2014年5月6日火曜日

書評:『嘘の人権 偽の平和』(三浦小太郎)

 筆者、三浦小太郎氏は正真正銘の人権活動家である。本書を読んでそう思った。筆者は、北朝鮮の人権問題や脱北者の支援活動などに取り組む一方で、評論活動も行っている。本書は、筆者がさまざまな雑誌に寄稿した文章を集めたものだ。

 それゆえ、ひとつひとつの章で取り上げているものは異なるが、本書を通じての一貫したメッセージは、党派性あるいはイデオギーを超えた人権の追求にあると私は思う。さきほど私が筆者のことを正真正銘の人権活動家だといったのは、そういう意味である。「人権活動家」というと、やもすれば左派的イデオロギーを込めて使われがちだが、そうした党派性を乗り越えた人権の概念、そして人権活動の必要性を筆者は説いている。

 それを端的に表しているのが、「姜尚中批判 偽善的平和主義を批判する」という章だ。筆者は、党派性にとらわれることは知識人としての自殺であると断言する。その上で、北東アジアの平和を求め、平和を余りにも大きな価値として崇拝することによって、北朝鮮の全体主義体制による人権侵害を直視しない姜氏の姿勢を「偽善的平和主義」として厳しく批判する。

 この批判はもっともだろう。党派性にとらわれた知識人、とりわけ左派知識人のなんと多いことか。戦時中のいわゆる慰安婦問題には積極的に発言し、当時慰安婦に身を落とした女性たちの人権回復を声高に叫ぶ一方で、北朝鮮や中国で現在行われている人権弾圧には口をつぐむ。あるいは、ヘイトスピーチに伴う在日外国人の人権侵害を批判する一方で、気に食わない“右翼の”政治家に対してはヘイトスピーチ以上の口汚い言葉で罵る。まさに党派性に満ちている。

 筆者は北朝鮮の人権問題に直接取り組んできたからこそ、自らのご都合主義で平和や人権を語る人間が許せないのだろう。

 しかし、筆者の批判のまなざしは、このような党派的知識人のみならず、我々日本人全体にも向けられる。

 筆者は別の章で、ハンナ・アレントの言葉を引用しながら、北朝鮮難民を座視することは、我々の社会の人権概念を崩壊させると警鐘を鳴らす。

 「また現代政治のあらゆるパラドックスも、善意の理想主義者の努力と、権利を奪われた人々自身の状態との間の懸隔以上に痛烈な皮肉に満たされたものは無い。理想主義者たちが、最も繁栄する文明国の市民しか享受していない諸権利を相も変わらず奪うべからざる人権と主張している一方では、無権利者の状態は相も変わらず悪化の一途をたどり、第二次世界大戦前には無国籍者にとってまだ例外的にしか実現されないはずだった難民収容所が、ついには難民の居住地問題のお決まりの解決策となってしまったのである」(註:アレント『全体主義の起源』)  
 ここでアレントが述べている状態は、「繁栄する文明国」を日本や韓国、「無権利者」を北朝鮮と読み替えするとき、まさに私達に「人権」概念の空しさを痛切に感じさせずにはおれない。

 北朝鮮での惨状を座視し、豊かな社会が空虚な人権議論にふけっている様は、先ほど述べた、自分たちさえ平和でありさえすればそれでよいという「偽善的平和主義」に通底するものがあるように思う。人権のかけらも与えられないような「無権利者」を置き去りにして、恵まれた人々が叫ぶ「人権」に果たしてどんな意味があるのか。アレントの、そして筆者の言葉に、私ははっとさせられた。


 考えてみると、戦後の平和主義とは、我が国だけが平和でありさえすればそれでよいとうという考えに立脚したものだった。そして、それを支持してきたのが、いわゆる進歩的知識人であり、彼らもまた、自らのイデオロギーのために平和や人権を唱えてきたに過ぎない。そのようななかで、我々の平和や人権という思想が空虚なものになったとしても不思議ではない。今一度、そうした概念の再検証が必要だろう。

(坂木)