2011年7月18日月曜日

タバコ、酒税増税はオヤジ狩り発言より感じたこと

野田財務大臣が「酒税、たばこ税は、税制を通じたオヤジ狩りみたいなところがある」と発言した。

そもそも財務省こそが、今まで財政再建の必要が叫ばれながら、酒税、たばこ税という安易な分野で増税を繰り返してきた官庁である。(世論受けしないからできないというのはあるにせよ)
そして、財務省のスポークスマンと成り果てた野田財務大臣が、このような発言をされることに少し意外感もある。ただし、すでに野田財務大臣は、その任期中にたばこ税を任期中に増税している。好意的に解釈すれば、その増税も民主党マニフェストのつじつま合わせのために、不本意ながらやらざるを得なかったのかもしれないが、自分のやったことに対して無責任でしょ、と言わざるを得ない。まあ、財務省のスポークスマンが今更、何言ってるのという感じですね。

ただし、今回論じたいのはそういうことではない。そしてこの記事はそういう喫煙者に対して批判するというよりはむしろ禁煙者を含む近年の社会全体に広がっている過剰反応に対して疑問の念を投げかける(というより愚痴る)ことを主目的としている。

このたばこ、酒税の造成の話を聞いてある話を思い出した。

それは「健康ファシズム」という言葉である。5年ほど前の文芸春秋の記事で載っていたものだが、どうも禁煙、健康ブームに対して肩身の狭いマスメディアの愛煙家たちがかつて作った造語らしい。その当時でもすでに禁煙の風潮が強く、唇寒しの風潮があったようだが、今、ますます禁煙や健康というワードは、強迫観念のように定着してしまった印象は否めない。典型的なのはここ数年の「トクホ」「健康保健用食品」といった健康食品やたばこ増税への世論の後押し、あるいは健康増進法による喫煙者への規制強化などがあげられる。

私はたばこなど一度も吸ったことはないし、できるだけ階段を使ったり、運動に心がけたり、地味に健康に気を使うタイプでもある。そういう意味ではこうしたブームに対して全面否定する立場ではない(むしろ肯定的でさえある)。しかし、こういうブームの最大の問題点とは、他者に固有の価値観を押し付けてしまうこと、こうしたことを自己目的化してしまうことにあるように思える。

健康増進法により禁煙席と喫煙席の分煙が徹底されるようにさだめられた。こうしたことはたばこの煙が嫌いな人間にとっては朗報である。そして私自身もそうなるのであればそれに異議を申し立てる立場にもない。公共空間でのある一定の禁煙指定も当然、必要だと思う。(少なくともプライベートな空間でたばこは吸えるのだから、喫煙者も公共空間くらい我慢することも必要と考えるから)

しかし、喫煙者が近くにいるのも嫌だという近年の禁煙家の主張、あるいはそれに伴う条例、その他による規制強化がなされているが、そうした規制は果たして喫煙者というマイノリティの権利を尊重したものと言えるのか?というよりわずかな受動喫煙で発がん性が上がるやらやにがつくやら言い出す、あるいは不満に思うさまはあまりに寛容性に欠けた態度と言わざるを得ない。(まあ、喫煙者も禁煙者の人間がいるかもしれないくらいの気持ちを持って、せめて申し訳なさげに吸うくらいの配慮はしてほしいかもしれないが)むしろ、少しは喫煙者の気持ちに立ってあげてもいいんじゃない?という気もするのである。

最近、友人とのトークによく出てくる「自己啓発くん」もそういった部類の人間の1つである。生活習慣、人生設計、仕事への取り組み方、性格、勉強法から睡眠にいたるまでありとあらゆる自己啓発本が発売されている。最近も「もし高校野球部のマネージャーがドラッガーのマネジメントを読んだら」という本が大ヒットセラーとなった。別に自己啓発は悪いことではない。私も、自己啓発本の類は買いこそしないが、多少興味を持ってちらちらと見出しの流し読みをしてしまうことがある。(まあ最近だとこういう行為は情報窃盗と呼ばれ、非難の対象になっているし、私もこうしたことをやってはならないと自制しているつもりなのだが、どうしてもやってしまう)さらに言えば、自己実現や自己啓発的なことは嫌いというわけでもない。露骨にやりはしないが、少しは気にして生きてみようとも思ったりもする。

ただ、こうした自己啓発くんは、確かに最初の志は自分の生活を改めなければ幸せになれないという至ってまっとうなところからスタートしたのかもしれないが、大学での自己啓発的なお方の様子を見たり、人づてに聞いたりしていると、「成長」「努力」している自分がかっこいい、あるいはそういうのに取り組むことを自己目的化してしまい、手段が目的と化してしまっている人が少なくないように思える。

自己啓発していることや健康であること、あるいは禁煙していること。確かにどれも間違ったことではない。自分を高める努力をし、健康的であり、禁煙する。どれも人間として恥じない行動である。私もそう思うから少しは実践しようと心掛ける。

しかしながら、これらを徹底してやろうという人間に限って、私は感心しない人間が多いように思われる。自己陶酔というかそれを徹底してやらない他者に対して十分な理解力を示さない人間が多すぎる。自己啓発しているお方や健康的な生活に気を配られているお方はそんなに偉いの?僕はえらいひととは、震災ボランティアでものを借りようとしたら、「福島から持って帰ってきたものなら焼き捨てて」とかまかり間違えば差別発言ともとれるようなことをするまで健康を気にすることであったり、自己実現していない人間を見下して自己陶酔している人間のことを指すのであれば、そうでないことを望む。

人とはほどほどがちょうどよい。自己啓発は表面上素晴らしい人間を生み出すかもしれないが、世間の自己実現本を読みこんだって、教養や学術、その他人間としての深みをもたらすものは何も身につかない。健康を徹底して気にすることは表面上、データをよくするかもしれないが、人間の体なんて何もわかっていないに等しいので、そんなことをいちいち気にしてストレスをためるくらいならほどほどにしておいて、生活でストレスをためない工夫でもしておいたほうがよっぽど有意義だろう。

自分も含め、社会が余裕を失っているのかもしれない。ただ、自己啓発やら健康やらブームに踊らされず、選択的に自分にとって有意義なものを選べる、また選ばない人に対して偏見を持たず積極的に付き合っていける、そういう寛容な人間になりたいものである。

(執筆者 43)