2012年3月24日土曜日

日米安保とセカイ系

先日、『ギルティクラウン』(以下、「本作」)というアニメが最終回を迎えた。終わってみれば、典型的な“セカイ系”作品であった。セカイ系とは、「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項(国家、国際機関、社会など)を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」(東浩紀)を指す。

本作でも、占領された日本を奪還しようとするレジスタンスに巻き込まれた主人公が、さまざまな葛藤を通して成長し、やがて世界の危機と対峙するというストーリーだが、終盤においては、当初の日本奪還という目的は雲散霧消し、いつの間にか主人公とヒロインの問題へと収斂してしまった。この構造はまさにセカイ系であり、その先駆『新世紀エヴァンゲリオン』からほとんど変わっていない。

私がこのようなセカイ系作品を観るにつけて思うのは―やや穿った見方かもしれないが―、そうした作品を制作する側と受容する側のことである。作品自体がどうこうというよりも、むしろそうした作品を生み出し、受容する我々に対する違和感なのである。それは、なぜ我々は“中間項”、とりわけ国家について語りえない、語ろうとしないのかということに他ならない。

本作が放送されたのは2011年であり、その年は日米安保締結60年にあたる。同時に、日本がサンフランシスコ平和条約を締結し独立してから60年にもなる。当初、私は本作を、「占領された(去勢)された日本が、主人公の成長を通して徐々に独立(男性性)を取り戻す物語」と思っていた。それは、先程述べたように、その年が日米安保締結60年だったということも念頭にあったからである。しかし結局、国家(あるいは主権意識、国防といってもよい)という問題が語られることはなかった。

ここに私は違和感と絶望感(大げさな表現だが)を抱いたのである。日米安保という、国家意識をひた隠しする装置が結ばれてから60年、未だにその効果は衰えていない。そして、それは“戦後”という問題とも密接に関わっている。国家意識の放棄と個人意識の過剰、保守論壇のクリシェとなった表現ではあるが、まさにそうした“戦後”の結実がセカイ系ではなかろうか。そしてそうしたセカイ系を、クールジャパンの象徴たるアニメーションが媒介するという事態に、いささか戦慄させられる。

本作では日本がGHQという組織により統治されている。日本が独立してから60年、日本人の精神においても未だに独立を達成していないのだろう。

(坂木)