2011年12月10日土曜日

高校野球の女子マネージャーじゃないけど、ドラッカーの『経済人の終わり』を読んでみた。

『経済人の終わり』はドラッカーの処女作であり、全体主義について書かれたものである。私の理解では、本書の趣旨は以下の通りである。簡潔にいうと、ファシズム全体主義が登場した背景には「経済人」という概念の崩壊があった。

マルクス社会主義は階級をなくすことができず失敗に終わり、ブルジョア資本主義は、自由と平等の実現という約束を履行できなかった。マルクス社会主義とブルジョア資本主義の信条と秩序は、いずれも個人による経済的自由を実現すれば自由と平等が自動的にもたらされるという目論見が誤っていたために失敗した。

そのため、双方の基盤となっていた人間の本性についての概念、すなわち「経済人」の概念が崩れた。経済的満足だけが社会的に重要であり、意味があるとされる。経済的地位、経済的報酬、経済的権利は、全ての人間が働く目的である。これらのもののために人間は戦争をし、死んでもよいと思う。そして、他のことはすべて偽善であり、衒いであり、虚構のナンセンスであるとされる。

このように人間を経済的動物(エコノミック・アニマル)とする概念であった「経済人」の社会が意味を失い、合理を失った。マルクス社会主義とブルジョア資本主義の旧秩序が崩壊した後も、新しい秩序は現れなかった。「経済人」概念の崩壊により、一人ひとりの人間は秩序を奪われ、世界は合理を失ったのである。

こうした中で現れたのがファシズム全体主義であった。しかし、ファシズム全体主義は何ら新しい信条や秩序を提供したわけではなかった。むしろそれは、古い形態の維持を可能にしつつ、同時に新たな実体をもたらし、新たな合理を与えた。そして軍国主義による脱経済化をはかった(ファシズム全体主義についての詳しい記述は本書をお読みいただきたい)。

私が注目したいのは、まさに「経済人の終わり」である。ドラッカーは経済人の終わりを宣言したが、果たして本当に「経済人」は終焉したのだろうか。確かに、全体主義は「経済人」に代わる新たな概念、秩序を提供することはなかったし、その敗北によって全体主義も息の根を止められてしまった。しかし、だからこそ、いまだに「経済人」に代わる秩序を見いだせていないのである。したがって、人々は「経済人」にすがるしかない。

少なくとも、戦後日本はまさに「経済人」の時代だった。経済的満足だけが社会的に重要であり、意味があるとされる。経済的地位、経済的報酬、経済的権利は、全ての人間が働く目的である(さすがに、これらのもののために人間は戦争をし、死んでもよいとは思わなかっただろうが)。バブルの崩壊でようやく「経済人」に懐疑の目が向けられて始めているというところだろう。さらにいうならば、近年のネオリベ的改革は「経済人」を復活させようとする試みではないかと私は睨んでいる。

この「経済人」概念には、決定的な欠陥がある。それは、何のために経済的地位、経済的報酬、経済的権利を得るのかということである。要するに、何のために金儲けするのか。そうした疑問が長い間置き去りになってしまった。いわば、本来であれば手段であるはずの金儲けが目的化してしまった。経済的に豊かになったはいいが、何のための豊かさなのか。それを考えるとき、実は「経済人」なるものは何ら我々に秩序を付与するものではなかったことが明らかになる。人々は虚無感におそわれる。その「大衆の絶望」がファシズム全体主義をもたらしたのだった。であるとすれば我々は、未だに亡霊のようにさまよっている「経済人」を終わらせ、秩序を取り戻さなければならないのだ。

賢明な読者はお気づきかもしれないが、かようなときにこそ宗教の必要性が出てくる。いうまでもなく、宗教は人間に秩序を付与するものだからである。しかし、ドラッカーは、キリスト教とその担い手たる教会は全体主義と対峙することはできなかったと述べる。とはいえ、ドラッカーが宗教の力に期待を寄せていることは間違いない。ここに、今日的な課題がみえてくるのではなかろうか。

先述した通り、「経済人」は空虚な概念である。それは我々に、経済活動へのインセンティブは与えるかもしれないが、我々の生に対する根本的な意味を付与しない。では、我々はどこに秩序を求めるべきなのか。保守主義の観点からいえば、それはやはり宗教であり、我々が培ってきた伝統に他ならない。しかし、「ヨーロッパの遺産たる知的、精神的価値への回帰は、それだけでは、社会的にいかなる影響力ももたず創造的でも生産的でもありえない」とドラッカーが述べるように、単なる復古で解決できるほど簡単なことではない。伝統的諸価値をいかに現代にあった形で応用していくか、それこそが今もっとも必要なことである。

補遺

ドラッカーの偉大さは、経済学が前提としてきた「経済人」概念の終焉を宣言したことにあると私は考えている。通常、経済学や経営学というのは、人間は自身の利益を最大化するように行動するものと仮定し、いかに効率よく多くの利益を獲得するかという点を重視する。しかしドラッカーはそうした「経済人」モデルの限界性を見抜いていた。その上で経営に関する多くの著書を執筆したのだから、本当に驚嘆する。彼にとっての経営学は、単に利益を出すことではなく、それ以上のものに価値を置いていたのだろう。

翻って、今日ドラッカーの著書がまさに「経済人」たるエコノミック・アニマルどもに利用され、ビジネス本の地位に貶められている状況をみるに、残念でならない。ウィキペディアには、柳井正氏が、ユニクロでドラッカー経営を実践しているとして取り上げられているが、本当だとすれば、やはりこの国ではドラッカーが「経済人」に蹂躙されているといわねばならない。周知のように、ユニクロは大学一年生でも採用するという方針を打ち出した。これは、早い段階から「経済人」を養成する試みに他ならない。

こうした状況を鑑みるに、未だにこの国では「経済人」が圧倒的に影響力を持っている(それは日本に限ったことではないだろうが)。TPPの問題にしてもそうだ。推進派のいうように、関税自由化で日本の輸出が増え、GDP増加につながるのはいいとしよう。しかし、GDP増加に何の意味があるのか、彼らは胸を張って答えられるのか。残念ながら、彼らからその答えを聞いたことはない。いい加減、経済よりも高次にあるものの存在に目を向けるべきだろう。それこそがドラッカーの言いたいことだと私は思う。

(坂木)