


「若者」というのは実態があるようで、ないような、曖昧なものだから、いくらでも勝手なイメージを付与できる。さらに、若者はどんどん入れ替わる。だから、若者論が入れ替わっても誰も文句を言わない。むしろ歓迎される。「これが新しい若者か」と。


筆者にそっくりそのままお返ししたい言葉である。

第3章から第5章はほとんど論評に値しない。第3章はワールドカップに熱狂する若者とナショナリズムを扱っているが、どこかで聞いたことのあるような意見が目立つ。第4章は、保守系運動に身を投じる若者を論じている。これも小熊英二あたりの著書で読んだことがある内容だ。第5章では、東日本大震災時の震災ボランティアに参加する若者をクローズアップする。どれについても、この章は本書に必要だったのかと思いたくなる。ワールドカップにせよ、保守系運動にせよ、震災ボランティアにせよ、それらにコミットする若者を取り上げたところで、それは「そういう若者もいる」ということにしかならない。しかも、「国家はいらない」、「社会を変える意味」、「3・11後の希望」などと本論とは直接関係のないこともちりばめられている有様だ。巻末の佐藤健との対談も、週刊誌の記事かと突っ込みを入れたくなる。筆者は、この本は「若者パーフェクトマニュアル〔永久保存版〕」ではないにしても、「若者資料集〔二〇一一年度版〕」くらいにはなると述べているのだが、「資料集」にしてもお粗末な感が否めない。

最終章に至っては、「なんとなく幸せで、なんとなく不安。そんな時代を僕たちは生きていく。絶望の国の、幸福な『若者』として」という文句で幕を閉じる。結局、絶望的な未来が待ち受けているとしても、今がそれなりに幸せならそれでいいということなのか。シニカルと言うべきか、無責任と言うべきか。少なくとも、“社会学者”の吐くセリフではない。

やはり「若者論」に意味はない。本書を読んで改めて確信した。

筆者はまだ博士課程在籍のようだが、有限会社に勤めたりメディアに露出したりする暇があるのなら、勉学に勤しみ、博士号をとるなり単位取得満期退学するなりしたほうがよい。老婆心ながらそう申し上げたい。

(坂木)