2011年12月23日金曜日

オタクたちのホモソーシャルな関係

 今回はジェンダー論第二弾である。イヴ・セジウィックのホモソーシャル理論を用いて、現代のオタクたちのジェンダー意識について論じたい。結論からいうと、オタクたちのジェンダー意識は、ずばりホモソーシャルを体現したものであるといえる。

 ホモソーシャルとは、イヴ・セジウィックに提唱された、異性愛男性の友情・同胞愛によって支えられた連帯関係を指す、「ホモフォビア」と「ミソジニー」から成る概念である。セジウィックによれば、古代ギリシアから近代に至るまで西洋はホモソーシャルな社会であったが、ホモソーシャルはホモセクシャル(同性愛)と断絶したものでなく、連続したものであったという。ホモソーシャルな社会は潜在的に同性愛的であった。彼女は、男性が異性愛関係をもつのは男同士の究極的な絆を結ぶためであり、女性は男同士の絆を維持するための媒介であるという。ホモソーシャルな社会では、女性は男同士が絆を結ぶための手段になっているのである。これは、レヴィ=ストロースの「女性の交換」論、すなわち、女性は婚姻の相手としてではなく、男同士の絆をゆるぎないものにするために交換される物であるという考えを受けたものである。この女性の交換から、「ホモフォビア」=同性愛嫌悪と「ミソジニー」=女性嫌悪が生まれる。女性を介しない直接的な関係(=同性愛)を避け、同時に女性を単なる道具に貶める(=女性嫌悪)からだ。

 さて、ホモソーシャル理論の説明はここまでにして、本題に入ろう。論を進めるにあたって、「ホモフォビア」と「ミソジニー」という二つの観点から考察する。なお、ここでいう「オタク」とは、「マンガやアニメを重度に愛好する人間」に限らず、例えば、○○速報」といった掲示板に書き込みを行う者も想定している。しかし、私にはどのような階層の人々がそのような掲示板に書き込みをしているのか断定できないため、そうした人々も便宜的に「オタク」と呼んでおきたい。もしかすると、両者は違う階層なのかもしれないが、おそらくはほぼ重なるだろうと考えている。

「ホモフォビア」

 こちらについては、あまり論じる必要はないだろう。オタクたちの「ホモフォビア」は明らかである。例えば、彼らがBLややおい、それを好む「腐女子」たちに嫌悪感を露わにすることや、掲示板などで同性愛的な内容のスレに、茶化すような書き込みを行うことからもわかる。

「ミソジニー」

こちらも、「ホモフォビア」ほどではないにしろ、顕著に表れている。例えばコミケなどで、自身の愛好するキャラクター(それは女性であることが多いだろう)が描かれた同人誌を購入するとき、まさに描き手と読み手の間で、女性の交換がなされているといえる。また、好きなキャラクターをめぐり熱い会話を交わすとき、女性を媒介にホモソーシャルな関係を構築しているのだ。

以上のように、オタクたちは、「ホモフォビア」と「ミソジニー」に立脚したホモソーシャルな関係を見事に体現しているのである。

誤解のないようにいっておくが、私は何もオタクたちを非難しようとしているのではない。私がいいたいのは、ホモソーシャル理論の妥当性である。セジウィックのホモソーシャル理論は英文学を対象としたものであるし、本人もこの理論が他の対象にも当てはまるかはわからないと述べている。

しかし私は、ホモソーシャル理論は英国を離れ、遠いこの国でも通用すると考えている。実際にホモソーシャル理論は、オタクたちの言動や性規範を明快に解明してくれる。また、BLややおいに関しても、男性同士のホモソーシャルな関係をセクシャルな関係に読み替えたものであるという指摘がしばしばなされる。

さらに、近年のいわゆる「男の娘」ブームも、ホモソーシャル理論で説明できるのではないかと考えている。外見は女性、中身は男性という「男の娘」は、男性自身が媒介たる女性に扮することによって、ホモソーシャルな関係とホモセクシャルな関係を同時に実現する存在なのではないだろうか。


(坂木)