2011年5月28日土曜日

定住外国人は「市民」か?

生駒市の住民投票条例において、定住外国人を含め住民投票の投票権を付与する方針であることが波紋を広げている。すでに複数の地方公共団体において、外国人に住民投票の投票権を付与する例が存在する。しかしながら生駒市での投票権付与は、投票結果に対する尊重義務を議会・市長に課すなど、地方政治に対する影響力が非常に大きいものである。

外国人参政権を巡る論議についてはさまざまな論点が存在するのでここに軽く整理し、個人的な意見を述べたい。

①憲法上の問題
「公務員を選定し、または罷免することは国民固有の権利」(15条1項)、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員で」(43条1項)とする憲法条文と地方参政権を外国人へ付与することの整合性。憲法解釈上では国政への参政権付与は無条件で違憲であるが、地方参政権に関しては、違憲説(地方参政権を外国人に付与するには憲法改正を必要とする)と容認説(地方参政権を外国人に付与することは権利として認められていないが禁止もされていない)に主に分かれているといえる。
最高裁はこうした問題に対して、容認説とも違憲説ともどちらとも受け取れる判決を出している。主文のみの解釈であれば違憲説としか読みようがない。(憲法上の理由から地方参政権の付与は認められない)しかしながら、傍論にて特別定住者(いわゆる在日コリアン)に対する地方参政権は憲法上否定されていないと記述し、曖昧さを残している。民主党など地方参政権推進派はこの傍論を地方参政権容認説として論拠の1つとしており、一方、自民党など地方参政権慎重派は主文を重視し、違憲説の立場を採用している。
なお傍論を法的拘束力を有すると解釈するか否かは、説明すると非常に長くなるのでここでは省略する。
また憲法学者では違憲説が多数説となる一方、一部に部分的許容説を採用する学者がいる。しかしながら部分的許容説をドイツから紹介した長尾中央大学教授が、部分的許容説を撤回し違憲説に論調を転換するなど部分的許容説はやや分の悪い状態になっているともいえる。

個人的には憲法条文をどのように読み込んでも、憲法改正または大胆な解釈改憲を必要とするとしか読み取れないので、このままの憲法条文ならば外国人参政権付与は望ましくないと思われる。

②諸外国での外国人地方参政権付与の動向
ヨーロッパの数カ国において、国政を含む外国人参政権(選挙権)を認めており、EUでは外国人地方参政権をEU市民に限り相互承認の形で付与する形をとっている。
先進国では外国人参政権付与の流れが整っているという言い方も出来るし、一方でEUのような政治的統合を進めるという共通した理念を持っている国同士での例外的事象とも言うことが出来る。

個人的な意見としては諸外国がどういう動向であろうと、日本の国益に沿って検討を加えるべきなのだから、全く気にしなくて良いと思う。

③多文化社会における社会統合としての外国人地方参政権
外国人地方参政権付与を推進する立場からは、日本は将来的に多文化主義的な社会を目指すべきだとの視点から、外国人が日本国籍を有さずとも社会に統合されていくためにも、地方参政権を付与すべきだと主張する意見がある。一方で外国人地方参政権を付与しても外国人の社会統合は実現しない、むしろ断絶が拡大するとの意見も存在する。オランダにおける反イスラム的論調をとった映画監督や政治家が暗殺される事件など極端な事例もある。

個人的には外国人の社会統合を阻害するというのに1票を投じたい。私は一般的な保守論者とは違って、移民・難民積極的受け入れ派である。様々な考え方、嗜好、技能を持つ人々を受け入れることは国の活力を高めることにつながると信じるからである。(移民の受け入れ方法などに関してはまた別個に論評したいと思うが、もちろん無条件に移民を受け入れるべきとは考えていないことはここに明記しておく。むしろ国益に沿う形での移民受け入れの形を模索すべきであろう。)また統合圧力もフランスに見たように、必ずしもうまく行かないという考え方にも賛同する。(したがって根本的な部分、例えば言語・社会慣習の理解などの必要最小限は同化政策を採用するにしても、全て統合しても統合しきれない彼らのアイデンティティについてはきめ細やかな教育サービス、マイノリティ団体設立などの形で多文化主義の考え方を部分的には認めざるを得ないとは思う)しかしながら参政権を付与すれば社会統合するなどというナイーブな考え方にも到底賛成できない。むしろ参政権も付与された外国人にとって、すでにほとんど不便な点もなく、権利も無条件に認められているのにあえて国籍を取得し、更なる社会統合を目指す意欲がわくのだろうか?

その他、納税しているから外国人地方参政権を付与すべきだとの論調も存在するが、この論調に関しては、「納税=インフラ利用に対する対価」とする基本的な考え方を無視したものであるから、ここでは論評しない。

ここまで長々と述べてきたが、私から見ればはっきり言ってどれもこれも枝葉の主張である。多文化社会も、社会的統合も、憲法解釈も、諸外国の動向もどれも重要な論点だし、論じるに足るテーマだと思うが、こと外国人参政権の問題では以下の問題がなかなか論じられていないように思われるのだ。

本質的な問題を述べよう。先ほど述べたことと多少かぶるかもしれないが、結局のところ外国人参政権を容認するか否かは定住外国人を「市民」とみるかそう見ないかの話である。もっと分かりやすく言えば、外国人に参政権を与えることで、その外国人は責任を持って投票行動を行ってくれると信じることが出来るのか、出来ないのかの話であると考えている。

国籍を日本にするとは日本という運命共同体に参加することを表明するという重要な意味がある。日本という国が失われれば庇護してくれる国を失う人々なのである。外国籍であることは他の国の運命共同体に寄りかかりながら、日本という社会に参画することを意味している。彼らは万一、日本に災厄が襲っても国籍に応じて外からの助けを求めることが出来る人々である。日本人は国、あるいは国籍というものの意味にあまりに無頓着すぎるが、国籍とは本来それほどの意味を有しているはずである。外国人参政権を与えるとはすなわち、いざとなったときは他国に助けを求めることが出来るのに、平時では日本(の一部)に口出しすることが出来るという極めて都合のいい立場になれることを意味しているのである。日本国籍を有している限り、参政権を行使したことの責任は数年後の自分の生活に直結する。しかしながら他国の国籍を有した瞬間にそうした責任を負う必要はない。(本国に帰ることによる生活再建など多少の不利益はあるだろうが)彼らは確かに日本国民の政治的選択によって不利益を被るリスクを背負ってはいるが、一方でそうしたリスクが発生したときに本国に帰国し、保護を受けるというセーフティーネットを持った人々である。

地方においても同様である。1地方と国は直結した関係を持っている。与那国島での自衛隊基地受け入れを巡る論争、対馬での韓国人の土地購入を巡る論争の例を出さずとも、離島における地方自治の国政への影響は計り知れないことは想像していただけるはずだ。さらにいえば原子力発電の受け入れ、核燃料サイクルのための最終処分場を巡る論議、大型公共事業の推進・中止、・・・、こうした国政と地方とのつながりの例には枚挙に暇がない。さきほどの例はほぼそのまま地方でも適用することが可能なのだ。地方政治は決して地方における些細な事象のみを決定しているわけではない。本質的に日本国全体が運命共同体である以上、1地方の決定も全国民がある一定の影響を受けるものなのだ。

そう、こうした重みを踏まえたうえで外国人を「市民」として迎え入れるかが問われているのである。某友愛総理がおっしゃったような度量とか寛容さとかそういった問題ではないのだ。彼らは市民と見なすに足るもの、つまり「責任」を持っているのか?そこを無視して、空虚な議論を繰り返しても仕方がない。果たして定住外国人は信頼するに足るものを持っているのか?

定住外国人は「市民」か?ここを無視せずに是非、各政党のみなさんは議論していただきたいと思う。