2011年5月28日土曜日

共産主義は実現可能か?

結論から言おう、不可能であると。

共産主義の考え方とはまさに以下の考え方に集約されると個人的には思っている。

①必要に応じて受け取り、能力に応じて働く。(その前段階である社会主義ではそれを実現するための生産力は確立されていないので労働価値説に基づいた労働に応じて受け取るの考え方が徹底されるとする。つまり地主やブルジョワジーのような不労所得のみが排除される)

②生産力は極大化されているので、国家ないしそれに類する生産調整機関を必要としないから国家は自然消滅する。(その前段階として、社会主義社会では国家が消滅できない代わりに労働者は組合を組織し、自らの生産活動について決定する権能を持つべきだとする。ロシア革命に言うソビエトのことである。)

③こうした体制の変革は常に反動と隣り合わせであり、労働者はそうした反動勢力からの動揺にさらされる。したがって、共産主義社会を実現するために手順を正確に指し示すことの出来る前衛的政党(いわゆる共産党)が必要である。

柄谷行人は共産主義社会への移行を、人間性の回復の観点から是認した。つまり人間とは贈与する生き物だが、資本主義社会は金銭的な非人間的関係に押し込めてしまう。交換原理に基づく関係に押し込めてしまう。しかしながら国家・ネーション・資本の3者による絶妙なバランス関係は非常に有効に作用しており、これらを1つ排撃しても他の2つによってリカバリーされてしまうことを指摘した。いくら資本を攻撃しても、それらの攻撃はネーションの団結による平等な分配を目指す運動に回収されてしまう。例えば反グローバリゼーションを巡る左派勢力による反WTO運動が代表例である。当初は世界の労働者階級の団結を掲げていたにもかかわらず、後に反WTO運動は、世界同時革命の方向性ではなく、反グローバリゼーションによるネーションの再建(保護貿易への転換)、民族的左派に主張がのっとられてしまうのである。したがってこうした関係を断ち切るには世界同時革命による社会主義革命しかないと考える。

しかしこうした主張からある1つの結論が見えてこないだろうか?

現行体制でほとんどの問題は解決できる、極めて有効なシステムなのだということが。労働者・資本家共に完全な不満を持たない極めてバランスの良い有効なシステムだからこそ今まで共産主義勢力が散々叫んできた世界同時革命には至らなかったのである。どこかに欠陥を抱えれば、別のサイドがそれに対する調整を主張し、是正を試みる。

資本=国家=ネーションの社会では多様な価値観が是認される。

資本の側に立った合理的主張、国家の観点に立った公共の利益の主張、ネーションの観点に立った平等化の主張、いずれもがこの社会にとっては必要不可欠な要件である。いずれがかけてもこの3者の平等関係は成り立たない。こうした視点の多様性は社会の永続性には必要不可欠なものである。これらを統合調整している考え方こそが市民的民主主義(いわゆる民主主義)である。どんな考え方も排除されない政治的自由に基づいた民主主義である。一方、視点の多様性に欠かせない市民的民主主義は共産主義とは両立し得ない。なぜならば共産主義社会では「前衛的政党」が絶対的に正しいと規定されるからである。つまり共産党が指導的地位に立たなければならない。しかしながら市民的民主主義はそうした1勢力の絶対視に抵抗する考え方である。

共産主義は実現可能か?

生産力の極大化は宇宙が有限である以上、困難である。人間の欲求が無限に広がっている以上、そもそも欲求以上の物資が生産できる社会が実現できると考える方が困難である。当然、国家も消滅するわけがない。

そしてここが一番重要な点だと思うのだが、共産主義には思想的多様性を保障する枠組みが存在しない。確かに組合主義による話し合いでそれをカバーするのだと主張するのかもしれないが、それらの話し合いも「共産主義社会」を前提とした枠組みでは、思想的限界を抱えているといわざるを得ない。なぜならば本質的に共産主義的でない考え方を排除するものだからである。

多様性を損なった社会はどのような社会であっても滅亡への道を歩む。共産主義はある1つの考え方を正統とし他者に強制した時点で限界を抱えている。

共産主義者は「スターリン主義」や「官僚主義」といった形で運用上の失敗を強調する。確かに共産主義の失敗の多くは運用上の失敗に起因したのかもしれない。少なくともキューバのカストロのように共産主義的統治を行っても致命的な失敗を犯していない例もあるから、その面は否定できないのかもしれない。

しかしながら私に言わせて見れば、そうした見方は本質的なものではない。共産主義ではどのように歩んでも官僚主義的にならざるを得ない。スターリンがなぜ共産党で独裁体制を敷くことが出来たのか、様々な要因が挙げられるが、アメリカの歴史学者カーは、共産党がスターリンが指導者になる前の段階で大量の党員を受け入れ、党組織を急速に拡大させたことが一因であると指摘する。党組織は肥大化したが、そうした党員は前衛的な共産主義思想を持っていたわけではなかった。したがって指導部による知識の独占が生じ、スターリンによる独裁を準備してしまったのだと指摘する。つまり大衆に親しまれる共産党、一般大衆・人民に根ざした共産党組織とは本質的にスターリン主義にならざるを得ないのだ。

ならば共産主義がミスを犯さないためには常にエリート主義を採用せねばならないのか?確かに官僚主義には走らないのだろうが、一方でそうしたエリートは少数に限定されているという意味では思想の多様性は全く担保されない。いずれ失敗したときにその試みを是正するチャンスは市民的民主主義と比較して、ほとんどないといってよい。

私はここで共産主義の実現可能性にさじを投げざるを得ない。

一部の学生運動をしている諸君に尋ねたい。いったいどうすればこの本質的な問題を解消できるのかと。