2011年5月22日日曜日

われわれは”保守主義者”か

 恥ずかしい話ではあるが、保守主義者を自任しながらも最近になってようやくバークやオークショットといった保守主義の古典を読むようになった。そして、保守主義について勉強すればするほど、私は保守主義というものがわからなくなった。

 オークショットによれば保守主義の定義は以下のようになっている。

「未知なるものよりも馴れ親しんだものを、試みられないものより試みられたことを、神秘より事実を、無限より有限を、遠いものより近いものを、億万長者の豊かさより不足感がない程度の豊かさを、完全さより便利さを、ユートピアの至福より現在の笑いを、選好すること」

 つまり保守主義は「変化を嫌う」、「社会の現状を維持する」思想である。そしてそこから、共同体の伝統や価値観、倫理などを守っていかなければならないという思想が派生的に生じる。ただしそれはあくまでも漸進的手法によらなければならない。

このように考えた時、私は自分がこの様な意味での保守主義者なのだろうかと自問した。確かに私は人間の理性には懐疑的であるし、安易な改革にも否定的である。しかし、それ以上に私は日本が好きであるし、日本という共同体を積極的に支持していきたいと思っている。そしてそのためには急進的な改革もある程度は容認する(ただし、熟議を経た上での改革ではあるが)。つまり、私は厳密にいえば、保守主義者ではなく、ナショナリストなのではないだろうか。少なくとも、ナショナリストであり保守主義者である。このように両者は究極的には異なるものなのである。

 翻って、現状はどうであろうか。果たして日本の“保守”と呼ばれる主張は本当に保守的なのだろうか。憲法9条改正や歴史認識問題、領土問題など、これらに関する“保守”の主張は厳密にいえば保守ではない。それは極めてナショナリズム的、リアリズム的なのである。むろん、それが悪いことだとは言わない。彼らの主張はもっともであるし、彼らも国のことを思って発言しているのであろう。

私が思うに、戦後においては、「愛国」や「ナショナリズム」といった言葉が否定的評価を受け、ナショナリズム的言説は“保守主義”という名を隠れ蓑にするしかなかったのではないか。それゆえ、日本をまっとうな主権国家にするため急進的改革も厭わないという姿勢―本来の保守主義は急進的改革を嫌う―も保守主義としてみなされるのである。

しかし、それらは多分に愛国的であって、保守的ではない。つまりは名前の問題なのであるが、それは決して瑣末な問題ではない。日本的文脈における保守主義という雑多な思想は、戦後日本が長らく置かれてきた思想的混迷を象徴しているのである。

 あらゆる愛国的主張が保守と呼ばれることは好ましくない。ナショナリズムは良いが保守主義は良くないという話ではないし、逆でもない。私が言いたいのは、すべてを保守主義として片付けるのではなく、どれが真に保守主義的であり、どれがナショナリズム的であるのかを峻別しなければならないということである。安易な改革を語る人間や気分的ナショナリズムに浸る人間を保守主義者と呼んではならないのである。そして、氾濫する自称“保守主義者”を見極めなければならない。