2011年8月6日土曜日

許されぬ、平和記念式典の政治利用

8月6日、被爆者の方々は総理の言葉を聞いてどのように感じたのだろうか。平和記念式典でのあいさつで総理が「脱原発」に言及したのは政治的パフォーマンス以外の何物でもない。総理の権力欲に満ちた軽薄な言葉は被爆者や原爆で亡くなった人々を冒瀆するものであると強く非難しなければならない。

そもそも平和祈念式典においてエネルギー政策をとりあげること自体がナンセンスである。核兵器と原発は次元の異なる話だからだ。もしふたつを同一の次元で考えるならば日本は、そしてヒロシマは大きなアポリアに突き当たることになる。非核三原則を掲げておきながら原発を積極的に導入してきたのはどこの国か、島根にある原発の主な消費地はどこかを考えればわかるはずだ。人々の生命を脅かす核兵器と、人々の生活をより豊かにするためにつくられた原発とは性質が違う。結果的に原発が甚大な被害をもたらしたことは事実だが、かといって両者を混合するのはあまりにも乱暴である。

また、菅総理自身、昨年の平和祈念式典において核抑止力の必要性を認めていたではないか。その総理が今年は一転して反原発に鞍替えしたというのもいかにも奇妙だ。あるいは自らの保身しか考えない総理らしいともいおうか。

いずれにせよ、脱原発など平和祈念式典においてふさわしくない事柄である。平和祈念式典は犠牲者を厳かに追悼し平和への決意を新たにする場であって、政治的主張を語る場ではない。脱原発を議論することは大いに結構であるが、政治的パフォーマンスの道具にしてはならない。国民の生命にもかかわるエネルギー政策だ。真摯かつ丁寧な議論が必要なのである。

(坂木)