2011年12月5日月曜日

書評:『上野千鶴子に挑む』(千田有紀[編]、勁草書房、2011)

上野千鶴子といえばフェミニズム、社会学の泰斗である。その上野の退職を機に彼女の研究室の出身者が寄稿した論文を編集したのが本書だ。本書は、初期のフェミニズムから最近のケアの社会学まで、上野の研究の軌跡をたどり、それぞれに批評を加えるという構成となっている。

 この書評では、主としてフェミニズムについて論じたい。ただ、私自身は上野の思想に詳しいわけではない。フェミニズムの入門書はいくつか読んだことがあるが、他に彼女の著書を読んだというわけでもない。したがって、あくまでも本書を手掛かりに論じていくわけだが、それゆえ至らない点があるかもしれない。

①上野フェミニズムの政治性

 私の知っているある社会学者が上野のことを政治的と評していた。その教授も家族やジェンダーを研究対象としており、いわば上野と同じようなフィールドの学者からそのような言葉が発せられたということに少々驚いた(しかもその教授も女性である)。本書を読んでその意味がわかった。すなわち、彼女はフェミニズムを社会的ムーブメントにするために、積極的に党派性を引き受けたのであった。例えばそれは、いわゆるアグネス論争に関しての以下のような記述にもはっきりと見て取れる。

 
この上野の参入は、本論争を、芸能界におけるアグネス批判から子連れ出勤は是か非かをめぐる「国民的大論争」に発展させた。上野は、「子連れ出勤という一般性のレベルに置きかえて」考える文脈をつくり、「議論を起こすための仕掛け」として、あえてアグネス擁護にまわった方がいいという「戦略的な判断」をしたのである。(p.36)


 このように、学者という立場をいささか逸脱している上野の姿勢は良くも悪くも“政治的”である。彼女の姿勢をみて、学問の―とりわけフェミニズムの―中立性が損なわれたと感じる者もいるだろう。だが、上野自身が述べるように、フェミニズムが実社会での運動から発展してきたものである以上、それが党派性を帯びるというのはやむを得ないというのも事実であるし、実際にフェミニズムを日本に浸透させたという上野の功績も大きいだろう。



②上野フェミニズムは何を目指すのか

 そのような上野の功績を認めながらも、私は上野の唱えるフェミニズムには賛同できない。正確にいえば、理解できないのである。

 上野のいうフェミニズムとは「女が男と同じくらい強くなる」という類のものではない。女が男と同じ土俵に立つのではなくその土俵から逃走する、「難民化」なのだという。「差別からの解放は、一級(市民)になることのように見えるが、実のところそれらは自らの解放の条件を強者の手に渡すということ」であり、したがって「敵を相手にしないことで、敵が要求している承認と共に共犯化を価値のないものとして無視する」。「逃げよ、生き延びよ」。これこそが「難民化」の思想である。

 そして、国民や民族という変数にも還元されず、女という変数にも還元されず、個人を構成するさまざまな変数の交わった地点にいる「わたし」を主張する。

 言葉では理解できるものの、結局のところ上野が具体的に何を目指すのか、よくわからない。現代社会が男性によって支配されているのならば、その社会から逃亡するのか。しかしどこへ?

 また、「わたし」というものが多様な変数から構成されているのは事実だとしても、ではその中でフェミニズムは何を目指すのか。女という性が自身を構成する一要素でしかない以上、女性性を前面に押し出すフェミニズムにどれほどの価値があるというのか。この主張はもしかすると、今まで女性性ばかりに着目してきたフェミニズムの否定になりはしないだろうか。

 さらにいえば、国民や民族という変数にも還元されず、女という変数にも還元されず、個人を構成するさまざまな変数の交わった地点にいる「わたし」を叫ぶならば、男もそうであろう。当然のことだが、男性も男という性だけに還元される存在ではない。男とて、さまざまな変数の交わった地点にいる「わたし」に変わりない。上野の主張は当たり前すぎるほど当たり前だ。

 上野フェミニズムは何を目指すのか。上野の研究を丹念に探っていけば、答えがみつかるのかもしれない。しかし、本書も論者たちがそうした具体策に何ら言及していないところをみると、おそらく上野自身もそうなのだろう。


③女たちに裏切られたフェミニズム―「かわいい」への逃避行

 さて、ここで上野フェミニズムから離れ、フェミニズム全般について論じたい。私は常々、日本社会において、あるいは一般女性の中で、フェミニズムというものが全くといっていいほど浸透していないと思っている。個人的な体験で恐縮だが、ネットの掲示板で、デート費用は男性が負担するべきという女性が未だに多数派であることを知って唖然としたことがある。また、ファッション誌などでは、旧態依然として異性にモテることが至上命題かのごとく語られている。こうした現状をみてもわかるように、多くの女性は自立よりも、男性に依存するほうを選んでいる(もちろん男性についても同様だが)。

 こうした中で、本書で最も印象に残っているのが、第4章「「二流の国民」と「かわいい」という規範」(宮本直美)である。本章での主張は要約すれば以下の通りである。「かわいい」という言葉の意味の特性は、相手の存在を決して脅かさないことであり、その意味で相手を絶対的に安心させることである。そしてそれは、常に相手より下の位置にいて愛されることを望んでいる、従属性、劣位が組み込まれているのである。「かわいい」という言葉が日本女性の規範となっている現在、女性たちは、自ら意識的に二流国民であろうとするのではなく、「かわいい」に憧れることによって瞬時に従属的な立場に置かれている、いや、自らそれを望んでいるのである。

 全く以て筆者の言う通りだろう。上野が「かわいい」を「女性が生き延びるための媚態の戦略」と喝破したように、「かわいい」は、女性が男性に依存するための装置なのである。そして女性に「かわいい」を求める男性もまた、女性を従属させることについて共犯関係にあるのだ。女は男に依存することで必要な保護を得られるし、男性も支配欲を満たすことができる。両者のニーズを叶えるのが「かわいい」という装置というわけだ。

 であるとするならば、女性の自立を唱えてきたフェミニズムは、その味方であるはずの女性自身によって裏切られてしまったといえる。多くの女性は、意識的にせよ無意識的にせよ、自立など望んでいないのである。だからこそ、フェミニズムは一般女性に浸透しなかったのだろう。そして、自立することに伴う責務や苦痛などを放擲し、「かわいい」二流国民へ逃避行したのであった。

 「かわいい」二流国民へ逃避行してしまった女性たちにフェミニストはどう対処するのだろうか。もはや、フェミニストの敵は男性だけではない。むしろ女性たちをどう“啓蒙”するのか、これがフェミニズムにとって焦眉の急であろう。

(坂木)