2013年3月24日日曜日

大学のあるべき姿とは


 非常に興味深い本を読んだ。ジョン・スチュアート・ミル『大学教育について』(岩波文庫、竹内一誠訳)である。本書は、ミルが1867年にセント・アンドルーズ大学名誉学長に就任した際に行った講演を収録したものである。

 ミルは言う。大学は職業教育の場ではない。大学は、生計を得るためのある特定の手段に人々を適応させるのに必要な知識を教えることを目的としてはいない。大学の目的は、熟練した法律家、医師、または技術者を養成することではなく、有能で教養のある人間を育成することにある。

 専門技術をもとうとする人々がその技術を知識の一分野として学ぶか、単なる商売の一手段として学ぶか、あるいはまた、技術を習得した後に、その技術を賢明かつ良心的に使用するか、悪用するかは、彼らがその専門技術を教えられた方法によって決まるのではなく、むしろ、彼らがどんな種類の精神をその技術のなかに吹き込むかによって、つまり、教育制度がいかなる種類の知性と良心を彼らの心に植えつけたによって決定されるのです。人間は、弁護士、医師、商人、製造業者である以前に、何よりも人間なのです。有能で賢明な人間に育て上げれば、後は自分自身の力で有能で賢明な弁護士や医師になることでしょう。専門職に就こうとする人々が大学から学び取るべきものは専門的知識そのものではなく、その正しい利用法を指示し、専門分野の技術的知識に光を当てて正しい方向に導く一般教養の光明をもたらす類のものです。

確かに、人間は一般教養教育を受けなくとも有能な弁護士になることはできる。しかし、哲学的な弁護士、つまり、単に詳細な知識を頭に詰め込んで暗記するのではなく、ものごとの原理を追求し把握しようとする哲学的な弁護士になるためには、一般教養教育が必要なのである。そして、この一般教養教育こそが、大学にとっての最大の使命なのである。

 この一般教養教育について、ミルは講演の中で具体的に言及している。古典、外国語、歴史、自然科学、数学、法律、経済、宗教、芸術、道徳など、実に多岐にわたる。

 しかし、それらの分野の知識をばらばらに習得すればよいというわけではない。なぜならば、一般教養教育の目的は知識の体系化、すなわち、「個々に独立している部分的な知識間の関係と、それらと全体との関係とを考察し、それまでにいろいろなところで得た知識の領域に属する部分的な見解をつなぎ合わせ、いわば知識の善領域の地図を作りあげること」にあるからだ。

 こうしたミルの主張に、個人的には大いに賛同する。大学は職業教育の場ではないし、教養教育というのが大学における最大の目的であるはずだ。しかるに、現代日本における大学の体たらくを見るに、ミルの唱える大学像には程遠いのではなかろうか。いまの大学は、実利主義に毒されていると私には思えてならない。産業界からの要請もあり、「社会に出て役だつ学生をつくる」ことが大学の目的と化している。これは、露骨にいえば、短期的で可視的な成果・利益を生み出すことのできる人間の養成であり、ミルの言葉を借りるならば「熟練した法律家、医師、または技術者」を育てることに他ならない。それゆえ、教養教育から専門教育へのシフトが近年の大学改革の流れである。また、学生にとっても、進学して研究者を目指す学生を除けば、彼らの大部分が、大学卒業後は、民間企業や公的機関等に就職するのだから、就職に有利になるような専門的知識や技能を求めるのは必然といえる。このように、現在の大学における教養教育の地位は低いと言わざるを得ない。

 無論、時代によって大学に求められるものは変化するだろう。100年以上も前のイギリスおける大学と今日の日本における大学を比較するなどナンセンスだと思われる方もいるかもしれない。しかし、大学における教養教育の意義は普遍のものであると私は信じて疑わないし、ミルの言葉が現代まで受け継がれているという事実こそがその証左であると思うのである。

(坂木)