2011年5月2日月曜日

現代社会における教養の価値

 私は就職活動を通して感じたことがあります。それは教養というものが蔑ろにされているということです。ここでいう教養とは、知識や見識はもちろんですが、道徳性や倫理観も含まれます。教養の没落という事態に対して私は危惧を覚えます。こうした風潮のなかでは企業も学生も、そして社会全体も非常に不幸になってしまうと思うのです。以下、教養の没落にともなう問題を考えたいと思います。

 今の企業は“人物重視”だといいます。学歴や成績ではなく、人となりで評価するというのです。“人物重視”というと聞こえはいいですが、裏を返せば客観的な基準は存在せず、どうしても恣意的な選考になってしまいます。そうしますと、人事に“ウケのいい”学生が有利になりがちです。あるいは偽りの人格をつくることに長けた上辺だけの人間が“人物重視”の名の下、採用されていくわけです。

しかし、本来、良き人格というものは深い教養に裏打ちされてはじめて形成されるものです。どんなにみてくれはよくても教養を欠いた人間が企業に入った後に役に立つとは思えません。

私事で恐縮ですが、以前こんなことがありました。とあるマンガで「なおざり」と「おざなり」の区別ができていないセリフを見つけたのです。私は驚くと同時に、編集の方は一体何をやっているのかと呆れかえりました。本来ならば言葉遣いに細心の注意を払わなければならないはずの編集者でさえこの体たらくです。

また、放送業界ではもはや当たり前になっていますが、「10分」は「じゅっぷん」ではありません。「じっぷん」です。NHKのアナウンサーですら平気で口にしていますがこれも情けないことです。誰も指摘する人はいなのでしょうか。教養の没落の弊害がここにも見て取れます。

そして教養が蔑ろにされるようになると、学生の側にも、「勉強していい大学に入ってもいいことない」とか「どうせ勉強したって職にありつけない」といった雰囲気が蔓延することになります。それによって勉学に対するインセンティブが削がれてしまうわけです。そしてさらに教養の価値が低下します。まさに負のスパイラルです。これは我が国全体にとっても大きなマイナスであると言わなければなりません。やはり真面目に努力をしてきた人間が報われる評価制度にするべきではないでしょうか。今のままでは“正直者がバカを見る”ことになるのです。

以上に述べたように、教養の没落は社会全体を没落させます。確かに昨今の不況下、企業の側としては、“即戦力”が欲しいという心情は理解できます。しかし、果たしてどれだけの学生が“即戦力”として使い物になるというのでしょうか。仮にそのまま社会にも通用する力量をもった学生がいるとしても、おそらくそういう人が既存の組織に属することは稀でしょう。学生の本分は勉強です。ならば勉強を通して得た教養をもっと評価するべきではないですか。私はなにも学歴社会にしろと言っているのではありません。ただ、真面目に勉強した学生が報われるようにしたいだけなのです。そしてそれは、企業にとって短期的にはマイナスになっても、長期的にみればより大きな利益が得られるはずです。