2011年8月30日火曜日
新総理誕生によせて
そして蓋を開けてみれば、小沢の操り人形と財務省の操り人形の戦いという滑稽かつ沈鬱な有様だった。野田氏が当選したところをみると民主党議員にも多少の良識はあったようだが、それでも海江田氏が決選投票に残ったということに対して愕然としてしまった。海江田氏では政権運営がたちどころに行き詰ってしまうことは火を見るよりも明らかだろうに・・・。
私自身は野田氏を積極的には支持しないが、やむを得ない選択だったろうし、少なくとも菅氏よりははるかにまともだろう。同氏は外国人参政権に反対するなど、民主党内では保守派である。鳩山・菅政権で失墜してしまった外交・安全保障の建て直しを期待したい。また、朝鮮学校無償化の審議が再開されたらしいが、無償化の中断を強く求めたい。
心配なのは財政・金融政策である。彼の増税路線をみる限り、財務省のスポークスマンであるといって差し障りないだろう。既に多くの識者によって指摘されているのでいまさら言うまでもないが、現在のようなデフレ不況下での増税は経済を壊滅させる。将来的な増税は否定しないにせよ、現段階での増税には慎重になるべきである。円高対策も喫緊の課題だ。彼が財務大臣時代には何かにつけて「注視する」と発言し、有効な対策がほとんど打ち出されなかった。総理大臣になっても注視し続けるつもりなのだろうか。
確実にいえることは、もう失敗は許されないということだ。震災復興や原発対策、外交・安全保障、財政再建、課題は山積している。これ以上民主党が失態を重ねるようであれば日本の没落は免れない。不安の種は尽きないが、総理になった以上、野田氏には良識ある真っ当な政権運営を期待したい。
(坂木)
2011年8月27日土曜日
書評『〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性』
まず感じたことは、戦後はナショナリズムが否定されたわけではなかったということである。もっとも、筆者は戦後を二つに分けて、終戦から1955年前後までを「第一の戦後」、そこから90年代までを「第二の戦後」と呼んでいることにしたがえば、ここでいう戦後は「第一の戦後」のことである。「第一の戦後」においては、左右を問わず新たなナショナリズムの形が模索された。例えば、丸山眞男は戦中の超国家主義的なナショナリズムを批判し、国民に根差した主体的なナショナリズムを示している。また共産党も、当時の政府を対米従属とその象徴たる憲法9条を批判し、民族の自立を訴えた。ちなみに、今日では考えられないことだが、当時「世界市民」という言葉はブルジョワジーと同一視され、共産党などの左派からは批判の対象となっていた。このように、当時は左派でもナショナリズムは肯定されていたのである。むしろ、反米や憲法9条反対といった当時の共産党の姿勢は現在の保守派の姿勢に近い。
では一体どこで現在のような左翼と右翼の思想が形成されたのだろうか。筆者によると、それは六〇年安保闘争前後の時期から、すなわち「第二の戦後」からのようだ。共産党のような既成の左翼勢力に反感を持った全学連や全共闘の学生などが中心であり、彼らは共産党や、丸山眞男や竹内好のような知識人を批判し、反民族主義、反権力などを掲げたのであった。このように考えると、現在の保守論壇でよくなされる“戦後民主主義批判”は実は「第二の戦後」を批判しているのである。
以上のような筆者の主張が本当であるとするならば、学生運動が日本の社会のみならず思想に与えた影響というものは非常に大きいし、我々のような保守派からいえば学生運動こそが今のような左派思想の状況を生み出してしまった元凶であるといえるだろう。仮に学生運動がなければ、左翼も未だに「真の愛国」を唱え続けていたかもしれない。
次に感じたことは、戦後思想にとって戦争体験というものが与えた影響の大きさである。戦争体験といっても個々人によってその内容はさまざまであるが、そうした体験が基礎となって思想が形成されたといってよい。しかし、それは良い面、悪い面両方を併せ持つといえる。良い面は、思想が単なる抽象に留まらず、ある種のアクチュアリティを持ったものになったということだ。丸山眞男の思想は戦争体験を経ずには生まれなかっただろうし、戦争を体験した者だからこその説得力もある。悪い面は、実際に体験したからこそ、戦争というもの、あるいは戦中の社会のありようを客観視することが困難になったことであろう。思想家それぞれが異なった戦争に対する認識を持つのもこのためである。
それは現在の我々にもいえることである。我々の多くは戦争を体験したことがない。それは我々の弱みでもあるし強みでもある。戦争を体験していないからこそ、戦争をいたずらに美化してしまうこともあるかもしれないが、同時に戦争を客観的に、冷静にみる視点も備わっているのである。
以上のように、本書は我々が一般に抱いている戦後とは異なったそれを提示している。私自身も本書を読むまでは「戦後=国家の否定、個人を重視」というステレオタイプを抱いていたが、必ずしもそうではなかったことは上述した通りである。
しかしながら残念な点もある。それは本書の結論の部分である。今まで多くのページを費やして戦後とその思想をたどってきたにもかかわらず、結論においては現在の保守派に対する陳腐な批判がなされている。「戦後は公を捨てて個ばかりを重視した」という保守派の常套句を誤った戦後認識だと批判し、保守派の言説の有効性に疑問を呈しているわけである。しかしながら、私はそのような保守派の言説が誤ったものだとは思わない。思想や言葉が個人の生まれ育った時代や環境に大きく影響されることを本書で示していたのではなかったのか。だとすれば保守派の人々が自身の生きてきた“戦後”をそのように認識し、それを批判することも決して誤っているとはいえない。なぜ丸山や竹内、吉本、江藤などの戦後認識を批判せず、現在の保守派だけを批判するのか。それは筆者がどちらかといえば左派の学者であるというのもあるだろうが、もしかしたら筆者には戦争を体験した者を特権化する意識があるのかもしれない。さらにいえば、筆者の示す戦後像も時代や環境に依存したものであるという可能性も当然出てくるだろう。
ただ、本書全体としては大変興味深いものであり、戦後という時代を考える上で参考になることは間違いないだろう。本書に対してはさまざまな評価が存在するようだが、少なくとも戦後認識のあり方のひとつとして尊重するべきである。その意味では是非とも一読を薦めたい一冊である。
(坂木)
2011年8月24日水曜日
下世話な話ではあるが・・・
島田紳助が暴力団との関係を理由に引退したことは世間では驚きをもって受け止められているようだが、私などからすれば何をいまさらという感じである。以前同氏が女性への暴行事件を起こした時期の文藝春秋(週刊文春ではない)で既に同氏の“黒い噂”は報じられていたからだ。同氏の周辺では暴力団との関係は半ば公然の事実だったようだ。一介の記者でも知りえたことを芸能関係者やマスコミ関係者が知らなかったとは考えにくい。「芸能界に衝撃!」とマスコミでは報じられているが実際はどうなのか疑わしい。もしかすると、これを皮切りに暴力団と関係のある芸能人が次々と暴露されることになるかもしれない。
それにしても、島田紳助という人物ひとりが引退したことでこれほどの混乱に陥るとは、いかに彼の影響力が大きかったかを物語っている。その一方で彼は嫌いな芸能人ランキングでも上位にくるほど視聴者受けは良くないようである。個人的な見解だが、それはテレビ局が芸能人の話術にばかり頼って番組作りを怠ってきたからではないだろうか。だからこそ局と視聴者との齟齬が生じるのではないだろうか。このままではますますテレビ離れは加速するだろう。テレビ業界はこれを機に脱タレント志向の良質な番組作りに臨んでほしいものである。
(坂木)
2011年8月20日土曜日
円最高値の報道を受けて
2011年8月18日木曜日
パトリオティズム―左翼の愛国心
先日『パトリオティズムとナショナリズム―自由を守る祖国愛』(マウリツィオ・ヴィローリ著)という書籍を読んだ。パトリオティズムというと郷土愛のようなものを指すと思っていた私にとって、この書籍の中で語られるパトリオティズムの定義は新鮮であった。
曰く、パトリオティズムは社会的、文化的、宗教的、あるいは民族的な同質性を必要としない、共和政体と公共の自由を愛する思想である。自由を愛し自由を守るために共和政体を維持していこうとする思想である。そしてこの思想は、文化的・民族的同質性を推し進め、排他的になりやすいナショナリズムとは対極にあるものだという。かくして著者はパトリオティズムを右派・ナショナリズムに対峙する左派の論理として位置づける。
このようなパトリオティズムの定義は私にとって新鮮であったが、同時にデジャビュも感じた。というのも、この種の議論は実はナショナリズム研究においてもなされてきたからである。いわゆる“シビック・ナショナリズム”というのがおよそ著者のいうところのパトリオティズムに近いだろう。シビック・ナショナリズムは文字通り、“市民としてのナショナリズム”であり、それは文化的・民族的同質性に基づいた共同体ではなく、自由や平等といった理念あるいはそうした理念を体現した憲法などに基づいた政治的共同体を支えていこうとする思想である。例えば、アメリカのようなさまざまな文化的背景を持った人々が集まる国家を想像すればよい。そこでは文化的・民族的同質性を持っているかどうかではなく、自由や平等といった理念に賛同できるかどうかが重視される。そしてそうした理念によって国民のアイデンティティーが形成されている。したがって、どちらの言葉遣いが正しいのかはわからないが、シビック・ナショナリズムとパトリオティズムというのはほぼ同義だと考えてよいだろう。
しかしながらここである疑問が生じる。自由を愛し自由を守るために共和政体を維持していこうとするパトリオティズムは果たして可能なのかという疑問だ。それは突き詰めていけば、社会的、文化的、宗教的、あるいは民族的な同質性は本当に必要ないのかという疑問に他ならない。さきほど私はシビック・ナショナリズムの例としてアメリカを挙げたが、これには続きがある。それはシビック・ナショナリズムに対する批判である。つまり、アメリカでは個々の文化的多様性を保ちながらも理念の下に国民が統一しているようにみえるが、実際には学校での歴史教育などを通じて彼らはアメリカ人に“なる”ことを意識的にせよ無意識的にせよ強制されているのである。シビック・ナショナリズムに対してこのような批判がなされている。ここからいえることは、結局のところ共同体が結束するには多かれ少なかれ文化的・民族的同質性が要求されるということである。
翻って、パトリオティズムについても同じことがいえないか。著者は、自由を守るためには市民の徳(市民道徳)が必要だと説く。では市民の徳とは何か。そもそも自由とは何か。それは根源的には個々の文化的コンテキスト(文脈)に依存するものではないだろうか。例えば、フランスにおけるブルカの公共の場での着用禁止が以前話題になったことがある。ムスリム女性がブルカを着用することを禁止した法律は、ある意味で彼女たちの自由を抑圧するものである。しかし一方では、この法律はフランス共和国の徳とその市民の自由を守るものであるともいえる。フランスでは“ライシテ”と呼ばれる政教分離の理念はフランスの市民の宗教的自由を保障するものであるからだ。このように自由の観念とそれを守る道徳は個々の文化的コンテキストに依拠するものである(そもそも、自由という観念そのものも西欧文化のコンテキストにあるといってよい)。
だからこそ文化的・民族的に近い者同士が国民国家という共同体を形成しているのである。もしパトリオティズムの論理に従うならば、必ずしも我々は日本という共同体を守る必要はない。我々の自由が確保されればよいのだから。そもそも文化的・民族的同質性に縛られない、自由を愛する人間は日本人である必要もフランス人である必要もない。パトリオティズムの論理を徹底していけば、いかなる民族的・文化的コンテキストにも所属しない空虚な人間像が浮かびあがる。しかし今まで述べてきたことから、そのような人間はあり得ないということがわかるだろう。人間は人間である限り何らかの民族的・文化的コンテキストに所属している。そうである以上、社会的、文化的、宗教的、あるいは民族的な同質性を必要としないなどということは断じてない。著者を含めた左翼勢力にはこの視点が欠落しているのだ。
以上のように、文化的コンテキストを抜きにしたパトリオティズムなる概念は非常に空虚な概念であるといわざるを得ない。著者はナショナリズムを排他的なものと決めつけているようだが、排他的ではないナショナリズムによる共同体の維持というのも十分可能だろう。
しかしながら、左派の側から共同体を積極的に支えていこうという思想が出ること自体が非常に意義のあることである。とりわけ、地球市民などという空虚極まりない概念を振りかざす日本の左派には共同体を護持していこうという観念が微塵も感じられない。左派が積極的に擁護する民主主義には元来その共同体を防衛する義務も伴っていた。著者も述べるように、自由を守るためには共和政体を守らなければならない。すなわち共同体の保守は右派の専売特許ではないのだ。そうした意味では著者のような姿勢こそが健全な左派のあるべき姿なのだろう。問題なのは、その共同体をいかにして守るのかである。民族的・文化的同質性に頼るのか、自由という理念に頼るのかである。私自身はどちらも必要であると思う。確かに自由は大切だ。左派に限らず保守主義者もまた自由を重視してきた。自由なき共同体など誰も居たくはないだろう。しかしその自由やそれを守るための道徳は共同体独自の慣習や文化、伝統によって規定されるのである。もちろん人によって意見は多々あろうが、いずれにせよ、著者がいうように右派と左派が同じ舞台に立った上で議論することが不可欠である。そのためにナショナリズムのオルタナティブとしてのパトリオティズムが重要な役割を果たすことだろう。
2011年8月6日土曜日
許されぬ、平和記念式典の政治利用
そもそも平和祈念式典においてエネルギー政策をとりあげること自体がナンセンスである。核兵器と原発は次元の異なる話だからだ。もしふたつを同一の次元で考えるならば日本は、そしてヒロシマは大きなアポリアに突き当たることになる。非核三原則を掲げておきながら原発を積極的に導入してきたのはどこの国か、島根にある原発の主な消費地はどこかを考えればわかるはずだ。人々の生命を脅かす核兵器と、人々の生活をより豊かにするためにつくられた原発とは性質が違う。結果的に原発が甚大な被害をもたらしたことは事実だが、かといって両者を混合するのはあまりにも乱暴である。
また、菅総理自身、昨年の平和祈念式典において核抑止力の必要性を認めていたではないか。その総理が今年は一転して反原発に鞍替えしたというのもいかにも奇妙だ。あるいは自らの保身しか考えない総理らしいともいおうか。
いずれにせよ、脱原発など平和祈念式典においてふさわしくない事柄である。平和祈念式典は犠牲者を厳かに追悼し平和への決意を新たにする場であって、政治的主張を語る場ではない。脱原発を議論することは大いに結構であるが、政治的パフォーマンスの道具にしてはならない。国民の生命にもかかわるエネルギー政策だ。真摯かつ丁寧な議論が必要なのである。
(坂木)
韓国入国拒否騒動によせて
鬱陵島を視察する目的で韓国に渡航した自民党議員が入国を拒否されたというニュースを聞いて、韓国の未熟さを感じた。私は別に親韓でもないが、韓国人サッカー選手の反日的侮辱行為に対する韓国世論の反応や東日本大震災への支援など、ここ最近韓国は成熟した国になったと思っていた。
しかしながら、領土問題となると“大人の”対応がまるでできないことが改めて明らかになった。今回のようなことは国際社会の韓国に対するイメージを悪くしたに違いない。そもそも、仮に竹島(韓国のいう“独島”)が韓国領であるというならば堂々と自民党議員の視察を受け入れればよかったのである。たかが3人の、しかも野党の議員だ。“独島”は韓国のものだと見せつけてやればいい。それができないということは、同島の領有権をめぐって両国間で紛争があると認めたに等しい。韓国は墓穴を掘ったわけである。
韓国側は議員の安全を確保できないという理由で入国を拒否したらしいが、それが本当なら韓国という国はたいそう危険な国なのだろう。もっとも、ヒステリックな抗議活動を目の当たりにすれば身の危険のひとつやふたつ感じるかもしれないが。地元のメディアも、「招かれざる日本の極右たち」、「極右勢力の政治イベント」、「日本の挑発が相次いでいる」などと感情的に報道したらしい。彼らのいうような血気盛んな“極右の先遣隊”が昼食にビビンバを食べて土産に海苔を買って帰るだろうか。まさに日韓の対応の違いを象徴するエピソードだ。
しかし、日本もいつまでも冷静な対応のままでは領土問題は一向に解決しない。政府は韓国側の措置に対して抗議したが、それだけでは不十分だろう。領土問題に妥協は禁物だ。今後は、竹島への視察など、より実効性のある対策が必要である。
(坂木)