2012年3月11日日曜日

映画を少々2

基本、映画を鑑賞するという行為はインプットに属する。それは時として過剰なインプットとして主体を揺るがす。そのような過剰なインプットを中和するために、どうしても映画について論じるという欲望が生じてしまう。それが映画制作というクリエイティビティに圧倒的に劣る営みであることを常に自覚しつつ、批評するものはまた別の仕方で何かを生み出そうという意識を絶やさないこと、映画のみならず何かを批評するというリスクの大きい(!)行為をなす上で守るべき作法である。

 とはいえ、一批評家に何かを生み出すことなど難しい。そんな無力な批評家の機能とは何か。優秀な批評家とはどういう者をいうのか。

 さて、僕が映画の批評を他者に示す際、すなわち一批評家として臨むとき、心がけていることとは何でしょう?


①ディア・ドクター
 2009年に公開された西川美和監督の最近作。僕がかなり前から注目していた監督である。『ゆれる』『蛇イチゴ』などの代表作で知られ、是枝裕和の弟子でもある、弱冠37歳の若手有望株である。本作品は、人口減少と少子高齢化に瀕する現代の農村における僻地医療、親との同居をめぐる夫婦間の感情的なすれ違いと親子の齟齬を下敷きとし、笑福亭鶴瓶演じる「無免許医師」が「無免許」であるがゆえ本物の医師以上に医師として「機能」する様とその顛末を描く。この物語は初めから、鶴瓶の「退場」が運命づけられていた。彼の医師としての技能の臨界点が露呈し無免許がバレたその時、である、通常は。しかしディア・ドクターではその臨界点は真逆に現れる。彼は真に医師であるから逃げたのだ。

 この映画は、無医村が増加する日本社会の行政の不作為を告発などしていない。人が幸せに生きるにはどうすべきか、何が必要か、そして何が必要でないのか。制度論などどうでもいい。文学が政治に超越する所以である。

 チャンネル桜にも出演している前田有一のブログにもあったが、どうやら彼女のなかには「おっさん」が棲んでいるようだ。それも、その辺のさえないおっさんでなく。


②ドラゴンタトゥーの女
 言わずと知れたディビッド・フィンチャー監督の最新作。『ソーシャル・ネットワーク』『セヴン』『ゾディアック』などは有名。43などは『エイリアン3』を’金曜ロードショー’で見た口だろうなw。

 フィンチャーはオシャレだ。それも物凄くセンスがいい。s氏も形無し。キューブリック譲りとはこういう時に使うのがふさわしい、彼は完璧主義者だ。 彼の映画を見ると何だか自分が賢くなったような錯覚を覚えるが、それはあくまでも錯覚。そのように錯覚させるのはひとえに、彼の映画のスマートさにある。

 それと対照的なもの。変に過剰、妙に抑圧的、殊に自己中心的、極めて鈍感、さくらんぼ男はつくづく表現に向いていないと思った次第。


③SUPER8
 制作:スピーブン・スピルバーグ、監督:JJ.エイブラムス。79年オハイオの小さな町リリアン。友人らと共に8ミリの自主映画を製作する少年たち。
 「ET」+「未知との遭遇」+「クローバーフィールド」+...70年代後期からしばらくのスピルバーグのジュブナイル感。
 8ミリカメラ特有の左右に伸びる光、ミニチュア模型の質感をあえて残した作り。映画のなかで少年たちに撮られる被写体と、少年たちそのものがこの映画の被写体であるという構造に、このギミックを効果的に織り交ぜた演出は映画に対する原体験を再び取り戻させてくれる。少年たちに襲いかかる驚異、そしてそれを映画の被写体として表現したいという欲望。大人になってスピルバーグが撮りたかった映画である。いや、スピルバーグはそこまで繊細でないか。

 「この映画が映画史上に残る傑作かどうかはわからない。しかし、映画史に残る傑作があるとしたら、それをつくった人たちはきっと、こういう映画を見て育ったに違いない。」

(某映画批評サイトより、シーチキンさん)

(文責:gerira)