2011年5月28日土曜日

検察批判を読み解く

  検察のあり方についていくつかの批判が見られる。こうしたことに対して、今までの様々な世論の議論を参照にしながら、考察していきたい。



  最初に、20012002年にかけての外務省批判というものを覚えているだろうか?田中真紀子外務大臣(当時)と鈴木宗男議員との激しいバトルが注目されていたが、それとともに伏魔殿とまで外務省は呼ばれ、批判されてきた。この当時、脱北者が日本領事館に侵入した際、中国官憲が日本領事館内に侵入して主権侵害として批判された「瀋陽日本領事館」を巡る事件や、主権を毀損してきた今までの外交交渉、日朝交渉での不透明さ(田中均など)、裏金疑惑、外交機密費の問題、大使館の資金用途を巡る問題などメディアから外務省は格好の標的とされていたのである。こうした問題の中、外務省解体論というものが持ち上がった。曰く、「本来は首相がリーダーシップを取って外交は進めていくべきなのだから、外務省などなくしてしまって内閣府の中に外交セクションを設ければいい」とするものである。
  中学生だった当時、僕はこうした考えに同調した。しかしながら今から考えれば問題点を抱えていることに気づく。この議論に同調するならば、次の2つの結論しかえられない。



      外務省の政策立案機能・決定権限を全て内閣府に委譲して、外務省はただの実働部隊にしてしまう。結果、現場では基本的に何も考えられない組織になる。例えていえば、省に昇格される前の防衛庁になるだろう。防衛庁は政策立案や戦略決定に関してなんら発言権を持っていなかった。さらに言えば、自衛官の人事権さえ内閣府に握られている構造になっていた。大胆なことを言ってしまえば、現場での戦術に内閣が口出しすることも不可能ではなかった。元来のシビリアンコントロールの考え方とは、政府・議会・軍上層部が三すくみで牽制をし合いながら、議会は予算、政府は軍上層部への人事権を確保することで、専門家としての軍の能力を損ねることなく、軍・政府・議会の同調性を確保し、最大の暴力組織を統率する事が出来るようにすることを目的としている。このことを考えれば下士官にまで人事介入できるのは、明らかに過剰な政治介入である。



      外務省をそのまま、内閣府外交局(仮称)に移転する。省でなくなるために権限は縮小するだろうが、組織を維持するため、基本的な問題点は引き継がれてしまうだろう。



  このように単純な議論から組織改革のみで外務省の問題を根絶できないことが分かる。
もう一つ、例を挙げたい。郵政民営化の問題である。前提として私は郵政民営化には賛成である。それはグローバリゼーションの流れの中で、官業のまま経営を続けることは利益拡大の面から限界があるし、官がやらなくても良いものは民間が出来る限りやるべきだとする官から民への思想(ネオリベラリズム的な考え方)を条件付ながら私も支持しているからである。市場は暴走しない範囲内で自由でなければならない。必要な規制は課すべきだが、あくまでも経済活力や新しい産業の創出には自由な市場が不可欠だと考えるからである。



  しかしながら、郵政民営化の重要な根拠の一つとなった財政投融資改革を進めるという点では疑問を禁じえなかった。財政投融資とは、財務省が抱える第二の予算と呼ばれるもので、郵貯資金を特殊法人に貸し付けることで、官業に資金を流し込んでいたのである。しかしながら小泉政権下の財投改革で財政投融資は郵貯資金からは用いられなくなり、財投債として国債扱いの上、市場で買い取ってもらうようになった。しかしながら郵貯には運用能力がなかったので、実際には財投債を再び購入してしまい、財投改革は中途半端に終わってしまった。(財政投融資は大幅に減少したので失敗というわけではなく、部分的に成功したというのが正解。ただ発行の源泉は失われていないので再び増やすことが出来る)これを入口の面から改革しようというのが小泉政権の主張であった。でも、民営化すれば郵貯にすぐに運用能力が身につくわけでもなく、また郵貯に運用能力が身についても、国債を買う以外に運用先がないという経済状態にほとんど変化がない以上、財投債は郵貯が買わなくても民間金融機関が買ってしまうだろうということは容易に推測できる。結局、景気がよくならない限り、入口の改革をしても意味がなかったのである。



  こうしたことはいくつも挙げられる。省庁再編もほとんど公務員削減や縦割り行政の是正に効果がなかったとされるのが、一般的評価である。要は看板の付け替えである。これらも組織を変えれば、問題は全て解決すると誤認したが故のものであった。問題は根幹をどうにかしなければ解決しないのである。



同じことは検察にも言えるのではないか?検察においても単に組織を移すだけでは上のような問題が起こることは必死である。完全に意思決定と実働部隊を分離してしまえば、現場の柔軟な対応が出来なくなる。彼らが最終的に起訴まで出来るからこそ権力を持っているのだから。かといってそのまま警察機構に捜査権限を移したとしても問題は何も解決しない。



  私には検察特捜部解体論はメディアが何度も繰り返してきた、「抜本改革論」と同列に見えてならない。要はその場の勢いで言っているだけなのである。



  そんなことを繰り返すぐらいならば、「論でなく事実で」とことん検察批判をすべきである。
例えば、刑事事件とは違って具体的物証が捜査開始時点でない(だいたいは組織内部からのリークでスタートする)政治・官僚・経済関係の犯罪に対して、検察特捜部が頼ってきた「ストーリー型」の捜査手法の限界を指摘すべきであろう。ストーリーに当てはめる捜査手法を続けている限り、エリート主義を根絶しようが、組織の劣化を改善しようが、証拠集めに限界がある以上、冤罪が発生するのは必然である。まさに証言以外に証拠を見つけるのが難しい、痴漢犯罪と同じである。むしろ警察組織に捜査権が委譲されるくらいで証拠が乏しいのに冤罪が根絶できる(ないし減少できる)とどういう根拠で指摘しているのだろうか?私はバカなので御教授願いたい。もしや警察組織になると検察のような権力がないから、権力犯罪を立件できなくなって、権力者が犯罪をやりたい放題になるので、冤罪が減少するとでもお考えなのだろうか?



そして、捜査手法の多様化として、司法取引・おとり捜査・盗聴などの新しい捜査手法の導入・活用を主張すべきであり、冤罪抑止のための取調べ過程の可視化や検察・警察組織の民主化(国民審査・懲戒請求制度の導入)を主張すべきである。私は今まで検察が神のような組織と見なされていたことこそがおかしいと考えている。日本は有罪率99.97%(但しこの言葉を述べる人は無罪を主張した人では有罪率が95%、つまり20人に1人は無罪を勝ち取っているという事実を無視しているが・・・)であり、そうした考え方を助長してきたが、検察がミスを犯さないと考える方が無理があると考える。むしろ検察も人なのだからミスを犯すのである。だからこそ三審制で冤罪を可能な限り、阻止する取り組みがなされているのである。



そこから検察そのものの組織改革、風通しの良い組織の実現を図る必要がある。自己完結を図れる組織だからこそ、独立検察官のような検察を取り締まるための捜査官が必要になるだろう。例えば小泉政権のときに問題となった三井氏の事件(大阪地検の裏金問題)では、彼が告発しようとする直前に微罪で立件・起訴される事態となった。こうしたことは検察が組織防衛のためにやったといわれても仕方がない。立件する必要があっても「直前に」立件する必要なんてなかったのだから批判されても仕方がない。李下に冠を正さずである。ちなみに三井事件では小泉政権を巡る陰謀論もささやかれるが私はこうした意見には組しない。あくまで検察組織の問題点として指摘するにとどめる。



その上で、検察組織そのものを解体しなければ、変わらない事実が存在するならば変えればよろしい。しかしながら今までに見てきたようにほとんどの問題は入口の論議ではなく、出口の論議で解決してしまった。最後に入口の論議として、検察権力が過大になってしまったことに対する解決策との指摘があるが、これに対する反論を持って締めくくりとしたい。



まず、私には検察組織のみが過大な権力を持っているようには見えないのである。それは今回の尖閣諸島の問題を見れば明らかではないか?もし検察権力を過大評価する人間の言うことが正しいならば、検察は尖閣諸島の問題について内閣(特に仙石官房長官)に圧力を受けた時点で、党幹部か内閣の閣僚の1人でも冤罪で立件すればよかっただろう。そこまででなくとも何らかの政治的スキャンダルをでっち上げればよかった、それこそ石井一参院議員の言うような「青年将校のような心理で立件している」を実践すればよかったのである。そうすれば検察は圧力に屈する必要なんて全くなかった。しかしながら青山氏は「検察の事務方トップである検事次長のみがこれがきっかけとなって内閣の指揮権発動の乱発となることを恐れて、検察組織の独立を維持するために、釈放を決断した。他の検察幹部は指揮権を発動させたとしても内閣の圧力に屈するべきではない。むしろ指揮権を発動してもらって法的根拠を持たせたほうが、法治国家として望ましい。超法規的措置を避けるためにも粛々と法に従うべきだ、これは強硬な意見ではないと主張していた。」と指摘している。(青山氏もややリークと思しき情報に誘導されがちな部分もあるので信用できない部分はあるが、重要な指摘ではあると思う)



検察権力も政治権力・世論の動きを見ながら動かざるを得ない。最後に隣国・韓国の話題を指摘して終わろう。小沢氏の関係政治団体が立件された際、韓国のメディアはいっせいに驚きをもって報道した。それはなぜか?検察が与党の最高幹部を立件できることに驚いたからである。かの国では与党幹部の立件はきわめて困難である。検察機関が国民から信頼を受けていないからである。さらに検察が信頼を受けていない最大の原因は与党の汚職を見逃してきたからだというのは、皮肉なものである。いくら韓国検察が与党幹部を立件したいと思っても今までの恣意的なやり方が検察への冷たい目につながり、世論のバックを受けられないのである。確かに今までは検察は絶大な力を持っていたように見える。しかしながら検察の力は世論の絶大な信頼をバックにしていたからであり、今回の件を機にほぼ消滅したに等しい。これは隣国・韓国の現実を見れば明らかである。もし検察がこのまま信頼を取り戻すことが出来なければ与党の国会議員が摘発されるような事例は皆無になるだろう。そういう意味では私は今の検察に徹底した自浄作用を働かしてもらい、再び信頼される検察に立ち直ってほしいと期待している。検察は世論の支持がなければ権力に立ち向かうことの出来ないひ弱な存在なのである。強い検察がなくなってしまってからそれに気づいてもおそい・・・。



結局、極端な意見がメリットをうむことはほとんどない。私たちに求められているのは極端なセンセーショナルな意見を排して、いかに社会を改良していくかを指摘できる大人の態度ではないか?我々は自称・良識ある保守を標榜している。勿論、あくまで自称であるとの謙虚な精神は必要であろうし、本当にそうであるかは周りの判断にゆだねなければならないが、すくなくとも標榜するからには極端な意見を排する努力が必要であろう。