2012年3月17日土曜日

『海炭市叙景』

今回の文章は本気で書いたので、正直、これを読んで傷つく人もいると思う。だから、読むならば少し覚悟して欲しい。知らぬが花ということはよくあるから。こんな文章を書いたのも、動物は本能的に危機を察知するとスイッチが入るというが、僕もそのスイッチが入りかけているからだと思う。


 『海炭市叙景』は造船業の斜陽から寂れてゆく街に住む様々な人間の生き様をオムニバス形式で描いた作品。

事業がうまくいかず、妻に暴力をふるう中小企業の社長。

造船ドッグ閉鎖に伴い失業し、初詣に突如失踪し、後日遺体となって発見された若者。

生活が苦しいため、妻が水商売をすることに不満を持っている、常にがらがらのプラネタリウムに働いている中年男。

 彼らは僕らと無関係ではない、むしろ僕たちの今の姿そのものだ。そこには救いがない、本当に救いがない。そして僕たちはそのような酷薄な社会に生きている。息が苦しくなった、本当に息ができない。 その先には「絶望」が口を開けて待っている。いや、 社会の中に居場所を見つけることが出来ない(失業男の不幸)し、社会の外に出ることが出来ない(プラネタリウムに働く中年男の不幸)ということは絶望そのもの。 この映画の登場人物たちは明らかに絶望の只中だ。

 そうなったときに、社会の外に出なければ、論理的に実存を維持することは不可能である。絶望を経て、簡単に社会に復帰できると考える人間は「絶望が足りない」。それは失望程度のイベント。だから、多くの人間にとって、社会から爪弾きにされることは「死」を意味する。

 日本の自殺者が3万人にも及ぶのはこのためだ。行政はとりあえず、絶望する人間を減らすため経済対策と失業対策を頑張ればよい。けれども行政の施策ごときで一度絶望した人間が社会復帰出来ることなどありえない。

 ここに、宗教の存在意義が発生する。けれども日本人は、このような絶望を中和する宗教的リソースに乏しい。そこまで宗教にアレルギーがない人間は宗教に行けばいいが、そういうわけにもいかない人が多いように思う。

  さて、そのようにして絶望した人間はどうすればよいのだろう。

 社会学を学ぶと、よほど鈍感でない限り社会の底が抜けていることに否応なく気づいてしまう。それを知ることはある種の絶望として機能する。社会の非自明性に気づいてしまうと、おそらく人間は生きづらくなるだろう。だから社会学を学ぶと人は蓋し不幸になる(そうならないのは、勉強が足りないと思う)。不幸になった社会学者は、どのような実存の構えをもって生きているのだろう。

 この問いに答えることは、死を選ばずに生き続けることだ。でも、かなりの難問だと思う。